[凍てついた記憶]
白いドアを閉める。外気にさらされたドアノブはすっかり冷え込んでいて、氷のように冷たかった。指先から体温が奪われていく。 外は寒かった。空を見上げると、白い雲が隙間なく敷き詰められている。町の明かりを反射して、妙に明るい。今がか何時なのかを忘れさせる。雪が降り出しそうな空だった。 早く帰らないと電車もなくなってしまう。勇也が出ていった後に一人で飲んだ酒は思いの外ピッチが上がらなかった。ちびりちびり進めていたら三十分近く経過した。勇也が帰ってこなかったので会計は俺が済ませた。結局勇也の分まで俺のおごりだ。やっぱり来るんじゃなかった。改めて思う。 ドアの外の階段を上る途中、出口の端に寄せられた黒い影が目に入った。邪魔な荷物だ。来るときにはなかった。いったい誰が置いたのだろうか。白々しいことを考えながら荷物の横に立つ。緑色の包装から突き出た黒い頭部が、もそりと動いた。 両膝を抱えて、両手で抱え込む。壁に背中をくっつけ、顔を膝に載せていた。道ばたに座り込んで邪魔な荷物になった勇也は、小さく縮こまりながら震えていた。 勇也が少しだけ顔を上げる。俺の足があることに気付いたらしい。徐々に視線を上らせて、やっと俺の顔を見つけた。 小さく笑った勇也の頬は赤かった。泣いていたのかと思ったのに目元は綺麗だった。眉間を指で押さえて数秒間うつむく。息を飲んで勇也は立ち上がった。 「普通、追いかけてくるもんやないんか?」 俺は大げさに肩をすくめて見せた。 「あいにく、男のケツを追いかける主義ではないんでね」 女性なら大歓迎、と冗談めかし付け足す。勇也は眉間にしわを寄せて投げやりに笑ったが、瞳に浮かぶ涙は少し引いたようだった。 「何やってんだよ、こんな所で。泣きそうな顔してさぁ、そんなにタバコがきつかった?」 子供をあやすように頭をなでる。癖のついた髪は何の整髪料もつけられておらず、滑らかだ。 そこで勇也が反論すれば良かったのだ。いつものように。以前のように。「馬鹿にするな」の一言を言えば、きっと何事もなかったかのように俺たちは帰路についたはずだ。 勇也はもう限界だったのだ。たった一言の冗談も言えないくらいに。馬鹿で不器用な奴だから、辛いことも全部受け止めようとした。だけどもう無理だったんだ。俺に助けを求めてきたくらいどしようもなかった。 勇也は何も言わなかった。またうつむいて口元を手で押さえる。握りしめていた氷は全部溶けてしまったようだった。手のひらもすっかり乾いている。指先に触れる頬はほのかに上気していた。 「酔ってるのか?」 俺よりも少し背の低い勇也の顔を、少し屈んでのぞき込む。勇也は目を力強く閉じていた。目の端に水の玉が浮かぶ。気を抜けばすぐにこぼれ落ちてしまいそうだった。 まぶたに力を込めて、泣くのをぐっと堪えているのが判る。たぶんこいつはずっとこうしてきたのだろう。店から出ていったとき、俺に会ったとき。昨日も一昨日も、その前日も。泣くのは女々しいから、勇也の流儀に反するから、この馬鹿は一人でいるときにも泣かずに耐えてきたのだろう。 男はみんな泣かないと思っているのだろうか。俺だって泣くよ、そりゃ。一人の時はこっそり泣いてるよ。翌日に跡が残るほど泣きはしないけれど。 俺は指の端で勇也の瞳をなぞる。短いまつげが指の腹に刺さった。目元は熱い。冷えた指先にじんと痛みが走った。 「我慢すんなよ」 「だって」 ささやくような俺の声に、勇也は思いの外しっかりとした声で返した。首を振って俺の手を振り払う。自分の服で浮かびかけた涙を拭った。 困ったように眉を下げて、勇也は俺を真っ直ぐに見る。声はかすれて、聞こえにくかった。 「俺が泣いたら、ずるいやん」 はっと息を吸い込む。不覚にも、こみ上げてきた感情に鼻の奥がつんとしみた。まぶたがじんわりと熱くなる。 流れていく人波がスローモーションに見える。白、黒、灰色、全部モノクロに塗り上げられていった。音声が遠ざかっていく。勇也の声だけが浮き彫りになった。耳に突き刺さる。鼓膜の中で大きく反響した。 勇也の頬に手を添えたまま、動けなくなった。力を失った腕は勇也の頬を這いながらずり落ちていく。 本当に馬鹿だな、お前。苦笑混じりに言おうとしたが、言えなかった。吐息だけが喉を抜けていく。言葉にならなかった思いが、白い水蒸気に変わって空気に溶けていった。 白い。白い壁、白い天井、白いベッド。数回だけ見に行ったことがあった、あいつの病室。病室は今でも見慣れているが、記憶の中にある病室ほど真っ白な部屋は見たことがない。潔癖なまでに白に塗りたくられていた。 真っ白い、あいつの顔。血の気を失ったあいつの顔は、綺麗だった。元々人形のようだった顔が、本当に動かなくなった。崩れてしまいそうで、おそるおそる触れた頬には、体温はなかった。肌の弾力はなくなっていた。 動かないあいつの前にして、柱のように突っ立っている人間も白い顔をしていた。その中には勇也もいた気がする。覚えているのはあいつの死に顔ばかりで、周りの人間がどういう顔をしていたのかはよく覚えていない。俺がどんな顔をしていたのかも、どう思っていたのかも。氷の彫像のように、ただ映像だけが頭の中にこびりついている。音声も感情もない。 頭の中でリピートされる記憶に息苦しくなった。俺は顔を上げて、冷めた空気を吸い込む。お世辞にも綺麗とは言い難い空気が肺を侵食していく。黒いシミが視界に広がり、やがて夜の闇が戻ってきた。 俺は軽く頭を振る。ぼんやりしていた。それもこれも、勇也が妙なことを言うからだ。 親友が死んだ。別に今さらどう思うことでもない。五年前の話だ。 あいつの死は俺よりも勇也の方がよく知っているはずだ。生前のつきあいは俺の方が長かったものの、当時俺は既にアメリカへ留学していた。勇也は暇を見つけては毎日あいつの病室に顔を出していたようだ。たまに帰国したときや国際電話で、あいつからその話をよく聞いていた。 勇也だって辛かったはずだ。死を恐れて毎日生存を確認しに行っていたのだろう。そんなことをしたって永遠はやってこない。死は必ず訪れる。死ぬまでの一部始終を目の当たりにして、余計に辛くなっただけだ。 辛いならそんなことをしなければ良かったんだ。辛いなら泣けば良かったんだ。 「泣けよ」 低い声を出すと、喉が震えた。思いの外冷たい音が出た。勇也が勢いよく顔を上げる。 勇也の背に腕を回す。後頭部をひっつかんで、俺の肩に押しつけた。単純な腕力は勇也の方が圧倒的に強いが、突然のことに対応しきれなかったらしい。勇也の身体は簡単に傾いて、俺の腕にすっぽりと納まる。 「ゆう……だいっ……」 苦しそうに呻く。抜け出そうとしているのか、勇也の頭が蠢く。黒い髪の合間から、襟首か見え隠れした。首にかかる髪を掻き上げ、首筋をなでてやると、奇妙な声を上げて大人しくなる。 腰の辺りを抱いて引き寄せた。勇也の身体が完全に密着する。空手をやっているだけあって胸板は厚い。筋肉がごつごつしていて、抱き心地は最悪だった。 暖かいと思ったのに、外にいてすっかり冷えた勇也の身体は冷たい。死後硬直したあいつの身体を思い出した。 熱が欲しくて頬を寄せる。勇也の息が首に掛かった。ちゃんと暖かい。体内から生まれてくる熱に、俺は安堵感を覚える。 頬は冷たい。だけど涙をはらんだ目元は熱を帯びていた。 「こうしていれば、誰からも泣いてるのが見えないだろ?」 口元にある勇也の耳に、言葉を流し込む。学生時代にピアスを嫌った耳には、今でも穴なんて一つもない。泣くのを耐えているのか、勇也の体が小刻みに震えているのが判った。 勇也の髪をなでる。肩が跳ね上がった。体の震えが大きくなる。 「う……」 声が漏れたかと思うと、勇也の目から暖かい液体があふれ出した。勇也が顔を押しつけている俺の頬に、勇也の涙が伝う。小さな雫が首筋から落ちていった。 「うああ……」 声はだんだんと大きくなる。一度決壊したダムからは水がどんどんあふれ出してきた。勢いは強くなるばかりで、とどまるところを知らない。俺のコートの肩口はすっかり湿って、シミは広がっていくばかりだった。 何年分の涙なのだろうか。ぐしゃぐしゃに塗れた勇也の顔に頬を押しつけながら思う。ずっと泣いていなかったのだから、きっと海みたいにしょっぱい涙なんだ。ロマンチックな考えがよぎって、苦笑した。 人の涙はどうしてこうも胸をかき乱すのだろう。無理にでも笑っていないと俺まで崩れていきそうだった。胸に支えるような塊が生まれる。それが胸をぎゅうぎゅう締め付けて、まぶたから涙を押し出そうとする。訳もなくこっちまで泣きたくなった。 耳元で泣く勇也の声はうるさくて、耳鳴りがしてきそうだった。俺は赤ん坊をあやすみたいに勇也の頭をなで続ける。 目の前を通った中年の男性が、かぶっている帽子を少し傾けて怪訝そうにこちらを見た。俺と目が合うとすぐに目をそらし、足早に去っていく。少し視線を移動させると、若い女性がこちらを指さしながら隣の男と話している。俺たちに向けられる視線はいくつもある。一つ一つが好奇心や嫌悪感を乗せて、俺たちに突き刺さる。 所々聞こえてくる会話から察するに、ゲイカップルの痴話喧嘩みたいに思われているのだろう。別に否定しない。こいつと肌を合わせたのだって一度や二度じゃなかった。 俺は勇也を守るみたいに、腕に力を込めた。そんなことをしなくても、勇也からは通行人の様子は見えない。もしかしたら俺の方が守られたかったのかもしれない。 勇也の嗚咽が体の中に響いてくる。抱きしめた勇也の身体はだんだんと温もっていった。まるで俺の方が勇也の腕の中にいるかのような錯覚を覚える。目を閉じると、泣いているのが俺なのか勇也なのかも判らなくなってくる。 俺も、俺も泣いていたんだ。ポーカーフェイスを気取って、「泣け」だなんて言ったけれど。 親友が死んで一番きつかったのは俺自身だって、自覚している。 依存していた。言葉にしなくてもお互いを感じ取れる仲だと思っていた。現に、口べたなはずのあいつはいつも俺の隣にいた。あいつの傍が一番心地よかった。 あいつが死んで、俺は居場所をなくしたんだ。休める場所、笑える場所、泣ける場所も、何もかも。 路頭に迷った俺は上っ面だけで生きてきた。もとから上辺だけ他人に合わせるのは得意だった。本気で笑えなくても、泣けなくても、何も変わらないと思っていた。何も変わらなかった。それも上辺だけだったんだ。 辛くて辛くて仕方がなかった。こんな日には特にそうだ。雪が降りそうな程寒くて、気を紛らわせる仕事もなくて、一人でいなくちゃいけない日。あいつがいない。思い知らされる。 俺を支えてくれる人間はいなくなってしまったんだ。ぽっかり空いた胸の空洞を押さえて、うずくまっていた。そんなときに丁度電話をよこした勇也のタイミングが悪かった。 俺は少しだけ顔を上げて、勇也の横顔を盗み見る。顔を俺のコートに押しつけているため、表情はほとんど見えない。きっと頬が赤くて、目元はびしょ濡れで、前髪はへばりついていて、ひどい顔をしているのだろう。俺は勇也に「もう少しだけそのまま泣いてろよ」と念じた。 勇也の後頭部を押さえていた腕を移動させて、自分の目元を隠す。勇也を支えるのに疲れてきて、壁に背を預けた。 小さく息を吸う。ゆっくりと息を吐き出すと、同時に目頭が熱くなった。熱いものが俺の頬を横断して流れていく。一筋の涙で、俺の身体から色々なものが流されていくのを感じた。全身から力が抜けて、コート越しに固いコンクリートへ俺の背中を押しつける。勇也の身体がやけに重たく感じた。 勇也がこれだけ泣いているんだから、俺が少しくらい泣いたってばれないよな。少しだけ気が楽になって、二筋目の涙を流す。 指の隙間から見た町並みは、涙で歪んできらきらしていた。ネオンの光が涙の中で揺れている。まるで光が降ってきているかのようだ。客寄せのためにぎんぎんに照りつける夜の明かりが、今日は優しげに見えた。 FIN. 「泣き虫」とはちょっと違いますが、「泣くこと」をテーマに書いた小説でした。全ては勇也と悠大を泣かせるために書きました。 アメリカは観光地しか行ったことがないので、町の風景とかが判らないです……。普通にそこら辺のちょっと大きな駅や町をイメージして書きました。ちなみにこれを書いた当初は未成年でしたのでお酒もタバコも描写はイメージに頼り切っています。お酒の名前が出てこないのはそのせいです。 作中で悠大が二ヶ国語を喋るため、カッコで書き分けてあります。「」が日本語、『』が英語です。小説書きとしてやるべきではないことですが、見づらかったので最終手段をとらせていただきました。 「あいつ」の固有名詞が出てきませんでしたが、それは「あいつ」に関してあまり深く描写すべきではないと考えたからです。勇也と悠大の話なのに二人の気持ちは「あいつ」に向かっている心理描写が書けたので満足です。 |