[Blade]
久遠は一瞬目を疑った。輝いていなかったからだ。 通り過ぎかけた渡り廊下をわざわざ引き返し、窓から中庭を見下ろすと、ベンチにぶつかりそうな頼りない足取りで、朱野が歩いていた。その背中にはいつものような後光は差していなかった。 普通人間の背中には後光は差していない、と突っ込まれそうだが、そこは久遠にしか見えない朱野のオーラのようなものがあるのだ。久遠には確かに見える。今の朱野には元気がない。 久遠は直感で青海のせいだ、と思った。生徒会の仕事が忙しすぎるときも元気はなくなるが、そういった悲壮感ではないのだ。もっと内側からあふれ出すねじれのようなものがそこにある。 「どうした、久遠」 竹刀を斜めに傾け、佐渡が振り返る。背中にかけた竹刀は、剣道部の派手な目印だ。 久遠の視線をたどり、中庭を見た。久遠が口を開く前に、佐渡が「なるほど」と頷いた。朱野の銀髪は遠目にも目に付く。そうでなくとも、長身で後ろから見てもスタイルのいい朱野は、人目を引く存在感を放っている(後光がない分その存在感は半減してしまっているが)。 「今時分にあそこにおられるとは、今日も仕事で部活には遅れるということか。忙しいものよ」 佐渡が感心した様子で言うが、久遠の耳にはほとんど届いていなかった。朱野の姿だけが、眼前にあるかのようにクローズアップされている。朱野に元気がない、それは久遠にとって一大事件なのである。 それほど青海の存在が朱野を揺らがせている。だのにテレビの向こうで起きている事件のようだった。近くに見えているのに、果てしなく遠い出来事に映る。久遠はただの画面越しの傍観者に過ぎないのである。 久遠にはどうにかできる力などない。それでも。 久遠は佐渡と朱野を見比べた。このまま佐渡と一緒に部活に行くか。それとも下に下りていって、朱野を追いかけるか。答えはもちろん、瞬時に出ていた。 「佐渡、俺」 「仕方ない」 久遠が言い切る前に佐渡が口を開く。入学後の数日間で、佐渡は久遠の狂信振りを充分承知していた。 「部長には俺から伝えておこう」 「さんきゅ、佐渡!」 久遠は左右の階段の位置を思い浮かべ、A棟の方へ駆け出す。その背中に佐渡がすぐ「待った」をかけた。出鼻をくじかれ転びかける。 「なんだよ」 足踏みをしながら渋々振り返る。このタイミングで佐渡の説教が出るのは困る。さすがに佐渡も空気を読んでくれたようで、用件は簡潔だった。 「荷物、持ってってやる。置いていけ」 久遠は両脇に抱えている荷物を軽く持ち上げた。片方は教科書の入った通学かばん。もう片方は剣道着一式の入ったスポーツバッグだ。どちらもそう重いわけではないが、走っていくには邪魔になる。 少しだけ考えて、久遠は荷物を置いた。本の入った方のかばんは床に落ちて固い音を立てる。スポーツバッグの方を丁寧に置いてしまうのは、剣道部の性だろうか。肩から竹刀の袋を下ろして、スポーツバッグの横に置く。 「悪い、頼んだ」 申し訳ない気持ちがあるのは嘘ではなく、久遠はまっすぐに佐渡の眼を見た。佐渡の眼は年齢不相応に穏やかで全てを許容していた。彼の眼の前では、形だけの謝辞を重ねても無駄だろう。せめて精一杯の礼の気持ちをこめた一礼をし、久遠は再び走り出す。 身軽になった身体はぐんぐんと廊下を駆け抜けた。荷物なしで廊下を駆ける機会など滅多にない。久遠は少し快感を覚えつつ、頭の中ではしっかりと現在地と朱野の位置を把握する。 四階だから一気に階段を駆け下りなければならない。だが、上りに比べれば階段を下ることなど坂を滑り降りるようなもので、大した労力にはならない。久遠はA棟の端にある階段に飛び込んで、人を避けながらするすると下りていった。すれ違う人が何事かと振り返ったりする。その中には先生もいたりして、なにやら怒鳴られたような気もするが、気にしないことにした。 脚を素早く回転させ、転げ落ちるように階層を下る。下に行くほど学年が上がっていき、学年色が変わる。踊り場を最短距離で回り、ぐるぐると螺旋階段のように進み、目が回りそうになりながら、一階にたどり着いた。 まだ自分の身体が回っているような感じがして少しふらつくが、久遠は無理やり足を踏み出す。大また数歩で廊下を横断し、渡り廊下から外を見る。朱野はゆっくりとしたペースで歩いており、まだ四角で捉えられる範囲内にいた。 渡り廊下の外側は土足でないと歩けないが、かまわず久遠は飛び出した。校舎の隙間には強烈なビル風が吹き込み、足元の砂塵を巻き上げる。大きめの砂が頬に当たって、ちくちくと痛んだ。 久遠は目を半分閉じて、手で目元をかばう。見目うんぬん関係なしに、純粋にらくだのような長いまつげか欲しかったと思う。 ノイズの中、久遠は腕を伸ばす。朱野の背中を叩いた。 久遠の手ははじかれた。朱野があまりにも急に振り返ったためだ。朱野は驚きに満ちた顔をしていたが、久遠を見て急激に表情を曇らせていった。 「久遠……」 反射的に浮かべられた笑みには覇気がない。久遠は苦笑する。 「ゆきよさんじゃなくてすみません」 「いや、そういうわけじゃ……」 朱野は慌てて口を開くが、言い訳は思いつかなかったらしい。「すまん」と呟く。あまりにも素直な朱野の態度が、逆におかしかった。 こんなに久遠が一生懸命走ってきても、朱野が見ているのは久遠ではない。恨みが湧いてきてもよさそうだが――もちろん、多少傷つきはすれど――、あまりにも明確すぎる態度に、かえって爽快感すら覚える。 「良いんです。俺、エキストラだっていう自覚ありますから」 友人Aとか噛ませ犬とか、そういう役しかもらえない。むしろ朱野が主演の物語に出させてもらえるだけでも光栄なくらいで。欲張るな。久遠は自分に言い聞かせた。 どんなに足掻いたって久遠は朱野級の人間にはなれない。これから朱野と同じように同じだけの努力をしたって、なれないだろう。朱野のいるA地点と久遠のいるB地点、同じ方向に同じ歩数歩いても、そもそも出発点が違うのだから、同じ点には行き着かないことは分かりきっている。そもそも生まれ持った素質が違うのだ。 久遠には久遠のポジションがある。それがエキストラだったというだけだ。朱野の横に立つのは、吹雪とか青海とか、そのクラスの人間が相応しい。 だから自分は朱野の物語を少しでも良いものにするために、外側からささやかな行動をすると決めたのだ。 「俺、ゆきよの居場所が分かりました」 朱野の瞳に輝きが満ちた。笑みが顔を横断する。体中から光が溢れ、朱野に後光が戻ってくるのを確かに認めた。 奇跡としか言いようがないタイミングで、砂嵐が止んだ。薄く茶色ににごった空気が、少しずつ透明度を増して良く。 久遠の大好きな朱野が戻ってきた。これで良いんだ。久遠は心の中でもう一度繰り返した。 これで良いんだ。 「ゆきよは――」 青海のクラスを告げると、朱野は短く礼を言い、校舎の中へ駆け込んでいた。その後姿はあっという間に巨大な校舎に飲まれて見えなくなった。 朱野がいなくなると、また強風が吹いてきた。校舎の狭間に取り残された久遠の周りで、風に巻かれた砂塵がくるくると踊り続けていた。 「俺さ。一応頑張ったんだよ?」 格技場の入り口の段差に腰掛け、久遠は自分の膝に顔を埋める。腕でしっかりと顔の周りを覆い、外界と遮断する。隙間から入り込む光で、かろうじて袴の色が見える。 薄暗い。今の久遠の心境と同じだった。 隣に腰掛けた佐渡が軽く背を叩く。直前まで動いていたせいか、その手は布越しにも温かかった。 「そりゃ、さ。俺が何かしてあげられるのが一番なんだけど」 腕の中で発する声はくぐもっている。自分の吐く息で膝か温くなる。顔が熱いのは泣きそうだからじゃなくて、運動したからなんだぞと、誰にとなく心の中で言い訳してみる。 「無理なんだからしょうがな」 「お前は充分すごいやつだ」 これ以上何も言うな、とでも言いたげに、佐渡が言葉をかぶせた。背中の手がふっと離れて、頭に載せられる。長めの髪が頭の上でくしゃくしゃとかき混ぜられる。慰め役には慣れてないようで、ぎこちない動きだった。しかし佐渡の手がとても大きく感じられた。 「人にはできることとできないことがある。朱野にもだ。いかに素晴らしい才能を持った者でも、自分にできんことばかりにかまをかけていれば、意味がない。 お前は自分のできることを見極め、実行した。それは偉業だ」 そんな大げさな。言おうとしたけど、何故かのどがきゅっと狭くなって、言えなかった。 久遠は朱野に何もしてやれない、という部分は否定してくれなかった。気休めの嘘をつかないところは、佐渡らしかった。それでも、佐渡は久遠の行動は正しかったと言う。それが一番、久遠の救いになっていた。 佐渡は自分にできることを分かっているのだろう。できないことも分かっているのだろう。その上で、できることをするのだろう。佐渡の言葉は久遠の気持ちにぴったりとあてはまって、効率よく癒してくれる。 こんな老熟した思考、どこで手に入れたのかと問いたかったが、あとにしようと思った。今は貝のようにじっと閉じこもっていたい。久遠はもう駆けずり回って、やれることはやってしまったのだ。 もう、休みたかった。 ふっと涼しい風が頬をなでた。自然の風は、奥まったところにある剣道場には届いてこない。久遠は少しだけ顔を浮かせて、佐渡を見る。どこに持っていたのか、佐渡はプラスチックのうちわを上下に動かし、久遠を扇いでいた。うちわの表面に、ちらちらとUT学園の宣伝が描いてあるのが見えた。 素直に扇がれるのも申し訳なくて、久遠は身じろぎしたかったが、頭の上に載ったままの手が、じっとしてろと訴えかけていた。 弱い風が汗をかいた頬に気持ちいい。程よい疲労感で眠気がじわじわとにじんでくる。別のものもじわじわとこみ上げそうになってくる。 ちょうど笛の音が聞こえてこなかったら、泣いていたかもしれなかった。 「それでは各自、練習に戻るぞ!」 部長の凛とした声が格技場に響く。久遠は午後の練習に少しばかり遅刻したが、佐渡が上手く言ってくれたのか、部長に咎められることはなかった。追川部長は普段はフランクだが(それなのに堅苦しい口調やちょっとズレた思考は佐渡と通ずるものがある)、怒ると怖いことで評判だった。 「次からは個人練習だ、各々のメニューに従って準備しろ!」 四方から「はいっ」という声が集まる。とっさに言い損ねた久遠の代わりに、佐渡がいつもより大きな声で返事を返した。直後、部員の足が一斉に床を叩き、震動が尻に響いてくる。 外から帰ってきた部員がちらほら入り口を通るため、佐渡は立ち上がって久遠の背後に移動する。腰を上げようとする久遠の肩に、佐渡の手が置かれる。 「もう少し休むか?」 即答はしなかった。久遠は自問した。朱野のいない剣道部で頑張る必要はあるのかと。 中学時代、朱野が卒業したとたん、久遠の練習の姿勢は顕著に怠惰なものになった。誉めてくれる朱野がいなければ練習する気になれなかったからだ。高校も追いかけて一緒に剣道をやるという目標がなければ、そのときに剣道をやめていたかもしれない。朱野以外に未練がなかったのかと問われれば、たぶんなかった。 今はどうなのか。少なくとも、剣道自体がちょっとは好きになりかけている。佐渡と微妙な掛け合いをして、久瀬とのよく分からない会話を聞いて、朱野の勇姿に見惚れて、みんなと剣道をするのが楽しい。 どうせ朱野や佐渡や青海のように全国大会で成績を残せたりはしないだろうけど、久遠は中途半端な今のポジションを割かし気に入っているのだ。そこそこの努力とそこそこの結果があれば、そこそこ満足できる。もっとできるに越したことはないが、「そこそこ」さえあれば、充分に上出来なのだ。 「やるよ」 久遠は佐渡の手を押しのけて立ち上がる。佐渡は久遠を無理に押さえつけることはなかった。「それでいい」と無言の肯定をもらえたようで、嬉しかった。 手に入るものは少ない。でも、手にしているものも確かにある。久遠は汗の染み付いた竹刀の柄をしっかり握って、目の前にかざした。少しぼろくなってきた竹刀は、軽かったが、確かな重みもまた感じられた。 |