[凍てついた記憶]


 無機質な機械音が鳴り響く。俺は暗闇の中で目を開いた。カーテンを開け放したままの窓から、町の明かりが漏れる。ここはマンションの二十階、眼下に広がる光の海は、天井をぼんやりと照らすに過ぎない。
 俺はソファーから背を起こして、カーテンに手を伸ばした。半ばほどまで引っ張ってきて、手を止める。反対側のカーテンには手が届かなかったので、仕方なく立ち上がった。
 肩が痛い。ソファーに寝転がっていたからだろう。帰ってきてから、背広も脱がずにぼんやりしていた。週末で疲れていたせいもある。研修医の仕事もなかなかハードだ。
 たぶん俺目当てなのだろう、おしゃべりな女の看護士はやたらと俺に仕事を持って来たがる。たぶん妬ましいのだろう、男の医者はやたらと俺に仕事を押しつけたがる。頼むから仕事に私情を挟まないでくれと言いたい。それが言えないのが、弱い研修医の立場だ。
 明日は久しぶりのオフだ。デートの予定も仕事仲間のつき合いも全部入れていない。思い切りのんびりしようと決めていた。とにかく、眠りたい。俺がまぶたを閉ざした直後に鳴り響いたのが、電話の音。
 電話の置いてある、リビングの入り口の方へと歩み寄る。暗闇の中でソファーの背もたれを伝いつつ、のろのろと受話器を目指した。電話はまだ鳴っている。なかなかしつこい。これだけ出るのを渋っているんだから、出たくないのだと判らないのだろうか。きっと電話の相手は病院かデリカシーのない奴に違いない。
 どちらにせよ、ろくでもない。だがまだ電話が鳴っているので、俺は受話器を手にした。冷めたプラスチックを頬にくっつける。「Hello.」不機嫌さを隠すことなく、応えた。
 電話の相手はなかなか反応を返してこない。確かに受話器の向こう側に人がいるのは判る。呼吸音や息を飲む音が耳に届いた。いたずら電話だろうか。切ろうと思って受話器を耳から放した瞬間、ようやく男の声が聞こえた。
「もしもし?」
 日本語が聞こえたことに驚いた。日本語なんてどれくらい聞いていなかっただろう。高校の卒業を待たずしてアメリカに来て以来、ほとんどアメリカにいる。元々英語が得意だったので、英語での生活に苦労はないし、日本人の知り合いも現地にはさしていなかった。
 いや、何人かアメリカに来ていることは聞いていた。ただ連絡は取り合っていなかった。お互い電話番号くらいは知っていたものの、用事もないので実際にかけたことなどほとんどない。
 久しぶりに聞く声は誰のものだか判らなかった。俺は「もしもし」と日本語で言い直す。聞こえてきた日本語に安心したのか、受話器越しに小さな吐息が伝わった。
「えっと……悠大か? 赤桐勇也やけど」
 フルネームで言うところが勇也らしい。律儀で真面目な性格は変わっていないようだ。懐かしくて、思わず頬が緩む。
 思えば、勇也は英語がまるでできなかった。俺が英語で話しかけたものだがら、戸惑ったのだろう。何と応えて良いか判らなかったに違いない。一瞬、英語でからかってやろうかという考えがよぎったが、せっかくかけてきてくれた友人のために、それはしなかった。
「久しぶりだな、勇也」
 数秒の間をおいてから、「久しぶりやな」と返ってくる。国際電話の調子が悪いのかとも思ったが、そんなはずはない。勇也は今アメリカにいるはずだ。新聞で見たことがある。毎日新聞やインターネットのニュースをチェックしているけれど、帰国した、という記事はまだ見ていなかった。
「何の用だよ。忙しいんだろ?」
「……俺の試合は明後日やから、ちょっとだけ暇がある」
 俺は「うん」と声だけで相づちを打った。
「それで?」
 間を置かずに尋ねると、勇也はまた黙り込む。いまいち要領を得ない。
 俺はリビングのドアに背を預ける。腕を組んで、受話器に耳を押しつけ直す。電話の向こうで、勇也が奇妙なうめき声を上げていた。本人は答えようと努力しているのだろうが、言葉になっていない。
 待たせたあげく、勇也の口から出た言葉は、非常にシンプルだった。
「今から、会えへん?」
 くさいドラマの口説き文句みたいなセリフに、俺は返事より先に笑いを返した。

 待ち合わせ場所に行くまでに、何度引き返そうと思ったことか。俺は電車の背もたれに寄りかかりながら、流れていく景色を見つめた。すっかり闇に馴染んだ町並みは、ネオンを灯して夜を謳歌している。
 窓の桟に肘を載せて頬杖をつく。人差し指で耳の後ろを叩いた。タバコが吸いたい。無味無臭の空気を吸い込んで、苦い味を恋しがる。
『ねぇ、あなた一人?』
 声がした方へ振り向くと、金髪の女が立っていた。癖のあるショートカットをヘアバンドでまとめている。全く知らない女だ。たぶん逆ナンというやつであろう。
 別に誘いに乗ってやっても良いのだが、今日はあいにく日が悪い。俺は疲れている。勇也との待ち合わせは、個人的にはすっぽかしたって全然かまわない。
 こういったことには慣れている。俺は女の顔を真っ直ぐのぞき込み、体の良い愛想笑いを浮かべた。
『残念ながら、待ち合わせ場所に行くところなんです』
 アナウンスが聞こえてきて、もうすぐ目的地が近いことを知った。俺は親指で窓の外を指さす。
『次の駅で降りるんですよ』
 俺が答えると、女は肩をすくめる。少し大げさな英語で「それはとても残念だわ」と言った。肩を下ろして笑みを浮かべる。そのまま手を振って空いている座席の方へと去っていった。
 形だけ手を振り返す。あっさりした性格の女で助かった。時折名前や職業、住所を答えるまで離れない奴がいる。基本的にフェミニストである俺でも、目的地間際でそんなことをされたらたまらない。電車は、待ってはくれないのだ。
 電車が止まって、身体が進行方向の逆に引っ張られる。車体が完全に停止したのを見計らって立ち上がった。ドアが開き、人が外へと流れていく。人の合間を縫って、電車の外へ出た。
 帰宅には少し遅い時間、駅のホームには肩を落としたサラリーマンが多く見られた。残業帰りで疲れていることだろう。代わりに、エネルギーにあふれる若者たちはこれから夜の町へ繰り出す。寒くなったというのに、肌を大胆にさらけ出した服を着て、背筋を伸ばし、背広姿の男とすれ違う。
 背後でドアが閉まる。銀色のフォルムがゆっくりと動き出す。人の動く列に加わりながら、流れていく車体を横目に眺めた。腕時計を見ると、約束の時間より五分遅れていた。別にかまいはしない。わざわざ俺が、そう近くもない駅へと出向いてやったのだから。
 待ち合わせ場所にしたのは勇也が泊まっているというホテルの最寄り駅だった。勇也にとって圧倒的に都合のいい待ち合わせ場所である。そうした理由は簡単だ。英語が苦手な勇也に、アメリカの地名は理解できなかった。
 俺の住んでいる場所どころか自分がいる場所も勇也には判らなかった。仕方がないからホテルの名前を調べさせて、最寄り駅の場所を教えた。それだけでも手間だった。俺の住んでいる所までこれるはずもなく、必然的に俺が行く羽目となった。
 これから会えないかと言った方が会いに来いよ。これがもし女性とのデートだったら一発でアウトだ。そんなことを考えつつも会いに行く俺は意外と律儀なのだろうか。
 理由は、判らなくもない。何故勇也が突然俺に会おうとしたのか。
 雪が降ったからだろう。あいつが生まれた季節。あいつが好きだった季節。あいつが――いなくなった季節。
 きっと、また冬がやってきたからだ。

 階段を駆け上って改札口を出る。改札口の外側には道が三本に分かれていた。左右の道には色とりどりのショーウィンドが並び、正面の道が外に続いている。俺は真っ直ぐ進んだ。ガラス張りのドアに近付くと、アメリカの町にそぐわない勇也の姿は、すぐに見つけることができた。
 深緑のジャケットを着込んで、首を襟に埋めるように肩をすぼめている。足は小刻みにステップを踏んで落ち着かない。始終視線を移して、不安な顔をしている。道に迷った観光客のようだった。
 寒いのだから中に入ればいいのに、勇也はドアの外でガラス越しにこちらを見つめている。鼻の頭を赤くして白い息を吐く。たぶん待ち合わせ時間よりもずっと早くからそこにいたのだろう。
 だいぶ近付いたのでこちらに気付くと思ったのだが、勇也は気付かないまま町の方へと顔を向ける。
 よく見ると勇也の傍に誰かが立っている。ニット帽を耳の所まですっぽりかぶっていて、帽子の下にはストレートの金髪が見える。もう一人は勇也に隠れてよく見えない。両方とも女性のようだ。
 勇也も日本人でいえば平均以上の身長なのだが、彼女らの背丈は勇也とほとんど変わらない。ニット帽をかぶっているせいで余計大きく見える。
 どうやら女性二人は勇也に話しかけているようだった。勇也が手を大きく振って必死で答えている。あの慌てようを見るとたぶん英語なのだろう。見るからに日本人の勇也だから、多少は易しい英語で話しているのだろうが、半ばパニックに陥っている勇也に対してはそれでも通じない。女性たちは顔を見合わせて困った顔をするが、それでもなお話し続けた。
 俺はガラス戸を押して外に出た。外気が顔面をなでる。体の芯は熱い。その温度差が気持ち悪かった。
 女性たちの声が間近に聞こえる。勇也はまだ俺に気付いてない様子だ。
『もしかして、あなたはユウヤ・アカギリさんですか?』
「あ、あいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ」
 泣き出しそうな声を出して、勇也が唯一知っている英語を繰り返す。英語とも日本語とも言えない言葉の羅列に女性たちも困惑している。
 お互い非常に単純なコミュニケーションしかしていないのに、手間取っている。端から見ればずいぶん滑稽なことだ。しかも「ユウヤ・アカギリ」はイントネーションこそ違えど英語ではない。れっきとした勇也のフルネームだった。せめて自分の名前くらいは聞き取ってくれ。俺は思わずため息をついた。
 俺は一歩引いた所から三人のやりとりを眺めていたのだが、徐々に視線が集まってきた。「ユウヤ・アカギリ」の名前に反応しているのだろう。立ち止まって勇也の方を見ている者もいた。
 さすがにやばいと思い始める。昔馴染みの身としてはいまいちピンとこないが、勇也も一応有名人だ。このまま野次馬に掴まると面倒なことになる。
『すみません、どうしましたか?』
 俺はまず英語で女性たちに話しかけた。三人が同時にこちらを見る。勇也はまた新たに外国人が話しかけてきたのかと思ったのか、一瞬情けない表情を見せる。
「遅れて悪い」
 今度は日本語で言った。相手が俺だと判ると、勇也は急に笑顔になった。「悠大!」と声を上げて、俺のコートにしがみつく。黒い瞳は潤んでいる。垂れ下がった耳が見えるような気がした。
 勇也の様子を見て、彼女たちは顔を合わせて言葉を詰まらせる。
 特に整った顔立ちではないが、スポーツをやっているのか、肌には張りがあった。勇也に隠れて見えなかった方の女性は、眼鏡をかけた気弱そうな子だった。
 ニット帽の子がこちらに向き直る。
『この人が、ユウヤ・アカギリさんなんじゃないかと思って、声をかけたんです。私たち空手をやっていて、アカギリさんのファンなんです。サインをもらいたいんですけれど、言葉が通じなくて』
 続けて『日本語も勉強しておけば良かったわ』とぼやいた。東洋人の顔を見分けられるとは、なかなかのファンらしい。ニット帽の子は目の前の人物が赤桐勇也であると確信しているようだった。
 逆に、眼鏡の子はもう人違いだと思っているらしい。ニット帽の子の服を引きながら身体を寄せる。小さい声で『もう行こうよ』と言った。ニット帽の子はそれを振り払って『絶対本人よ!』と叫ぶ。
 また人が振り返る。これ以上目立つのは良くない。俺はすがりついたままの勇也を見下ろした。コートを引っ張って放さない。安くないのだからやめてくれと抗議したかったが、今はそれどころではないだろう。
「あのさぁ、何も喋るなよ。テキトーに誤魔化すから」
「喋ろって言われたって何も言えんわ」
「それもそうだけど、一応確認。真剣な顔してじっとしてろ」
 真剣な顔、と言われて勇也は必死に硬い表情を作った。唇を横に引っ張って眉間にしわを寄せる。どう見ても間抜けな顔にしか見えないが、これが勇也の「真剣な顔」らしい。
 俺は笑いたくなるのを堪えて、深く頷いた。女性たちに向き直る。
『今……本人に話を聞きましたが、別人だと言っています。イサム・キリウさんと名乗っています』
 眉をひそめ、言葉を詰まらせ、「非常に言いにくいのですが」といった雰囲気を醸し出す。あまりにすらすら言ってしまうとかえってうさんくさい。名前も今即席で考えた。
 もし彼女たちが日本語を少しでも知っているなら、簡単にはだまされてはくれないだろう。勇也が俺を呼んだ時点で、知人なのだということがばれてしまう。だが彼女たちの様子では本当に日本語が判らないらしい。俺が英語で言った言葉だけを信じ込んで、ニット帽の子が口元を両手で覆った。
『まあ、本当にすみません! 私ったら勘違いしていました!』
 『ごめんなさい』と繰り返しながら、深々と頭を下げる。急激な態度の変化に、勇也はびっくりしているようだった。一歩下がって、頭を下げる彼女たちから遠ざかる。
「たぶん、これで大丈夫」
「ホンマか!」
 勇也はぱっと顔を上げて、安堵の息を吐く。やっと落ち着いてくれたようで、コートから手を放した。俺のコートはすっかりしわしわになっていた。勇也の手の跡がつき、ちょっと湿っている。
 さて、これが最後の仕上げだ。いちいち勇也に話を振っているのは、わざとである。さも通訳しているかのように見せるための演出だ。
『彼は気にしないでくださいと言っています。どうぞ顔を上げてください。そんなに謝られると、彼も申し訳なくなってしまうでしょう』
 もちろん、勇也が実際に言っている言葉とは全く違う。それでも日本語が判らない彼女たちには、勇也が俺の言葉通りのことを言ったように聞こえる。
 ニット帽の少女は顔を上げて、すっかりぐしゃぐしゃになった髪を耳にかけた。眼鏡の子はずっと顔をしかめている。「ほらやっぱり」とでも言いたげな表情だ。
 彼女らは何度も頭を下げながら去っていった。始終状況を理解していなかった勇也は、首を傾げながらそれを見ている。
 俺は勇也の背を叩き、顔は向けずに「お前も会釈しておけ」と小声で言った。訳がわからないながらも勇也は軽く頭を下げる。それを見ると、彼女たちは安心したように背を向け、人波に沈んでいった。
 場が収まったのを見ると、立ち止まっていた野次馬たちも自然と消えていく。やがてこちらに注目する者はいなくなり、駅前は平凡な風景を取り戻した。
 彼女たちが戻ってくるのを恐れてか、勇也はしばらく二人が去っていった方を見続けた。ややあって、もう大丈夫だと悟ると、すっかり汗をかいた手のひらをズボンで拭う。
「結局、何だったん?」
 俺がせっかく骨を折って説得していたというのに、この男は何も判っていないらしい。判っていないからこそ俺は平気で嘘をつけたのだが。
「お前を目標に空手をやっている子で、記念にお前の名前を持ち物に書いてほしかったんだと」
 勇也の苦手な「ファン」とか「サイン」という横文字を避けて説明する。こいつなら「ファンて、扇風機みたいな機械やろ?」と平気で言いかねない。
「名前書くくらいやったら別に追い返さなくても良かったんちゃう?」
 いや、ちゃんと説明しても的はずれなことを言ってきた。どうして俺はこんな奴のために助け船を出したんだ。俺の苦労を返してくれ。
 俺は思わず大きなため息をついた。白い息が空気中に霧散していく。怒る気力さえどこかに行ってしまった。
 本当に判っていない。何も判っていない。俺は額を押さえた。心なしか頭が痛くなってきた。
「あのな、一人にそれをやったら次々と同じことを求めてくる奴の相手をしなくちゃならなくなるぞ。第一変装も何もせずにそのままの格好で出てくるかなぁ。自分が有名人だって自覚はあるか、ユウヤ・アカギリ」
「あいつら知り合いじゃあらへん」
「お前は知らなくても向こうは知ってるんだ!」
 あまりの無頓着に、俺は柄にもなく声を荒げた。何でもかんでも自分と一緒だと思うな、この自己中心馬鹿が。こいつといると自分のペースがまるで狂わされてしまう。勇也がいつまで経っても成長しないからいけないのだ。
 昔からそうだった。自分がこうするから他人もこうするはずだ。どこぞの頑固親父のようにそう思いこんでいる。ピアス一つに「校則違反だ」「だらしがない」とわめかれ、俺もずいぶん悩まされたものだ。さすがに大人になった今では、そのような些細なことに口出しはしないものの、勇也節は健在のようだ。
 やっぱり来るんじゃなかった。会って五分で疲れ果てて、俺は帰りの電車のことを考え始めていた。そんな俺の気持ちなどつゆ知らず、勇也はへらへら笑っている。さすがにむかついてきて、俺はその頬を思い切りつねりあげた。



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