[友人以上]
夏の花・上 ブーンと、低い機械音が微かな振動と共に耳元に伝わる。風が肌を覆うようにして吹いている。汗の乾いた皮膚は風を受けてもあまり涼しく感じない。むしろ生暖かい。 扇風機を腹に抱え込むようにして、俺は「暑い」と呻いた。扇風機の風の中で、声がぶれる。放射線状に扇風機の羽根を覆う金具の部分に額を付ける。最近長くなってきた前髪が羽に当たった。 八月初頭。夏休みだというのに、俺は家に閉じこもっていた。カーテンも閉め切っている。薄手のカーテン生地の隙間からこぼれてくる強い日差しを見ると、外に出るどころか景色を見るのも嫌になってくる。 虫が入ってくるのが嫌なので半分だけ開けられた窓から、風が勢いよく飛び込んでくる。カーテンの裾が大きく舞い上がった。部屋の中に光が塗り込まれる。そろそろ日が傾いてきたとはいえ、南向きの俺の部屋には相変わらず濃い光が差し込んできた。 エアコンでもあればいいのだが。残念ながらエアコンは兄の部屋にしかなく、丁度卒業論文を書くために兄は自室にこもっている。私立大学で留年したら学費が馬鹿にならないので、俺は邪魔するわけにもいかない。隣のエアコンのせいで温暖化した部屋にて、扇風機を抱え込むのが関の山だ。 暑くて外に行く気にもならないが、家の中で何かをする気にもなれない。居間にいると親が宿題をしろ、勉強をしろとうるさいので自室にいるが、はっきり言って一階より二階の方がはるかに劣悪な環境だ。ぼんやりとしながら、俺はだらだらと過ごしていた。 隣の部屋のドアが開いて、人工的な冷たい風が背中に触れる。兄が出てきたのだろう。俺はこっそり涼しい風が当たる方に移動しつつ、振り返る。 兄と目が合った。少々目つきの悪い、切れ長の瞳が不機嫌そうに細められる。これであまり喋るのが得意でないから、怖い人間だと思われがちだ。でもやっぱり俺の兄なので、行動にはいささか考えが足りないし、慎重に動かないと何かしら失敗をする。目立つ才能もないので、たいていの人間がそうであるように、一般人として大衆に埋もれている。 ただ、俺みたいにできすぎた幼馴染みに比べられることはなかった。俺は小さい頃、生まれるのが兄と逆だったら良かったのに、とどうしようもないことを時折思っていた。 「有火、なんだそのだらしない格好は」 兄はさっさとドアを閉めて、涼しい空気を封印してしまう。俺は心の中で「ケチ」と呟く。だらしない格好とは、俺の服装のことだろう。俺は今、大きめの白いタンクトップに、学校指定のハーフパンツを履いていた。タンクトップは汗で肌にへばりついている。確かに家族以外には見せられないスタイルだ。 しかしそもそも原因は暑さにあるのだ。一人だけエアコンのある部屋で悠々と過ごしている兄に文句を言われる筋合いはない。俺は兄からぷいと顔を背ける。 「暑いんだったら脱ぐしかないじゃん。環境に優しくて良いだろ」 「目に優しくないな」 まぁ、汗だくの男を見ても優しくないどころか不愉快だろう。俺だって同じ気持ちだ。一人だけ涼しげな顔をしている(実際に涼しい所にいる)奴を見て、非常に不愉快である。兄は緑色の線が縦横に折り重なった、チェック柄のシャツを着ている。アイロンできっちり伸ばされたシャツは清潔感がある。汗もかいていないので爽やかだ。 「それに今日は花火大会があるだろう。だらだらしてて良いのか?」 「……別に、行かないし」 扇風機にあごを載せて呟く。近所の川で行われるその花火大会は、地元では結構大きなイベントで、遠い所から来る人もいる。小さい頃から俺もよく見に行っている。幼稚園の頃は家族と、小学校では友達と、中学の時には彼女と。もしかすると毎年行っているかも知れない。 逆に兄は滅多に花火を見に行かない。家からでも何とか花火が見られるのも一つの要因だ。どうせ兄は今年も行かないのだろうから、俺が行こうが行くまいが関係ないはずだ。わざわざそんなことを聞くな。俺はムカムカしながら、眉間にしわを寄せる。 「直行君と一緒に行かないのか?」 ……だから行きたくないんですけど。俺と直行が単なる幼馴染みだと思っている兄は、平気で爆弾を投下する。俺は少しだけ首を後ろに向け、兄を横目でにらんだ。 俺と直行は幼馴染みで、現在進行形で相変わらず幼馴染みなのだけれど、一つだけ兄の知らない事実がある。 実は俺、直行のことが、好きになった。 いや、恋愛に無頓着な兄のことだから「一番仲の良い友達だもんな」とか的はずれなことを言い出すに違いない。俺が直行を敵視していたことだって知らないだろうし、俺が感じていた劣等感も、兄は知らないのだ。 兄が弟に無関心なわけではない。俺がポーカーフェイスなわけでもない。いくら兄弟といえども、別の器を持った他人なのだから、理解し得ない壁が存在するだけだ。 直行とキスしたのが四月。好きだと自覚したのが七月。その直後、直行が短期留学に発って、帰ってきたのがつい先日。直行と顔を合わせずに一人でじっくり自分の感情について考える時間があったのは幸いだったが、かえって直接合うのが恥ずかしい。 直行を迎えに行った空港で、欧米風にリメイクされた直行の過剰な愛情表現により、ディープキスされたのはついこの前だけど。改めて花火大会に誘ったりするのは、また別の恥ずかしさがあるわけだ。あからさまに直行目当ての女子に、おまけとして誘われて行くのも嫌だ。今年は下手に動かず、暑さを理由にして家にこもっていようと決めたのだ。 「俺は今年、誰とも行かない。蚊が嫌だ暑い疲れる面倒くさい」 兄に反論の隙を与えないくらいの早さで、以下延々と花火大会に行かない理由を羅列する。だだをこねる子供みたいだということは自分でも判っている。でもさすがに本当のことを言うわけにはいかないんだ。 元々そんなに興味がなかったのか、兄は投げやりに「判った判った」と答えた。その後に微かなため息が一つ。たぶん呆れたんだ。兄は何も言わないまま、俺の部屋の正面に延びる階段を下りていった。 俺と似たような髪型の後頭部が、階段の下に沈んでいく。階段の向かいについている窓からはわずかに黄色っぽく彩られた隣家の外壁が見えた。真夏とはいえそろそろ日が傾いてきた。花火が上がるまで後一時間半ほどだろうか。 自室の窓を開ければ、たぶん直行の家が見えると思う。直行の方は今年どうするんだろう。誰かから誘いが来ていないはずはない。いつもは直行の方から俺に誘いの電話がかかってくるのだが、今年は来ていないから、もしかしたら他の子たちと行くのかもしれない。 俺が隣にいても釣り合わないことは判ってるんだけどな。他の奴が直行の隣にいるのを想像すると、それはそれで嫌な気分になる。 やっぱり意地を張らずに誘った方が良かっただろうか。せっかく遠い地から帰ってきたのだ、本当は会いたくて仕方がなかった。会えなかった分一緒に遊びに行って騒ぎたかった。 花火大会まで後一時間半。今からでも電話して、飛び入りで一緒に行くことは無理じゃない。さあどうする。 俺の葛藤をあざ笑うかのようにして、リズミカルな電子音が鳴った。計ったようなタイミングに、俺は思わず扇風機に肩をぶつけた。金具が小さく震えながら音を響かせる。なかなか良い当たりだった、痛い。後でアザになるかもしれない。 電話に対して過剰反応しすぎだ。少し恥ずかしい。兄がこの場にいなくて良かったと思った。同時に、電話の主が母の友人でないことを願う。ここで長電話をされたら、直行を誘いに行くことが不可能になってしまう。 俺は部屋のドアの方に移動して、じっと階段の下に耳をすませる。電話の時だけトーンが高くなる母の声が聞こえてくるが、誰からの電話なのかは判別できない。笑い声が聞こえるから知人関係だろう。宣伝の類ではなさそうだ。 あと三十分は確実に話し込むな。俺は少しだけほっとして扇風機にへばりついた。 少なくとも俺はあれこれと直行を誘う文句を考えなくて済む。母の長電話のせいにしてしまえばいい。誘えない運命だったんだと思うと、諦めがつく。 兄が再び階段を上ってきた。体重をかけるたび床がきしむので、かなり慎重に動かない限りは誰かが上ってくるとすぐに判る。夜はうるさくてかなわないが、親が二階に来る直前に、勉強しているふりをするにはもってこいである。 また兄に小言を言われるのも癪なので、俺はそそくさと扇風機の前から机に移る。狭い部屋なので大股で一歩くらいの距離しかない。イスに座り、扇風機を自分の方に向け直した。 机の上はノートが整理されないまま山積みにされている。所々はみ出しているプリントの角は破れていた。夏休みの宿題も、おそらくこの中に埋まっている。進行度は……聞いてはいけない。 ドアが軽くノックされる。俺は最初それが何の音か気付かなかったのだが、「おい、有火」と呼ばれて振り返る。夏場のドアは常に開け放しだから、ノックをする必要なんてないのだ。閉め切っているのはエアコンがかかっている兄の部屋くらいである。 兄は黒い子機を手にしたまま突っ立っていた。電子音が聞こえてくる。保留ボタンを押した時に流れる音楽だ。兄の頭と鴨居の間には十センチくらいの隙間があって、兄の身長が平均身長そこそこであるというのがうかがえる。 「電話」 それだけ言って、兄は子機を掴んだ手をぐいっと俺の方に突きつけた。最後までたどり着いたメロディーが一拍途切れて、最初に戻り繰り返す。 有無を言わせず手の中に子機を押し込まれ、俺は渋々受け取る。兄はさっさと涼しい自分の城へと姿を消した。せめて電話の相手くらい言え! いきなり電話を渡されても困るのだが、出ないわけにもいかない。保留を解除し、受話器に耳を当てた。 「橘内ですけど」 『もしもし、有火か?』 聞こえてきたのは機械ごしにも聞きやすい、滑らかな低めの声だった。聞き慣れたその声はすぐに誰だか判る。 「直行?」 不意をつかれて、俺はドキリとした。留学先からの電話でよく話していたせいで、すっかり電話越しの声を聞き慣れてしまった。音声はどこの土地からかけても一緒なはずだが、日本からかけてきているのだと思うと、何故か近くから話しかけられているような感じがする。電話の向こうの直行は家でくつろいでいるのかと思うと妙に感慨深い。 自分から電話をかけようと思っていた分、逆に相手から来られると頭の中が真っ白になってしまう。波が打ち寄せて、直前まで考えていたことが全部思考の海に流されていってしまった。 電話をして、俺は何を言おうと思ったんだっけ? 直行に用があったところまでは認識できるのだけど、詳細がとっさに思い出せない。何を言ったらいいか判らず、俺は固まっていた。 『あのさ、今日花火大会行かないか? 毎年見に行ってただろう。ちょっと時差ボケで今日が花火大会だってこと忘れてたんだけど、予定がなければ――』 「い、い……」 行く、行かない、行く、行かない。二択問題なのに、答えがぐるぐる回る。どう答えればいいんだろう。思考回路が空回りして上手く考えられない。役に立たない心臓がうるさく脈打っていた。 背後で物音がして、俺は思わず息を止める。何のことはない、兄が部屋のドアを開けただけだった。言いかけた言葉が途切れる。電話の向こうから「もしもし?」と声が聞こえてきた。 何でもない、と言おうとしたところで、兄の声がオーバーラップする。 「有火は今日花火大会行かないんだよな?」 タイミングの悪い発言に、俺の額に青筋が浮かぶ。またその話か、別に兄ちゃんには関係ないだろ! 今俺は考えるのに必死なんだから、何も話しかけないでくれ! イライラのせいで、つい言葉が力む。受話器を遠ざけることも忘れて、叫んだ。 「行かない!」 「判った」 『……そうか』 答えが重なる。一瞬、どっちがどっちから聞こえてきたのか、理解できなかった。俺は顔を上げて兄の方を振り返る。兄は俺の荒い口調を気にすることもなく、うんうん頷きながら引っ込んでいった。 『仕方ないな、誘うのギリギリすぎたし。どっか出かけるの? それともずっと家にいるのか?』 遠くで直行の声が聞こえる。意識が遠のいて、受話器と耳の間に分厚い壁が出来たような感じだった。代わりに耳鳴りが頭の中に飛び交う。 会話の内容はほとんど理解できなかったが、半ば反射的に口が開いた。 「家に……」 呆然としながらぽつりと呟く。 『うん、判った、それじゃあ』 俺が返事をするよりも早く、ブツリと音が切れた。一拍間を置いて、間延びした電子音が繰り返される。 ……あれ、今俺は何て言った? 直行は何て解釈した? 電話を切ることも忘れて、俺は何回も電子音を聞いていた。心なしかだんだんと音がでかくなっていくような気がする。いくら俺が叫んだってもう直行には何の言葉も届かない。 電話の内容をよーく思い出してみる。花火大会に誘われた。兄に花火大会に行くか聞かれた。行かないと答えた。兄の言葉を抜かすと、「花火大会に誘われた」、そして「行かないと答えた」。 ……断っちゃってんじゃん俺! 俺から誘おうとすら思っていたのに、何で断ってるんだよ、意味判らんねぇ! 受話器をベッドに向かって投げる。鈍い音を立てて掛け布団の中に黒い装甲がめり込んだ。 ベッドに上半身だけダイブする。勢いが良すぎて胸が圧迫される。バネで体が弾みんだ。角の部分が丁度腹を圧迫して、気持ち悪かった。 もうどこかに消えたい。このままふて寝したい。激しい自己嫌悪の中、俺はまともに顔も上げられず、うずくまった。受話器からはまだ小さな音が聞こえてくる。 せっかくのチャンスだったのに。かけ直してきてくれるわけないし。こちらからかけ直すのももう無理だな。直行も誘うんだったらもう少し粘ってくれても良いだろ……。 大きなため息をついて、脳内を蝕む嫌悪感を吐き出す。それでも腹の虫は収まらなくて、叫びたい気分だった。 そもそも、おかしなタイミングで話しかけてくる兄ちゃんが悪い! 電話をしている相手に話しかけるなんて非常識だ! 二つの問いかけに同時に答えられるかよ! 俺はがばりと起きあがる。息を思い切り吸い込んだ。微かに芳香剤のにおいがする。手近にあった枕を鷲づかみにする。長年愛用していた枕は生地がくたくたになっていた。 俺は肩越しに振り返り、狙いを定める。壁越しに、悠々とパソコンを付けて居るであろう兄をにらみつけた。 「兄ちゃんなんか嫌いだ〜〜〜〜っ!」 思い切り大声でわめきつつ、硬く閉められたドアに、俺は思いきり枕を投げた。 |