[Blade]
先刻別れたばかりの友人と、意図せず目的地でばったりはち合う、ということはたまにある。そんなときは思いがけずして嬉しくなってしまうものだが。 相手が佐渡じゃなぁ、と久遠は心の中で呟いた。 たまたま同じ学校に来て、しかも同じクラスになって、その上部活まで一緒ときたら、よほど仲の良い友達でない限り「もう良い」という気持ちになる。それなのに出会いの神様はよほど久遠を佐渡の親友にしたいらしい。 部活の次は委員会か。生徒会室の前で遭遇するということは、佐渡の記真面目な性格を考えても、そういうことなのだろう。 「よもやお前も生徒会の見学に来たのではあるまいな」 先に聞いてきたのは佐渡の方だった。よもやとは久遠がそんなに生徒会に入りそうなキャラに見えないのか。久遠は不服そうに下唇を突き出す。強い口調で「そーゆーことだよ」と返した。 他人から言われるといささか腹が立つが、少なくとも真面目には見えないであろう自覚はある。久遠は長く伸ばした茶髪の髪を指でいじった。 佐渡は肩眉を上に跳ね上げる。 「どうせ朱野がおるからだろう」 髪をいじる手が止まる。図星以外の何者でもない。入学式からまだ数日だというのに、しっかり行動パターンを読まれている。佐渡に観察力があるのか、久遠が単純すぎるだけなのか。後者であるような気がひしひしとする。 思考は単純明快だ。久遠は朱野見たさに仮入部もまだ開始していない剣道部に通い詰めていた。しかし朱野は生徒会の仕事が忙しくてなかなか部活に来なかった。 結論、自分も生徒会に入れば問題ないんじゃね? 朱野と一緒にいる時間が増えて一石二鳥と、久遠は今まで生徒会など興味がなかったのに、ノリだけで生徒会室の前まで来てしまっていた。 答えがないのを肯定の意と取って(現に肯定なのだが)、佐渡は「やれやれ」と肩をすくめる。 「生徒会は生徒の補佐を行う、いわば重要な雑用係といったようなものだぞ。勢いでやるようなものではない。そんなことでは仕事に飽きがくるし、大変な思いをするだけだぞ」 佐渡の言葉がずんずんと久遠の頭の上に置かれていく。いちいちもっともすぎて、久遠はあまりの重さに膝をつきそうになった。 実際もし朱野と仕事をできる機会があまりないのだったら、続けられる自信はない。朱野は中学時代も生徒会に入っていたが(しかも生徒会長だった)、久遠は三年間生徒会などというものにはついぞ無縁のままだった。朱野を抜きにして言えば生徒会なんて「面倒くさい」というのが本音だ。 「……佐渡は中学時代やってたのか?」 悔し紛れに聞くが、ほぼ答えは確信していた。果たして「ああ」という答えが返ってきた。 「副会長をな」 「あれ、てっきり会長とかやってると思ったんだけど」 「会長は虎琉がやっていた」 そこで「え」と驚きの声を漏らしてしまうのは失礼なことだろうか。何も考えていなさそうな屈託のない笑顔と、生徒会長という仕事は、にわかに結びつきがたいような気がした。UT学園の生徒会長は歴代腹黒らしいと聞くから、特にそんな先入観がある。 「それに俺は上に立つのは好みではない。補佐の方が性に合っている」 それもそうだ、と久遠はえらく納得してしまった。佐渡は特に目立つものはないが(個性的過ぎるのはさておいて)、あえて裏方に徹しているような雰囲気をうかがえた。日本的過ぎる謙虚な心がそうさせるのかもしれない。 久遠には佐渡のボランティア精神が理解できない。久遠はあくまでも面倒ごとは避けて通りたい一般人である。大会の後片付けを手伝うこともないし、病弱な選手の介抱を率先して行ったりもしたくない。 入学式翌日早々倒れていた「雪夜」に関しては、進路に倒れていたからたまたま声をかけたが、最終的に何も手を貸さずに終わってしまった。ゆきよイコール雪夜であると知った今では、手を貸さなくて良かったとすら思っている。 結局何年生なのか確認するにはいたらなかったが、数日間遭遇しないということは学科自体が異なるのだろう。その方が面倒でなくて、久遠は少なからずほっとしていた。できることならこのまま関わらない方向性でいきたい。同時に、そういう心の動きが「一般人」なのだろうと自嘲する。 「それで、お前はとりあえず中に入るのかはいらないのか」 「え、と」 改めて自分が生徒会などというキャラでないことを再確認している折に聞かれ、久遠は言葉に詰まる。いったん勢いで生徒会室まで来たものの、佐渡に遭遇してすっかり勢いが萎えてしまっていた。 佐渡との腐れ縁を断ち切るか、朱野と少しでも一緒にいることを選ぶか。頭の中の天秤で、朱野の方がわずかに重く傾げた。 「とりあえず見学だけ」 「そうか」 久遠が言うなり、佐渡は心の準備をする暇も与えず、生徒会室のドアを引いた。引き戸のドアが二枚完全に重なり、生徒会室の内部が姿を見せる。 久遠の想像していたよりはずっと快適そうな部屋だった。少なくとも、空き教室をそのまま利用していた中学時代の生徒会室よりはだいぶ優遇されている。中央にはソファーがどっしりと置かれているし、壁際にはやたらとスタイリッシュなパソコンが印刷機付きで置かれている。おそらく新しくて高いやつなのだろうということはパソコンの知識がなくても何となくうかがえる。 日当たりもよく、廊下からもパッと見死角になる位置で、職権乱用して私的利用できたらさぞかし居心地が良いだろうと感じたが。 関わりたくないと思った矢先の人物と再会してしまった。しかも最悪の形で。 「ん……」 ソファーに背を預けた人物が声を漏らす。のどからしぼり出され、鼻からわずかに抜けていく、湿った甘い声だった。長身の男が唇を重ねその声を吸い取っていく。 男に暖められたせいか、名前の通り白い肌は上気しており、雪の上に淡く桃色に色づいた桜をまいたようになっていた。シャツからはだけた首筋には、もっと濃い赤が点々と散っている。 雪夜はとろんとした目つきで力なく男の腕の中に身体を寄せた。密着する肌に男が手を這わせる。雪夜は身じろぎするが、そう強いものではなく、簡単に長い指が服の中に侵入していく。 「あ……っ」 どこに触れたのか、愛撫される背中が軽く反り、こらえ切れなかった感覚が声となって漏れた。黒い髪が首をかすめ襟首にかかる。 久遠は顔を引きつらせる余裕もなかった。 停止する身体に反して、映像だけがただ目の前で流れていく。久遠はドアの向こうが巨大なスクリーンになっていて、そこにリアルなポルノ映像が流れているのだと解釈した。 ずい分豪勢な設備のついた生徒会室だな、へー、でも昼間からこんな映像流してていいもんかね、ふーん。 目の前の風景が遠い世界のものであると割り切って、動かない身体の代わりに意識を遠ざける。あと一メートルくらい離れれば意識も手放せそうだった。 いい感じに離れかけた久遠の意識を瞬時に引き戻したのは、やはり彼しかいなかった。 「あれー、何やってるんだ久遠、さわ」 BAAAAAAAAN! とけたたましい音が朱野の声を掻き消した。久遠は一瞬の間にドアに手をかけ、閉めていた自分に気がついた。この瞬発力で面を打ち込めば佐渡からも一本奪えるんじゃないかという勢いだ。 自分のものとは思えない反応速度に感動しつつ、久遠はこぼれんばかりの笑みを浮かべて首を後ろに向けた。 「朱野先輩!」 「何、やって、るんだ……?」 行き場をなくした笑顔を困ったように歪ませ、朱野は問いを繰り返す。声をかけたときにあげた手が小さく下がっていく。 「何でもありません!」 久遠はドアを閉める手に力を入れつつ、声を張り上げた。久遠の大声に朱野の肩が小さく跳ねる。久遠は君主を思いながら前線で攻めてくる敵を抑える兵士の顔つきで、力強く朱野を見つめる。 安心してください、朱野先輩! あなたは俺が守ってみせます! と心の中では叫んでいるのだが、朱野に事情が分かるはずもなく、瞳に困惑の色を強めるだけだった。 長いため息をつき、佐渡がたしなめるように口を開いた。 「強く閉めたらドアが傷むだろう」 「だからそこ突っ込むのかよ!」 びしっと空を叩いた片腕が思わずドアを離れる。久遠は慌てて手を添え直した。 「空気読めよ佐渡! 先輩は天使なんだから不浄なものを見せられるわけないだろう! 飛べなくなっちゃうだろう!」 「言っていることが支離滅裂だぞ。とにかく落ち着け」 「不浄? 何かまた緑山がやらかしたのか?」 朱野が何かに思い当たったように顔を上げる。幸いなことに「天使」というワードはあまり聞いていなかったようだ。朱野はすたすたとドアに歩み寄り、凹凸に手をかけた。 久遠と朱野では根本的な力に差がありすぎる。何やらわめきながら両手で押さえる久遠に対し、朱野は平然と片手でドアを開いた。押し負けた久遠が数歩後ろによろめき、佐渡に捕獲される。 あー、と久遠が騒ぎ出す前に、朱野は生徒会室の中に踏み込んで鋭い目つきを室内に向ける。竹刀を構える相手の隙を探すときと同じ目だった。その目を垣間見て、久遠は瞬時に押し黙る。 温厚な朱野が獣に変わる一瞬だった。久遠の背筋が震え上がり、こみ上げてきた感情が涙となってにじんでくる。かぁっこい〜、という呟きの代わりに、熱っぽい嘆息を漏らした。 特に異変がないのを見ると、朱野はすぐに獣の色をなくしてしまった。いつもそうだった。朱野はたいてい試合を長引かせないため、その表情が見られるのはごくわずかの間だった。 久遠は残念がるより前に目の前で見た光景を頭の中で繰り返すことに一生懸命だった。暴れるよりは面倒でなくていい。佐渡は安全そうだと判断すると久遠を解放した。 「久遠が騒いでるから」名前を呼ばれて、久遠の背筋がしゃきっと伸びた。「また何かやらかしたのかと思ったぞ」 「信用されてないのな」 朱野の位置からは真後ろなので見えないが、緑山の位置からは久遠の一連の動作がよく見える。彼は笑いを噛み潰しながら言った。 それがふざけて発言したように見えた朱野は、眉間にしわを寄せる。 「その態度でできるわけがないだろう。いつも煙草吹かしたり酒持ち込んだり他校生連れ込んだり」 「入学したばかりの親友に生徒会室を紹介していただけだよ」 言って緑山はわざとらしく肩をすくめた。ソファーの背に肘を載せて足を組み、意味ありげに口角をつり上げ朱野を見上げる。 演技がかった動作もいちいち絵になる男だった。日本人離れしているモデル体系と端正な顔立ちがそう見せるのだ。朱野も教室のドアと同じくらいの背丈があるが、緑山も同じくらい背が高い。筋肉がついていない分緑山の方が細身に見える。 朱野が柔和な好青年ならば緑山は少し悪そうな香りのする美少年だ。緑山が釣り目なのでそう見えるのかもしれない。 徐々に現実世界に意識を引き寄せながら、対照的な二人だと久遠は感じた。 「なぁ?」 同意を求められ、今まで黙して壁際に突っ立っていた雪夜が動きを見せる。雪夜はいつの間にか緑山の腕の中から移動しており、服もきちんと着ていた(それでもシャツのボタンはいくつか開いているが)。よく見ると雪夜は男子の制服を着ており、レナの件といい、昨今は制服の男女差など無関係なのかもしれない。 雪夜が緑山と並ぶと、二人はまさに美男美女カップルのように見えた。雪夜の肌は粉雪のように白くきめ細かい。まだ赤みの残る頬はドアを開けたときに見た映像がけして幻想ではなかったことを知らせる。 改めて見るとお似合いだな、などということをのん気に思いつつ、久遠は今頃になって朱野が雪夜を捜し求めていたことを思い出した。先ほど見た光景からして、緑山と雪夜が親密な関係であることは疑いようもない。この室内に三角関係が出来上がっていることに気付く。 居たたまれない気持ちになり、久遠は助けを求めて視線を動かした。雪夜と二度遭遇し、朱野を慕う久遠も、間接的には当事者なのだ。どうにか核心に触れないでやり過ごせないものかと思案する。 久遠の心配をよそに、雪夜は久遠に目もくれることなく、緑山の台詞に「ん」と端的に呟いただけだった。反応は期待していなかったが、あまりの淡白さに久遠はがっかりしたようなほっとしたような、複雑な心境になった。余計なことを言われるよりはいいが、そもそも雪夜が久遠を覚えてるのかすら怪しい。 「そうか」 頷きながら朱野が雪夜の方を振り向く。朱野の瞳に雪夜が映りこむ。 雪夜の目にも朱野が映る。大きな瞳を縁取るまつ毛はとても長く、くっきりとした二重まぶたが、さらに目を大きく見せている。だのにその中には何が映っているか分からないような神秘さがあった。 久遠はその瞬間、二つの目線がかち合うのを防ぎたい心持になる自分を感じた。ただ直感的に、二人の目が合った瞬間、サイダーに重曹を投下するように、何かが起こる気がした。 久遠は朱野の目に輝きが宿るのを認めた。同時に、久遠の中でざわめきが駆け巡る。 朱野の内的な変化に気付いたのは久遠だけのようだった。久遠には周りのものが全て一時停止され、朱野と自分にだけ時間が流れているように思えた。それほど朱野の変化に反応を示したものは誰もいなかった。 「どこかで」 半ば呆けたように、朱野が口を開く。 「会ったことはないか」 「いいえ」 会話はそれだけだった。朱野に弁明する余地も与えない。雪夜は朱野に軽く会釈し、緑山に向き直る。 「ゆう、また」 短くそれだけを言って生徒会室から素早く出て行く。静かな足の運びは足音さえ感じさせず、雪夜の気配だけが動いて久遠の脇をすり抜けた。雪夜が通ったあたりは幽霊が触れたかのようにひやりとしている気がした。その感覚はかつてもどこかで味わったことがあるような気がした。 触れて確かめようとして、久遠は手の指を曲げる力すらも入らないことに気付いた。久遠の手は、雪女と遭遇したみたいに、がちがちに凍り付いてしまっていた。 圧倒的な実力差。只者ではない。久遠は体の奥に残る感覚が、ようやく頭の奥に残る記憶と結びついた。 雪夜。通りで見覚えのある名前のはずだ。佐渡の名と同様に、久遠は何度もその名を目にしているのだから。忘れもしない、久遠の引退試合で優勝を決め、全国大会への切符を手にした人物の名だった。 青海――下の名前は、雪夜。 勝てる相手じゃない。剣道でも、それ以外でも。試合は既に高校入学前から決まっていたのだ。突然宣告された不戦敗に、久遠はただ呆然と突っ立っていることしかできなかった。 |