[凍てついた記憶]
淡いブルーの光が、宙をたゆたう。静かなジャズが光の合間を縫うようにして流れていく。グラスを揺らせば、氷がぶつかって澄んだ音が聞こえた。 体の中に染み渡ってくるようで、気持ちが落ち着いてくる。俺はグラスに口を付けて、アルコールを一口あおった。口の中に広がる香り。ひんやりとした液体が舌の上に載る。辛みが舌を軽く刺激した。 きらびやかに飾り立てる店の中で、少し暗い印象を受ける、奥まった場所にある居酒屋だった。勇也と二人で歩いている時に不意に目に入った店だ。お互い入ったことのない店だが、妙に惹かれるものがあった。きっと、けして明るくない雰囲気が今の俺たちの気分にしっくり馴染んだのだろう。 店内はそう広くない。カウンターの周りに、エル字形に客席が散らばっている。客の入りは六割といったところだ。繁盛しているとは言えないが、先ほど厄介な目にあったばかりである。これくらいの人口密度が丁度良かった。 俺たちは一番奥の席を選んだ。丸い二人用の席に勇也と向かい合って座った。紺色の座席は、誰かの髪の色を思い出させる。暗く優しい夜空の色だ。 勇也はメニューが読めなかったので、唯一理解できるビールを頼んだ。俺は辛口の酒。男二人で酒をあおるのはわびしいものだが、たまにはこういうのも良い。もともと楽しい気分なんかじゃなかった。嘲るように口の中を刺激する酒は、しんみりした気分を際だたせる。 酒に強いタイプではない勇也は早くも顔を赤くしていた。真っ黒な瞳がうつろになっていく。俺の方を見ているのだが、焦点はどこに合っているのか判然としない。 俺はグラスをテーブルに置いた。 「最近、調子はどうだ?」 勇也がはっと顔を上げる。瞳に意識が戻り、俺の目を見つめた。回らない頭で俺の質問の意味を巡らせてから、ゆっくりと言葉を舌の上に載せる。 「ぼちぼちでんな」 お前はどこの商売人だ。俺は喉の奥で笑いをかみ殺す。 別に本気で近況が聞きたかったわけではない。だいたいのことなら新聞で目にしている。若くして全国を征した日本の空手家、赤桐勇也がアメリカへ渡る。日本でのそのニュースを聞いたのが一月前。正式にいつ頃アメリカに来たのかは知らないが、アメリカの空手道大会でも上位に入賞した勇也の話題がスポーツ新聞の紙面に載るのに時間はかからなかった。 今時日本でも珍しい、生真面目な性格。日本贔屓のそのキャラクターが、思いの外アメリカでうけたらしい。「ジャパニーズ・カラテ」にふさわしい人物性から、日本空手道家の代表として祭り上げられた。いつぞやの勝利インタビューで「勝利の秘訣は?」と聞かれ、「大和魂」と大まじめに答えていたニュースを見た時は本気で爆笑した。一人で何人分も笑った。 今も勇也が出場する大会は行われているらしく、それなりに活躍しているというニュースが俺の耳にも入ってくる。ずいぶん有名になったものだ。なのに当の勇也は全然その自覚がない。こうして目の前にいてもなお有名人である実感が沸いてこないのだから不思議だ。 勇也はついでのように「お前は?」と尋ねた。俺も「ぼちぼちでんな」とか答えてやろうかと思ったが、そうなると会話がとたんに途切れてしまう。口べたな勇也のために、俺が喋ってやることにした。 「特にこれといったことはないけど、今研修医をやってるよ。順調にいけばもう少しで医者になれる。」 「何の医者?」 「小児科にしようと思ってる」 勇也は口の端を下げて、目を細めた。表情があからさまに「うさんくさい」と物語っている。俺にも自覚がないわけじゃない。口の端を歪めた。 「子供って、すげー弱い存在だと思うんだよね。だから誰かが守ってやらなきゃいけないと思うんだ。 子供の内ってどんな病気も辛いじゃん。じんま疹も中耳炎もよくあることだけど、大人がそれにかかるよりもすっごく辛く感じる」 細っこい腕、小さな頭。どこかにぶつけただけで壊れてしまうんじゃないかと思うほど弱々しく見える時がある。それが大声あげて泣いているとき、とても辛そうに思える。 実際、子供の頃体験した病気やけがはものすごく辛かった。初めて経験する恐怖に耐えられずに泣いてしまうのだ。これから先どうなってしまうのだろう。絶望にも似た恐ろしさは、小さな身体を容易に飲み込んでいく。 「そういうのをさ、少しでも和らげてあげたい」 水滴に濡れたグラスの縁を親指でなぞる。今までは、自分の周りのことしか手が回らなかった。その上、守れなかった。大切なものはどんどんこぼれ落ちていく。だからもっと守りたいと思った。 例えそれが、自分の空虚感を埋めるための時間稼ぎだとしても。 俺はグラスに残った酒を口の中に流し込んだ。アルコールのにおいが鼻を突いた。氷が崩れて小さな振動を作る。空になったグラスを再び置いて、俺は手を挙げてカウンターにいる店員に声をかけた。別の酒を頼む。 勇也はビールのほとんど残っていないジョッキを両手で握りしめ、大きくしばたたく。「お前でも色々考えとんのやな」口からは感嘆の声が漏れる。「お前でも」は余計だ。 共に過ごした高校の頃とさして変わらない、子供じみた反応。勇也が酒を飲んでいるのがとても不自然に思えた。でかいコップに麦茶を注いで、一気飲みしている方が似合っている。 勇也は上を向いて、ビールの残りを注ぎ込む。太い首に埋め込まれた喉仏がごくりと動いた。「苦い」と呻く。この店のビールは口に合わなかったようだ。 「俺は黒ビールの方が好きやな」 ジョッキの縁に歯を立ててぼやく。白い歯がのぞいた。 酒が切れて、口寂しくなる。タバコが吸いたくなってきた。周りを見回してみると、頭の天辺がはげた白髪交じりの男がタバコを吸っていた。禁煙ではないらしい。 俺は胸ポケットからタバコの箱を取り出すと、腹を指で押し上げ、タバコを一本取り出した。 「吸っても良いか?」 尋ねると、勇也はジョッキから口を放し、視線を上にやる。「うーん」と呻いて頬杖をついた。ごつい手が頬を覆う。 「別に良い」という言葉が返ってきて、少し意外に思った。たぶん、高校時代に散々タバコを吸うなとわめかれたからだろう。あの頃は未成年で、今はもう成人しているのだから、当たり前の反応かもしれない。だけど奇妙な感じだ。 きっと俺たちの中の時間は、あの頃のまま止まっている。同じ児童養護施設で育ち、そりが合わなくて喧嘩ばかりしていた頃だ。十二の頃に入れられ、六年間育った児童養護施設、日暮園。一緒に暮らした仲間は、今でも俺の家族だ。 いつの間に年を取って、バラバラになったのだろう。仲間の中で一番最初に飛びだったのは俺だった。気がついたら、みんな次々にいなくなっていた。 俺はタバコを唇に挟む。ジーンズのポケットからジッポーを取り出した。給料日に新調した、まだ新しいジッポーだ。高校時代は彼女からもらったものを代わる代わる使っていたけれど、今ではすっかりこれに定着している。 ギザギザに指をあて、歯車を回すと、手の中で小さく音が響く。赤い炎が生まれた。炎の頂点にタバコの先をかざす。熱が移り、タバコが赤く燃えた。 ジッポーのフタをしてテーブルに置いたままにする。タバコの煙を思い切り肺の中に入れた。酒に濡れた喉にしみる。苦い味が口を満たす。吐息を舌の上に載せて、タバコの味を楽しんだ。 吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出す。煙に侵された息は、暖かい室内でも白く濁る。ああ、寒い。心の中でぽつりと呟く。 勇也が小さく咳き込んだ。軽い既視感。施設で一番仲が良かったあいつ。少しだけからだが弱かった。俺がタバコを吸うとむせた。咳き込むときのあいつはひどく弱々しくて、そのまま崩れていくんじゃないかと思った。怖かった。だからどんなに勇也に言われてもタバコをやめなかった俺が、あいつの前ではタバコを吸わなかった。 まだ長いタバコを口から放す。灰皿を探した。テーブルの端に、黒い灰皿がちょこんと置かれていた。紺色の中に隠れて同化していた。 タバコを灰皿に押しつける。よく磨かれた陶器の表面に、白っぽい灰が落ちる。俺は短く息を吐いた。すぐに新しいタバコを取り出す。タバコを口にくわえるのと、勇也が口を開くのは、ほぼ同時だった。 「なぁ」少しかすれた声で、言葉を喉から押し出す。「俺も吸ってみてええか?」 驚いた。背もたれに手をかけ、一瞬腰を浮かせる。後ろに引いたイスが床にこすれて嫌な音を立てた。 勇也は成人しているしタバコを吸ってはいけない理由はない。アスリートには大きな痛手かもしれないが、愛煙家のアスリートもいなくはないだろう。でも奇妙な違和感があった。 俺は動かない指に無理矢理力を込める。「ああ」と言ってタバコの箱を前に突き出すのが精一杯だった。 勇也はおそるおそる指を伸ばして、箱に触れる。指の先で箱を押さえて、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。箱の口から指でタバコを一本つまみ出す。なかなか取り出せないのが情けない。俺はその動作から目が離せなくて、一部始終を見つめ続けた。 ようやく出したタバコを口にくわえようとする。「逆だ」タバコの向きを指摘してやると、勇也は気のない返事をして向きを変えた。ついでにジッポーを勇也の方へ滑らせる。シュルシュルと音を立てて一直線に進むジッポーを手のひらで捕まえて、フタを開けた。 俺がやったのを真似して、勇也が歯車を回す。一回では火はつかなかった。空回る音だけが何度も鳴る。焦っている。そんな手つきだ。 「――昔タバコ吸っとったお前の気持ち、今なら少し判るわ」 勇也が自嘲気味に呟いた。何かを誤魔化したい気持ち。タバコの煙でぼかして、何もかも見えなくしてしまいたい。それを、勇也も持っているというのか。 見かねて俺は手を伸ばした。勇也は俺の手とジッポーを交互に見つめ、俺の手の中にジッポーを落とす。勇也の手は温かくて、ジッポーは温もっていた。 俺は自分のタバコに火を点ける。淡い煙が上がった。タバコの先が赤く色付く。 勇也に手の甲を向けて、人差し指を動かす。「こっちに来い」そう言うと勇也は律儀にも立ち上がって俺の隣まで来た。情緒感のない男だ。いちいち言ってやらないと理解しない。 「タバコ、くわえろ。それと、ちょっと屈め」 何も考えずに勇也は言うとおりにする勇也の頭が俺の顔の位置まで来る。俺は少し上を向いて、勇也に顔を近づけた。勇也の視線とぶつかる。少し骨張った勇也の顔からは幼さが削ぎ落とされて、精悍な顔つきになっていた。表情だけは変わらずに勇也の顔に灯っている。 タバコとタバコの端が当たる。感触が唇に伝わってきた。俺のタバコの火を押しつける。思いの外顔が近い。勇也は硬直しているのかぴくりとも動かなかった。 勇也のタバコに赤い火が灯る。タバコのにおいが鼻を突く。俺の炎が、勇也を焼いた。 意識を引き戻したのは強烈な咳き込みだった。勇也が身体を大きく折り曲げる。口元を覆って、肺に入ってきた異物を取り除こうと、空気を全部外に押し出す。俺は妙に冷めた思いでそれを見ていた。 馬鹿なんだな、こいつは。誤魔化すことも知らないで、全部正面で受け止めて。それじゃ、辛いだろう。 だけどそれ以外知らない奴なんだ。それ以外できない。だから慣れないことをすると、こういうことになる。 店内の視線が、一斉に勇也に向いた。勇也も突き刺さる視線に気付いたようで、口元を手の甲で押さえ顔を上げる。眉間には深いしわが寄っている。 『慣れないのにタバコなんて吸おうとするからだ』 周りに判るよう英語で簡潔に言った。たいていの野次馬は原因が判るか事態が収束するかで興味を失う。原因がタバコの煙だと知ると、面白いほどに視線は散っていった。 突然飛び出した英語に、勇也が眉をひそめる。同じことを日本語で言ってやった。勇也は「俺にも忘れたいことがあるんや」と言って、目をそらした。 「きっついわ」 低い声で吐き捨てるように言う。相当口に合わなかったらしい。それもそうだろう。俺が吸っているのはヘビースモーカー向けの辛口のやつだ。初めて吸う奴がいきなり吸えるものではない。度数の高い酒を一気飲みするようなものだ。 「熱っ……」 さらに顔をしかめて、勇也は手を振るった。こぼれ落ちたのは、火のついていないタバコ。手のひらでもみ消したらしい。熱いに決まっている。 俺はイスから降りて勇也の手を開く。肉が焼けたのか、それともタバコのススか、黒くなっていた。落ちたタバコをつまみ上げて灰皿に捨てる。グラスに残っていた氷を俺の手のひらに落とし、勇也の手に握らせた。 勇也の腕を引っ張って席に座らせようとする。勇也は俺の手を振り払った。一度腕を引き寄せてから上に持っていき、下に振り下ろして引き離す。綺麗な動作だった。空手の型でそういう技があったなと思い出す。 勇也は少しうつむいた。 「すまん、外の空気吸ってくるわ」 違和感が残るのだろう、のど元を押さえながら俺に背を向ける。頼りない足取りで店の入り口を目指す。薄暗い店内を彷徨う勇也は亡霊のようだった。氷を握りしめて手から水が滴り落ちる。暗いからよく見えないが、絨毯に黒ずんだ点々を残していることだろう。 勇也が出ていくのを見届ける前に、店員がオーダーした酒を持ってきた。盆の上からグラスを下ろすと、片言の日本語で「どうしましたか」と聞いてきた。俺はゆっくり「大丈夫です」と告げる。 店員は首を傾げながらも引き下がっていく。勇也がいなくなって、店の中の温度が下がったように感じた。周りには知らない人間ばかり。特に談笑することもなく、ジャズと淡い光に絡まれながら酒をあおる。いつもだったら俺を落ち着かせてくれるであろうこの雰囲気は、今はかえって寒々しかった。 俺は寒さを誤魔化そうと、新しい酒に口を付ける。ほんの少しだけ甘い味が、ほのかな炭酸と一緒に舌に絡まる。口の中でやかましく踊って、空元気を演出した。 |