[Blade]
特別久遠が意識していたわけではなく、彼らに目が行ってしまうことは、仕方のないことだと思う。モデル体系の長身美形と、人形みたいな小柄なハニーフェイス。風が吹くたびにきらきらしたものが風下に流れていく気がする。あからさまにそこだけ空間が違うのだ。 久遠は校舎の端から、反対側の渡り廊下を通ろうとする彼らの姿が見つけられた。久遠の周りでも数人そのカップルに気がついたようで、そちらを振り返る。 「あ、緑山先輩と青海じゃん」 「レナちゃん目が良いね」 その隣のリカは見えていないらしく、一生懸命身を前に出して目を凝らしている。前のめりになったところで数十センチしか変わらないのだが、微笑ましいので久遠含め突っ込む者はいなかった。 方向的にこれから進学科の方へ向かうのだろうか。目的はおそらく昼食だろう。久遠たちはもう数分お預けなので、うらやましい限りだ。前の時間が実験であった久遠たちは、いったん教室へ戻らなければ昼休みは始まらない。 当然久遠も教室へ帰らなければ、飯にはありつけない。財布も教室なので飲み物も買えない。育ち盛りの少年として、昼食を食いっぱぐれるのはまっぴらだった。 それなのに、久遠は教室とは反対側に走り出していた。 「おい、久遠! どこに行くつもりなんだよ!」 「野暮用!」 レナの大声が追いかけてくるが、面倒なので一言で済ませた。久遠が昼食も食べずに走り出す理由を語るには、中学三年の引退試合の話から始めなければならない。 レナの声が素直に途切れたのは、事情を知る佐渡が止めたからだ。佐渡は半ば呆れた様子で、子供を見守る父親のように優しく久遠の背中を見ていた。 あまり走ってばかりだと先生にマークされるかもな。そんなことをぼんやりと考えながらも、速度をゆるめるのは怖かった。 二人の歩いているところは空間が違うのだ。久遠なんかは、必死で走らなければ追いつくこともできない。見えるときに走っておかないと、チャンスがつかめない気がする。それほどに彼らは遠い。 遠いが、彼らが時空を超えた画面の向こう側の人間ではないことくらいは理解できている。久遠は走れば届くのだ。 「おい、青海、ちょっと待て!」 久遠の足より音速の方が早い。久遠は校舎の壁に消えかける二人に向かって声を張り上げた。 久遠の大声に驚いて足を止めたやつらを、追い抜いていく。青海も、声に反応して顔を心持久遠の方に向ける。だが内容までは聞き取れなかったのか、立ち止まらずにそのまま歩いていく。 だー、止まれっつーの! 再度叫んで加速したかったが、前方から歩いてくる人にぶつかりそうになって、できなかった。 「あ、すみません!」 惰性で数歩進んでしまってから頭を下げる。後ろを振り返ろうとするとまたぶつかりそうになってきりがないので、かまわず走る。 ようやく廊下の端にたどり着いて、渡り廊下をのぞき込むと、思いの他二人の背中が近くに見えた。 「青海!」 もう一度叫ぶと、今度は声が届いた。青海が立ち止まる。振り返る瞬間、髪の毛がふわりと舞う。久遠はその動きがスローモーションで見えるような気がした。 通りで動きが綺麗だと思ったら、姿勢がいいのだ。直立で背筋が伸びているとか、そういうことではない。しなやかで隙がないのだ。これならどこからでも打ち込んで来れそうだ。 同時に、自分がまるで無防備であることに気付く。途端に身震いした。 話を切り出してこない久遠に対して、青海は不機嫌そうに「何?」と呟く。低めに発音された声は、地声が高めであることを隠しきれていなかった。 「朱野先輩に会ったか?」 久遠はじわり、と核心に詰め寄る。追いかけてきたは良いけれど、それ以上近寄るのは怖かった。そこはもう青海の竹刀が届く範囲、青海のテリトリー内なのだ。 でも聞かないよりはマシだった。真実を聞かないであれこれ考えていても不毛なだけだ。朱野が去ったあと、久遠は事のてん末がどうなったのか、ずっと気になっていたのだ。 「ああ」 さもどうでも良いことのように、答えはあっさり返ってくる。鮮やかな小手。しかしまだ浅い。 「朱野先輩の話、引き受けたのか?」 久遠は一気に踏み込んだ。心臓が大きく伸縮し、身体を震わせる。久遠は今完全に無防備な状態だった。今度カウンターを受ければ、それがどんな手であろうと、耐え切れないだろうと思った。 逃げ出したい気持ちを抑えて、久遠はその場に踏みとどまった。耳をふさぎたい気持ちを抑えて、心の中で竹刀を持ち続けた。それが久遠の唯一の武器であり、防具だった。 「あたりまえだろ」 竹刀が強くはじかれる。強く握り締めていたはずなのに、竹刀は容易に久遠の手元から取り上げられた。たった一つの答え以外を切り捨てた青海の強さに、根負けした。 完敗だな、と思った。久遠は握り拳を解き、力なく腕を下ろす。 ここまでアウトオブ眼中だといっそすがすがしい。目の前にいた久遠すら、彼には見えていなかったに違いない。まさに孤高という言葉がよく似合う少年だった。 久遠は何だか笑えてきて、「はは」と乾いた笑いを漏らした。 「あっはっはっは」 しかしその笑いは、緑山の発した明るい笑い声にかき消された。目を愉快そうに細め、軽く手まで叩く。何故緑山が笑うのか皆目見当もつかなかった久遠は、ただぽかんと口を開けるばかりだ。 青海の方はおおよそ見当がついているのか、怪訝そうな瞳を横に向けながらも肩をすくめる。 「この妙な事態は、ゆうの差し金?」 「いんや、こいつらが勝手に勘違いしただけだよ」 緑山はにやけた笑みを浮かべつつ、渡り廊下の先を指差す。つられて久遠がそちらを見ると、緑山以上に晴れやかな笑みを浮かべた朱野が、大きくこちらに手を振りながら駆け寄ってきていた。 予備動作なしの朱野成分に見舞われ、久遠は中毒症状を起こしかける。久遠は胸を押さえて背中を丸めた。ローからハイへのテンションの切り替えが追いつかず、久遠の心臓が悲鳴を上げている。それでも顔だけはしっかり朱野を見ていた。 朱野の後光はすっかり回復していて、笑顔のせいかむしろ今までよりも輝いているように見える。久遠は心の中でまぶしさのあまり手で顔を覆う。現実にはもちろん、そんなもったいないことはしない。 「ユキ!」 ところが朱野のその第一声で、久遠は思考を引き戻される。そうだった。たった今、朱野は青海のものになってしまった、ということが証明されたばかりなのだった。 朱野の笑顔は青海に向けられていた。朱野は真っ先に青海の両手を取り、握り締める。目の前で見せ付けられ、久遠は自分のハートにヒビが入るのを認識できるような気がした。 「引き受けてくれて本当にありがとう!」 そのままハグしそうな勢いで、ぶんぶんとつないだ手を振る。朱野は見ていたいけど、ラブラブっぷりは見せ付けないでほしい。複雑な衝動の間で、久遠は視線をうろうろさせていた。 朱野は青海の手をぱっと放し、同じくらいの勢いで緑山の手を捕まえる。緑山がさっと右手を避けたせいで、左手しか捕まえられなかった。 「緑山も色々と悪かったな!」 「いやいや、おかげで滑稽なもん見られましたから」 緑山は意味ありげなことを呟くが、テンション絶好調な朱野にはまったく聞こえていない。ただ「ありがとう!」と繰り返しながら、腕を上下するだけだ。 朱野はくるりと方向転換し、さらに久遠にまで向かってくる。久遠はあまりの輝きに吹き飛ばされそうになりながら、太腿に力を入れて何とか踏ん張った。その場に立つことが精一杯だった久遠は、全くの無防備状態で朱野を受け容れることとなった。 朱野が久遠にダイブしてくる。久遠は近づいてくる朱野の像をゆっくりと見つめていた。笑顔をたたえた朱野が、自分に。衝撃的な情報が、異常なほどのんびりと、体中に伝わってくる。 毛細血管を一回りし、ようやく脳みそに視覚的情報が伝わってきたときには、久遠は朱野の腕の中にいた。 肩を押さえる固い感触が朱野の腕であることを認識し、久遠は一気に身体を沸騰させる。熱が一斉に表皮に浮き上がり、肌を赤く染める。逃げたがる熱は朱野に押さえられ、外に出ることも許されなかった。 自分の熱と朱野の熱に暖められながら、久遠は無抵抗に朱野のブレザーに顔を押し付ける。制服の布地は朱野家の柔らかな匂いをたっぷり含んでいた。 朱野、朱野、朱野。心臓の音が全て朱野を呼ぶ声に変換されていた。 「久遠がいなかったら、ユキを見つけられなかったよ。女子の戦力が手に入らなかったのは残念だったけど、これで今年の男子は団体戦でも敵なしだぞ……!」 朱野が熱っぽい声でしゃべる。その声が別の名を呼ぶのは悲しかったが、朱野が喜んでくれるのならばそれで良いような気がした。朱野の歓びが自分に向けられている。それ以上の栄光が、どこにあるだろうか。 「朱野先輩、おめでとうございます!」 感極まって叫ぶが、布越しの声はどうにもくぐもっていた。朱野の「ああ!」という返事だけが耳元でやたら大きく響く。 朱野は強く久遠の背中を叩いて、身を離す。もっと引っ付いていたかったが、公衆の面前であることもあって、久遠は素直に身を引いた。何より青海の前で朱野を独占するわけにはいかない、と珍しく気を利かせてみる。 朱野は改めて青海に向き直る。散々暴走したせいか、その声は少しだけ落ち着いてきていた。 「剣道部に来てくれて、本当にありがとう」 「いえ」 朱野のテンションに圧されてか、青海はぼそりと言う。 「スポ推ですから、最初から受けるつもりでしたよ」 久遠はかすかな違和感を覚える。引き受けたのって、交際の話じゃないのか? 「あの、もしかして」 久遠は朱野の制服の袖を引く。朱野は「ん?」と小首を傾げながら、にこやかに振り返る。威力は収まったものの、まだ充分な脅威を誇る朱野の後光は、久遠には毒だ。久遠はその笑顔ですべて誤魔化されそうになりながらも、言葉を続ける。 「朱野先輩が申し入れたのって、剣道部入部の話……?」 「そうだけど」 それ以外何があるんだ? と無邪気な顔で聞いてくる。久遠は一瞬意識が遠のきそうになった。 「あの大会のときから、ユキの腕がぜひ欲しいと思ってたんだよ。ユキの瞬発力には一目見た瞬間惚れ込んだね! せめて一度は手を合わせたいと思ってたんだが、まさか同じ学校に来ているとは思わなくてさ! これは何が何でも剣道部に入ってもらわなければと……久遠? どうした、聞こえているか?!」 聞こえてません。久遠はふらふらと揺れる天井を眺めながら、その場にへたり込んでいた。 |