[友人以上]
夏の花・中


 今日ほど、何の面白みもない天井を恨めしく思ったことはない。部屋の端に追いやった布団に身を投げ出す。白くて何の柄もない天井を、俺は眺めていた。扇風機の風が俺の上を通過していく。風向きを変える気力すら残っていなかった。
 シーツに触れている部分が熱を帯びていく。毛穴が開いて汗が出てくるのが判った。手のひらでシーツを握ると、湿っているのが判る。
 視線だけを窓の外へ送る。下から見上げる状態では、ほとんど空しか見えない。雲を照らす太陽の色は赤く、もうそろそろ花火大会が始まるのだということを示していた。
 外はきっと、涼しくなってきている時間帯だろう。何で俺は、わざわざ暑苦しい部屋の中に閉じこもっているのか。自分がばかばかしくなって、俺は窓に背を向けた。
 目を閉じて、このままふて寝したかった。天井を見ていると、自分の言動が悔やまれて仕方がない。どうして直行の誘いを断ったりしたのだろうか。考えたって仕方がないと判っていても、天井には何の柄もないから、つい頭の中で思考がはかどるのだ。しかも、悪い類の。
「兄ちゃんの馬鹿野郎……」
 ぽつりと呟く。大声で言ったって、どうせ奴はこの家にいないのだから、聞こえやしない。珍しく花火大会のことを口にしたかと思えば、珍しく兄も花火大会に出かけてしまったのだ。父と母は毎年恒例の、花火大会の手伝いに行った。
 例年ならば兄が留守番役なのであるが、今年は俺が留守番役になってしまった。兄は自分の身代わりになると思って、意気揚々と俺を置いていったらしい。はめられた。枕を抱きかかえ、俺はあごを枕に沈める。
 近所の人たちは既に会場に行ってしまったのだろう、開けてある窓からは、蝉の声と風の通る音しか聞こえない。ヒンヤリとした空気が、下の方に落ちてきた。涼しいけれどじっとりしている。そろそろ湿気が多くなってきたから、窓を閉めた方が良いだろう。
 身を起こし、窓を閉める。鍵に手を伸ばしかけて、電子音に気付く。電話だ。
 俺は出ようかどうか一瞬迷った。この時間帯、知人はみんな出払っていて、電話なんてかけてこない。電話してくるのは企業のセールスマンくらいだ。
 どうせろくな電話ではないと思うが、仕方なくのろのろと立ち上がる。することもないし、ずっとぼんやりしているのもあれだろう。少し歩いた方が気が晴れるかも知れない。
 一歩一歩階段に足を降ろす。電子音は階段を上って、だんだんと大きくなっていった。階段の終わりから三歩ほどの所に玄関が見え、その横に下駄箱がある。電話は下駄箱の上に乗っていた。赤いランプが電子音に合わせてリズミカルに点滅する。
「はいはい、今出ますよー」
 意味もなく返事をしながら、受話器を手に取る。声の変わりに、抑揚のない機械音がピーッと鳴っていた。どうやら受話器を取る一瞬前に、相手が切ってしまったらしい。
 短気な奴、せめて留守番電話に切り替わるまで待てよ。心の中で毒づきながら受話器を戻す。再び階段を上って自室に戻った。足が重い。
 机の前に座る気力もなくて、俺は布団にダイブした。軽くバウンド。どすんという音がして、部屋が軽く振動する。息が詰まった。
 そのまま息を止め続ける。苦しい。何か苦しいよ、俺。一人きりってこんなに苦しかったんだ。
 今からでも、夏祭りに行ってこようかな。頭をかすめる。しかし、行かないときっぱり言ってしまった手前、それも何だかみっともない気がする。俺は深くため息をついた。
 音楽でも鳴らそう。机の上に置いてあるCDコンポを見上げた。今何のCDが入っていたっけ。思い出せなかったが、とりあえず再生ボタンに手を伸ばす。激しい伴奏と共に、やかましいギターの四重奏が流れてきた。
 そこまで有名でもないロックバンドのCDだ。中古で安かったから買ってみたが、夏に聞くには少々暑苦しい。でも、落ち込んでいるときにこういう曲を聴くのも、逆説的で良いかもしれない。コンポの前で耳をすませてみるが、何て歌っているのかはまったく聞き取れなかった。
 時々混じる不協和音。間延びした音が、いびつに混じる。一回二回三回、感覚はまばらだ。って、これCDの音じゃない!
 はっと気付いて顔を上げる。インターホンの音だ。俺は慌てて階段から玄関を見下ろした。人影が立ち去っていってしまうのがわずかに見えた。今から駆け下りても、玄関を出るころには人影を見失ってしまうだろう。
 誰だったんだろう。何度もインターホンを押していたから、宅急便とかだったのかもしれない。申し訳ないことをした。留守番の意味がない。
「あー、もう」
 何をやっても空回りする。俺はCDを止めて、布団に仰向けになった。手でまぶたを覆う。窓を閉めた部屋の中には、湿気だけが残ってむしむししてくる。
 暗くなってきたせいか、蝉もどこかへ行ってしまった。ぽつりぽつり、少し遠くの方で鳴いている声が、寂しげに響く。風の音が窓を叩いた。
「泣いてるの?」
 くぐもった声が届いてきた。たぶん、外からの声だと思う。何となく直行の声に聞こえる。重傷だろうか。
「泣いてねーよ」
 無意識の内に言葉が漏れる。声を出していないと本当に泣いてしまいそうだった。直行の声はいつも優しいから。俺の心の芯を、簡単に揺さぶるんだ。
 負けまいと気を張りつめてきたけど、やっぱり直行には敵わない。直行が優等生だからとか運動神経が良いからとかではなくて、直行が直行だから、俺は敵わないんだ。それは心地よい敗北感。同時に、果てしない孤独感を感じる。
 ここで泣いたらまた負けだ。よく判らないけどそう思って、俺は目を開けた。床に手を付いていき追いよく起きあがる。寝ころんでいた髪には早くも寝癖が付いていた。
「おはよう」
 声は上から振ってきた。俺は動きを止める。今度はくぐもっていない。はっきりと、すぐ側から聞こえたんだ。
 背筋に寒気が走る。幽霊、泥棒、何にせよ家に入れた覚えのない何かが、そこにいる。俺はとっさに武器になる物を探した。学生の道具で一番凶器になりそうなのは辞書だが、あいにく全部兄の部屋に置いてある。勉強してなかったのがこんなところでたたるとは。
 仕方ない、男なら拳だ! と、意を決して振り返る。窓の桟には、浴衣姿の男が腰掛けていた。沈み損なった太陽に逆光になっている。男の顔が暗くぼんやりしているのを見て、初めて外がだいぶ暗くなっていることに気付いた。
「もしかして、寝ぼけてる?」
 茶色い髪、整った顔立ち、優しい声――直行は、おかしそうに笑顔を歪める。裸足の足をゆらゆら揺らしていた。片手には草履がぶら下がっている。足首には所々赤くなったかすり傷が見受けられた。
 取り損ねた電話。立ち去った人影。窓から入ってきた直行。連続した出来事が一つに合わさった瞬間、俺はものすごい脱力感を覚えた。
「……ここまで上ってきたのか、お前?」
 非常識的なことを、直行はさらりと答える。爽やかな笑顔と共に。
「うん、なかなか大変だったけどね。ご近所さんがみんな花火大会に出払ってて良かったよ本当」
 ちっとも反省していない様子で、直行はニコニコしている。一歩間違えれば不法侵入だ。それに、もし――落ちてケガでもしたらどうするつもりだ。昔はよく雨どいを利用して、窓から入ってきたものだが、当時と今では体格が明らかに違う。
 俺は直行を背にし、部屋を出る。ドアを思いっきり閉めた。派手な音がする。
「ゆ、有火?」
 慌てた直行の声が追いかけてくる。
「そこで待ってろ!」
 きっぱりと言って、俺は階段から飛び降りる。床板がきしみ、悲鳴を上げた。足の裏が少し痛いけれど、そのままリビングに駆け込む。母の化粧台から一番上に置いてある箱をひったくって、一段抜かしで階段を駆け上った。
 その間ものの数秒。だてに十数年この家で暮らしてはいない。直行は部屋のノブに手をかけていたが、俺がすぐに戻ってきたので、あっけにとられたような顔をしていた。
「座ってろ」
 イスをビシッと指さす。直行が小首を傾げるが、俺が黙したまま再び指を指し示すと、しぶしぶ従う。キャスターつきのイスを引いて、直行が腰掛ける。俺の座る高さに合わせているので直行が座るとちょっと低そうな感じだ。
 俺はリビングから持ってきた箱を開ける。中には絆創膏、消毒液……救急セットが一式入っていた。コットンと消毒液を取り出す。
 消毒液のフタを開けて、コットンに流す。独特のにおいがふわりと鼻を突く。じんわりとしみこんでいった。
 直行の足をひっつかんで、傷の部分にコットンを当てる。傷は深くなさそうだが、傷口に泥が入り込んでいた。念入りに拭う。
 直行の足はがっしりしていた。骨の凹凸がよく判る。けしてやせているというわけではないけれど、付いているのはほとんど筋肉で、柔らかくはない。昔も似たようなことを思った気がするけれど、そのときよりももっとたくましくなったんだろうな。
 俺たちはどんどん成長していく。でも俺は花火大会に行けなくてすねるし、直行は窓から俺の家に侵入してくるし。何だかお互いガキ臭くて、安心する。ちゃんと大切なところは、まだ何も変わっていない。
 コットンをゴミ箱に投げ入れ、絆創膏を取り出す。傷は小さいのだが、あいにく小さい絆創膏は切れているため、普通のサイズを貼り付ける。これで大丈夫だ。
「ほら、もうばい菌は入らないだろ」
 直行は自分の足首を動かしてまじまじと絆創膏を見ている。何だよ、俺の手当が気に入らないってか。
 直行は目を大きくしばたたいて、深い笑みを浮かべる。まぶたが優しく閉じられる。俺は思わず、長いまつげが上下するのに見入っていた。
「サンキュ」
 ささやくような声で、嬉しそうな響きが落っこちてくる。真下にいる俺に直撃した。衝撃で心臓が跳ねる。顔が赤くなった。
 あああ、不意打ちだ。俺は顔を伏せた。暴れ出しそうな心臓を、膝ごと抱え込む。「どういたしまして……」返す言葉も、口の中でうずくまってしまう。上手く出ていってくれない。
 この男は自分の笑顔の破壊力を自覚しているのだろうか。あまり親しくない女子に向けるような笑顔ではなく、心の底からの天然スマイル。自覚していてもしてなくても末恐ろしい。効果の程は、俺自身が立証済みだから。
「電話にも玄関にも出てこないから、どうしたのかと思った」
 直行はイスから降りて、俺の隣に屈み込む。イスがあるのに床に座り込む男二人、間抜けな光景だ。
 言い訳しようかとも思ったが、何だか後味が悪いような気がして、やめた。どんな言い訳をしても嘘っぽく聞こえる気がする。「別に、何でもない」それだけぽつりと言う。続けて「何しに来たんだよ」と付け足した。
 直行は待っていましたと言わんばかりに、口角をつり上げる。横目で俺を見てくるその視線が、何かたくらんでいることを告げていた。
 もしかすると判断を誤ったのかもしれない。俺は立ち上がろうと知るが、ハーフパンツの裾を掴まれ、よろめく。ハーフパンツが引っ張られ脱げそうになった。
「何するんだ!」
 慌ててハーフパンツを引き上げ、抗議の声を上げる。直行はきっぱりと無視して、どこに持っていたのか、紙袋を取り出した。これを持ったまま上ってきたのだろう、所々に枝がひっかかって穴が開いている。……そこまでして……お前は一体何を持ってきたんだ?
 直行が紙袋をひっくり返す。中から現れたのは、紺色に少し灰色をたらしたような布。それと、深い藍色の帯。直行は布を両手で広げて見せた。
 羽織るデザインの上着だが、浴衣に似ている。浴衣よりは短めの袖が左右に垂れていた。どことなく懐かしい雰囲気がする。小さい頃、よく着たような……。
「花火大会に行かないのなら気分だけでも楽しもうと思ってさ、甚平。有火の持ってきたから」
 頬がぴくりとけいれんする。顔が引きつった。お前はしっかり浴衣を着ているくせに、何で俺は甚平。というかそれがお前のだとすると、サイズからして明らかに小中学生時代のだよな? 俺はお前と同い年だ!
 だけど直行のうきうきとした顔を見ていると、無下につっこめなくなる。心の中で振り上げかけたツッコミの手を下ろし、俺は大きく肩を落とした。



←Back   モドル   Next→