[Blade]
快晴の空の下ですっかり葉の多くなった桜が、わずかな花びらを盛大に散らしている。入学式から一週間近くが経ち、身体計測や授業も二回目以降のものが多くなり、そろそろ本格的な高校生活が始まろうとしていた。明日から部活動の仮入部期間に入るため見学先を相談する声も多い。 部活においては周りより何歩も進んでいて、優越感に浸りたい久遠であったが、今はそんな気分ではなかった。むしろ部活になんて行きたくない。久遠は机に突っ伏して、休む口実を考えていた。正式に入部したわけではないので行く義務はもともとないのだが、そこは小心者の性というやつである。 ここで都合よくお腹が痛くなったりればいいのだが、生憎と久遠は健康児で、お昼ご飯もしっかり食べてしまった。今日の弁当はマカロニサラダがおいしかった。強いて言えば他にもおかずが欲しいところだが(弁当の空白は全て白米によって補われていた)作ってもらっている身なので文句は言うまい。 中学校で(朱野会いたさに)無欠席であった久遠の中にレパートリーは少なく、体調不良以外では怪我くらいしか思い浮かばない。何か事故でも起きないかな、と不謹慎なことを考えていると、突然机が揺れた。 「なーに寝てんだよ!」 「とわっ!」 誰かが脚を蹴飛ばしたらしい。鈍い音が机に載せた頬に伝わってきた。衝撃で頭が跳ね上がり、重力にしたがって落ちるときにこめかみを打つ。とっさのことで反応し損ねた。 久遠は側頭部を抱えてうずくまる。当たり所が悪かったらしく鋭い痛みが走った。怪我でもすればいいと思ったばちだろうか。 「あ、悪い悪い」 その天罰を下した神の使者――やっぱり神様は久遠が嫌いらしい――はいたって軽い調子で笑っている。ちっとも悪気があるようには思えない。久遠は後ろめたさもあるので視線で文句を訴えるに留めた。久遠と目が合うと、そいつ――レナは、にっと口の端を上げる。後ろには当然のようにリカが控えていた。 「大丈夫?」 とリカに心配そうに顔をのぞき込まれ、久遠はうっかり「大丈夫」と答えてしまった。可愛い女の子に心配はかけられない、というのが男社会で染み付いてしまった男のエゴだ。 「休み時間に寝たふりすんのは根暗のやることだぜ?」 レナの方といえば相変わらず良心は微塵も動かないらしい。休み時間に純粋に睡眠が取りたい人とかに色々失礼な台詞だ。 「余計なお世話だ」 久遠は口をへの字に曲げて頬杖にあごを乗せる。別に元から明るい性格なわけではないし、ブルーなときに否定できる気がしない。虎琉とかならば音蔵とは無縁なのだろうけど。 久遠の反応に、レナは意外そうに目を丸くして唇を横に引いた。 「あれま、本当に気が沈んでたんかい。珍しいこともあるもんだ」 「俺、そんなに深く考えそうにないキャラしてるのか?」 「そんなことないさ。ただ、初日ははしゃいでたように見えたからな」 横でリカが「うん」と頷く。リカにまで言われてしまうと否定のしようがない。確かにはしゃいでいましたとも。今から思うとちょっと恥ずかしいくらいで、久遠は視線を横にずらす。 「身体計測の結果でも悪かったか? 身長伸びてなかったとか」 「何でそうなる……」 どうやらレナにとっては身体測定が目先の悩みの種らしい。久遠の興味はどちらかといえば後日行われるスポーツテストの方に向いていて、運動部に入ることを決めたやつらはたいてい白熱することになる(スポーツテストの結果によって入部が左右されたり、はたまたスカウトしたりする部があるという噂だ)。 本当ならスポーツテストの前に学力判定テストの心配をしなければならないのだが、受験を終え高校に入った開放感に浸る久遠には、勉強する気などさらさらなかった。 「身長なら去年より三センチ伸びたよ」 これから成長期が来る男子としては上出来だろう。おかげで念願の一七〇センチ代に届いていた。レナは残念ながらそんなに変わらなかったのか、「へ〜、いいな」とぼやいた。 「やっぱり男子はうらやましー。あたしは一センチしか伸びなかったよ。もう止まったなこりゃ」 手のひらで頭のてっぺん辺りを示す。並んでみないと分からないが、一見して一応一七〇センチはありそうだった。 「充分高い気がするけどな、女子にしては」 「ん、格好をどうにかしても身体構造ばっかりはどうにもならないしな」 レナは後ろにあった机に腰を下ろして、わざとらしく肩をすくめる。既定観念にとらわれないばかりでなく、現実もきちんと受け止めている辺りが彼女の強いところでもあった。 「神戸の強さが俺にもあればね」 男のくせに自分は何と弱々しいことか、とつい考えてしまう。口に出したらリカに怒られてしまいそうな発想だった。 近年女性は強くなった、だなんて嘘だ。昔から女性は弱くもあり強くもあった。男性もしかりだ。ただそれが社会性によって、女性は弱く男性は強い、という恣意的な観念が形成されただけで、現代はその形が崩れたから、女性が強くなって男性が弱くなったように見えるだけだ。 ……というのがリカの持論だった。レナのこともあるせいか、リカはこの手の問題に関して非常に神経質だ。なので久遠はリカの前ではジェンダーについて気をつけるようにはしている。 「いい加減、レナでいいって言ってんのに」 実際はレナの方がジェンダーに関して深刻な問題を抱えているはずなのだが。あまり気にしている様子が見られないのは、リカがその分かばっているからなのか。不思議なコンビだ。 「わたしもリカでいいからね。レナちゃんもわたしも神戸で、呼びにくいでしょう?」 「うん、まぁ……」 双方からの主張に久遠は言葉を濁す。知り合ったばかりの女子を下の名前で呼ぶ度胸など久遠にはない。どうにか「神戸」と「神戸さん」で使い分けていたが、苦肉の策は一週間ももたずに崩壊寸前だ。だいたい、普通科は七クラスあるのに同姓のやつを同じクラスに押し込める方が悪い、と教師にまで責任転嫁を始める。 他に何か方法はないのか。あだ名とかを考えてみたらどうか。レナ、リカ……人形しか思い浮かばない、挫折。 頭を抱えてあからさまにうろたえていると、吹き出したのはレナだった。 「こんなどうでもいいことを深く考えんなよ! たった二文字だ、ほれ、言ってみな」 空手黒帯の実力で背中を叩かれる。鋭い一撃に久遠はうめき声を上げる。痛みで息が詰まって声が出せない。佐渡といいレナといい、手加減というものを知らない。彼らの通う中学には手を抜くなという校則でもあったのだろうか。 これ以上虐げられては身が持たない。そう判断した久遠は、軽く咳き込んで、やけ気味に口を開いた。 「レ、ナ」 レナ、というよりも「レ」と「ナ」を並べて発音してみたようなぎこちない単語だった。それなのに顔がかっと熱くなって、鏡を見なくても赤くなっていっているのが分かる。しもやけのあと熱を持った手のひらのように、内側からじんじんと熱が頬をかすめる。 幸い、レナはそれに満足してくれたようで、「やればできるじゃん!」と再び久遠の背中を叩く。久遠の方としては、言うとおりにしても痛い目を見る羽目になったので、理不尽な気持ちでいっぱいだった。 レナはさっと手を引き、今度は軽く久遠の肩を叩く。久遠が顔を上げると、視線がレナの豪快な笑みにぶつかる。 「その調子なら、うじうじ悩んでたことも、どうにかできんだろ!」 久遠の返答を待たず、レナは一方的に「んじゃ飲み物買ってくるわ」と言って背を向ける。リカもちらりと久遠に視線はやったが、特に何も言いもせずその後につき従っていった。レナを守る騎士のようだった。 取り残された久遠はぽかんと二人の背中を見送る。レナの赤髪を見て最初のうちは避けていたクラスメイトも、今では慣れた様子で、あっさり人ごみの中へ押しやっていく。教室から出て行く姿を見ることもできないまま、ほどなく二人はいなくなっていた。 「励まされたのか」 それだけは分かって、気恥ずかしいやら嬉しいやらで、久遠は後頭部を掻く。 「励まされたんだろうな」 独り言と思っていた言葉に思わぬ返事が返ってきて、久遠はイスを引いて後ずさった。背もたれが後ろの席を打つ。慌てて振り返るが、幸いなことに誰も座っていなかった。 「いつから」 後ろに向けていた視線を横に流す。久遠の席の真横に、腕を組んで無駄に仁王立ちをしている佐渡がいた。 「久遠が机に伏して一人寂しくうずくまっていたあたりから見ていたが」 「ほぼ最初じゃねーか」 授業直後から突っ伏していたので同じクラスの佐渡が目撃しているのは当たり前なのだが、改めて見られていたことを自覚すると恥ずかしいものがある。 「黙って見てたのかよ」 「生憎と俺は、近づいてほしくないというオーラを出しているやつに声をかける趣味も、おなごと和気あいあいと会話に花を咲かせているところに水を差す趣味も、持ち合わせてはおらん」 正論を言われて久遠は文句を言う代わりに唇の先を尖らせる。おそらく佐渡は久遠が落ち込んでいる理由を知っているだろうから、声をかけづらかったのも仕方がないだろう。佐渡が人の会話に踏み込んで来るような性格でないことも分かりきっている。 久遠の様子が変わったのは昼休みの生徒会室からで、佐渡は何も言ってこなかったが、何も言わなかったからこそ何となく分かっていたのだろう。もしかしたら数日前から、入学時に絶好調だった久遠のテンションが下がりつつあることにすら、気付いていたのかもしれない。色々と超越した佐渡のことだから、何でもありのような気がした。 「少しは気が晴れたか」 「まーな」 少なくとも気がそれたのは確かだ。根本的な解決にはなっていないが、何の解決にもならないうじうじ状態からは脱却できた。久遠は身体を起こし、腕を上に伸ばす。ずっと伏せていて停滞していた血流が一気に駆け巡っていった。 そのまま組んだ手を空中で止め、久遠はぼんやりと授業の痕跡が残る黒板を見る。国語の先生の整った文字が、縦書きに連ねられていた。本来なら授業後にすぐ消されるべきだが、今日の日直はちょっとサボっているらしい。 授業中もぼんやりしていたから今さらチョークの文字を追いかけたところで、意味が上手く頭に入ってこない。久遠は意味もなく「熱」という字を見つめながら、ぽつりと呟く。 「みんな、強いよな」 レナもリカも、佐渡も強い。もちろん個性もそうだが、人間的にも強い。吹雪も強い。朱野も強い。 青海雪夜も強い。久遠には歯が立たない。何せ、久遠の引退試合で、久遠を倒した佐渡が、決勝戦で敗れた相手が青海なのだ。 どうして平凡な自分の周りに、これだけ強い人間が集まってしまったのかと、久遠は自分の運のなさを呪いたくなった。平凡な人間の中で埋もれていれば、自分が平凡であることも気にしないまま、生きていけたかもしれないのに。 現に久遠は今まで平凡さについて悩んだことはなかった。朱野を目の前にして、ただ遠くから彼を見ているだけで、満足することができていた。傍にいられることすら幸運なのであって、自分の立ち位置にまで考えを及ばせることはできなかった。 だのに今は朱野と自分の遠さを思うだけで泣きたくなってくる。本当にまぶたの辺りからじんわりと熱いものが浮き上がってきて、久遠は腕を下ろした。 「なぁ、佐渡。俺もお前の弟子になったら、久瀬先輩みたいに強い人になれんのかな」 ごまかそうと思って口を出た冗談は思いのほか震えていて、久遠は言うんじゃなかったと後悔した。 「やめておけ、俺も存外にただの俗物だ」 何も突っ込まずに続けてくれるのが、今は逆にありがたかった。久遠はこっそりと湿った空気を吐いて、乾いた空気を吸い込む。新しい校舎のにおいにはまだ慣れなくて、未知の場所なのだということを再認識する。 佐渡がただの凡人というのならば、佐渡の感じている世界は久遠の感じている世界と同じなのだろうか。私立学校の清潔すぎる建物のにおいをかぎながら、意識の表層にも上ってこない違和感を感じたりするのだろうか。多分違うだろうなと思った。 ならば佐渡に勝った――佐渡よりも非凡な青海ならば、もっとへんてこな思考をするのだろうか。それも違うと思った。 佐渡の言うことは久遠にはよく分からない。ただ一つ言えるのは――久遠は何が何だかよく分からなくなって、平凡とか非凡とかいう話が、どうでもよくなってきたということだけだった。 |