[Blade]
強い風が窓を打つ。春特有の強風だった。窓の揺れる音が静かな生徒会室の中をそっと通過していく。 生徒会室の中には人間が二人おり、これといった仕事もしておらず、条件的には何らかの会話が成立しても良い状況だった。だが二人はソファーの端と端に座り合い、唇を閉ざしていた。 入り口側に座っていた朱野が、下唇をかみ締め、組んだ拳で目元を隠す。眉間には深くしわが刻まれている。仕事が忙しくて刻まれるしわとはまた違う。 温厚な朱野がそういった顔をするのは珍しい。何でもそつなくこなせる彼には、そういった顔をする必要がないのだ。面倒ごとを押し付けられたとき、はたまた面倒ごとを起こされたときに苦渋の顔は見せるが(そしてお人よしの苦労人である彼は面倒ごととの遭遇率が高い)、彼が「自分のため」に顔を歪ませることは滅多になかった。 「もう一度聞く」 朱野が顔を上げる。手を膝元に下ろすと、視線を一転に集中させることさえできないほど追い詰められた瞳があらわになった。小刻みに動向が角度を変える。 かち合わない視線を横目で見ながら、対する緑山は長い足をテーブルの上に投げ出した。上履きのかかとがテーブルに載る。そしてそれを注意する余力すらも朱野には残っていない。 「ゆきよという少女を知らないか」 朱野がずっと探している人物だった。久遠を含め、後輩たちの最後の大会を見に行ったときのことだった。うだるような暑さの、おおよそ室内での大会には向かないような日だったが、朱野はたまたまその日が開いていたので見学に行ったまでだった。そこに運命は待っていた。 久遠たちがそこまで勝ち残らなければ、あるいは朱野がその日に用事があったならば、出会わなかった人物。朱野にはそれを運命としか言いようがない。 圧倒された。否応なしに引きずり込まれた。まばゆいまでの存在感。 傍で話したことすらない。ただその鋭く深い瞳だけが朱野の目に、身体に焼きついて離れなかった。そして火傷を残した身体がじんじんと訴えかけてくるのだ。 あいつが欲しい。 久遠から聞いた名を、入学式の名簿で見かけたときは奇跡だと思った。一年生の名前に触れる生徒会員という役職についたことをそのとき以上に感謝したことはなかった。入学式の日にクラスにまで押しかけた。 だがそこにゆきよという少女はいなかった。 いるはずなのにいない人物。同じクラスであるはずの虎琉に尋ねても知らないと言われたときは、絶望して世界の終わりを見たような気がした。 それでも、ゆきよは必ず存在するのだと朱野は確信していた。生徒会室で見た人物――髪の色は変わっていたが、全身が放つ「気配」のようなものが、「あれがゆきよだ」と叫んでいた。 真偽を確認するために朱野は緑山に尋ねた。「彼女はゆきよという人物なのではないか」と。答えは。 「言ったろ。俺はそんなやつ知らない」 再び同じ言葉が繰り返されるばかりだった。 朱野はソファーの背もたれに強く拳を押し付ける。鈍い音と共にかすかな埃が円状に舞う。 「何故だ!」 朱野の叫びが風の音を打ち消す。腰が浮きかけるが、立ち上がって緑山に飛びかかることだけは押し留めた。 「いるはずなんだ! 大会に優勝し、UT学園に入学したはずの少女が!」 心をわしづかみにして放さない。朱野の悲痛な叫びだけが放たれていく。 「俺はどうしてもあの子が欲しいんだ!」 「まるで恋してるみたいだな」 「そうだよ」 緑山の皮肉を朱野は素直に肯定した。逆に緑山の眉がぴくりと跳ねる。 「俺は焦がれている。一度彼女を遠くから見ただけだ。それでも俺の心が彼女を欲してやまないんだよ。 なぁ緑山、本当に彼女は」 「しつこい」 緑山は一声で朱野の言葉を打ち切った。二本の指が唇に伸びるが、そこには緑山の愛用する煙草はない。緑山は舌打ちした。 新入生歓迎期間は生徒会室で煙草を吸うな、というのが会議での決定だった。そうでなくとも法律的に吸ってはいけないのだが、緑山にとっては法律よりも会での決定事項の方が重要だった。 「何度も言うが、ゆきよだなんて少女はいない。聞いたことも見たこともない。全校生徒の名前と顔を記憶している俺が言うんだから間違いない。ついでに大サービスで今俺は絶対に嘘はつかない。それでも信用できないか?」 「いや」 さすがにそこまで言われれば、朱野も首を横に振るしかなかった。顔をそらし、腰をソファーに深く押し付ける。結局また最初の体勢に戻った。 朱野は学年の成績は二位だった。一位を明け渡しているのは緑山である。授業にも不真面目な緑山だから、真面目に聞いて予習復習も欠かさない朱野より、その理解力と記憶力と元からの頭脳は数字で見る以上にずっと優れているのだろう。 朱野は才能の差を恨めしいとは思わないし、純粋に尊敬すらしている。はっきり言って性格はあまりよくないイタズラ好きの緑山だが、「嘘はつかない」と言う以上は絶対に「嘘はついていない」のだろう。だから緑山の偽りのない情報ほど信頼の置けるものはなかった。 「だったら、生徒会室にいた少女は」 それでも諦めなかった心が、苦し紛れの問いを返す。緑山は無言でテーブルを蹴った。脚が床をこすり、向かい側のソファーにぶつかって、ガチャンと音を立てた。 「それも言ったよ。俺の親友はゆきよなんて女じゃない」 「……そうか」 声を震わせながら、朱野はその三文字を吐き出すのが精一杯だった。道は全てふさがれた。朱野は現実を受け容れるしかなかった。 朱野は口を開く気力をなくし、緑山は答える内容を失い、再び沈黙が訪れる。普段の朱野なら「悪かったな」とわびの言葉を付け足すはずであるが、それをする力さえもう残っていなかった。 窓ガラスが揺れる。荒れ狂う風のごうごうと鳴る音は、朱野の心の中の音を、そのまま鳴らしているかのようだった。 生徒会室のドアが揺れた。内側からではない、外からの圧力がかかったからだった。さらに言えばそのドアの前に立っていた久遠が、身体を動かしたからであった。 久遠が動いたのを見て、佐渡も壁から背を浮かす。壁を叩いて、ドアに視線を向けた。 「話は終わったようだが」先ほどまでポツリポツリと朱野の声が聞こえていたが、数十秒前から、生徒会室からは一切の物音が途絶えていた。「中に入るか?」 「いい」 久遠はきっぱりと答える。 「緑山と話しがあるから」と朱野に追い出されたあと、終わるのを待って見学だけはしていこう、と提案したのは久遠の方だった。佐渡は若干呆れつつもまぁ予測していた答えだったので、「分かった」と返し、あっさりと引き下がる。かえって久遠の方が、教室へと戻っていく佐渡の背中についていけなかったくらいだ。 佐渡の背中をぼんやりと見つめながら、久遠は後悔していた。邪な心を出して立ち聞きなんかするんじゃなかったと。取り込み中だと分かった時点で引き下がれば良かったのだ。 正直朱野の会話の内容に興味があった。それは朱野がゆきよイコール雪夜ということに気付いたのではないかという疑心からだったが、限りなく最悪の形で予感は的中した。 朱野は「ゆきよ」に恋焦がれている。久遠など入り込む余地がない。最初から朱野が見ていたのはたった一人だったのだ。 緑山は真実しか言っていない。ゆきよという少女は「存在しない」。それは青海という「少年」のことだからだ。 「雪夜」は正しくはせつやと読むのだが、朱野は何の因果かゆきよだと勘違いしているらしい。思考がワンテンポずれている虎琉はさておき、吹雪がこの勘違いにすぐ気付いたのも当然だ。 逆に、もし吹雪に聞いていれば、起こりえなかったすれ違いだ。偶然によるズレが、物事をおかしな方向に運んでいる。久遠はその偶然を、どうしても幸運なものとしては、捉えることができなかった。 朱野がすんなり青海を見つけることができていたなら、朱野の青海に対する思いなど、見せ付けられることはなかった。どうせ結末は決まっているのなら、わざわざ延長試合などやらないでほしかった。その延長戦には希望などなく、ただ久遠をじわじわと追い詰めるだけなのだ。 「俺に恨みでもあんのかよ……神様」 記憶をたどってみれば、青海と雪夜は全く同じ顔をしていた。なぜ下駄箱で会ったときすぐに気付かなかったのか不思議なくらいだ。先入観とは恐ろしい。「青海は金髪」というキーワードと「雪夜は女性」というキーワードが、二人を重ね合わせることを妨げていた。 黒髪の青海に会ったときに、久遠ですら女と勘違いしたくらいだ。男という情報が与えられず、断片的にしか青海を見ていなかった朱野が、今でも青海を女だと勘違いしているのは――ある意味で仕方のないことなのかもしれない。 そして久遠の脳裏にふと思い浮かぶ。 朱野は女と思っているからこそ恋焦がれているのだろう。ならば、青海が男だと教えてやれば彼の気持ちはどうなる? 自分の思いつきに久遠は寒気がした。今まで朱野を喜ばすための行為は惜しまなかったものの、これは朱野を不幸にする思いつきだ。その一線を越えてはならないと思いつつも、思いつきの続きを考えてしまう。 朱野にとって久遠がどれほどちっぽけな存在かは分かっているつもりだった。剣道は全国大会に行くほど強くて、学校でいつも五本の指に入るほど頭が良くて、ファンクラブができるほど格好良くて、面倒見が良くて優しい。どこまでも完璧な朱野は一般人の久遠にとって雲の上にいるような人だった。 それでも、傍にいればその優しさを分けてくれるから満足だった。格好いい姿を間近で見られるだけで幸せだった。――はずだった。 今さらのように自分の薄弱さを思い知る。雲の上の彼にとって、久遠は地面を這う蟻の一匹でしかなかったのだ。 特別な誰かさえ現れなければ、薄弱さを誤魔化しながら、朱野の恩恵にすがれたのに。久遠はゆきよに、雪夜に、そして青海に、激しい嫉妬と劣等感を抱かざるをえなかった。 それが誰であるのかもはや関係ないのだ。朱野の心を奪った。その事実が、久遠の胸をぐっさりと刺して、空っぽの中身を暴き出してしまったのだ。 何のとりえもない人間。そして、――浅ましい心を持った人間。 軽い自分の中身がぽろぽろとこぼれ落ちていくのを感じながら、少しでも足掻こうと、久遠はこぼれる涙を手のひらで救い上げた。 涙は指の隙間を滑り、廊下の床へと落ちた。 |