[Blade]


 手を振りながら近づいてくる少女に、湿気の残る髪を梳きながら朱野が顔を向ける。朱野の髪は久瀬よりも長いため、汗に塗れた髪がまだ乾ききっていなかった。しきりに手櫛でほぐしている。指の間を綺麗な銀色が抜けた。
「吹雪、見学に来たのか」
 朱野は破願して妹に手招きする。反対に久遠は顔をしかめる。朱野吹雪、因縁の相手だった。この学校の二人目の朱野、朱野について回る小姑のような存在。
 彼女のブラコンぶりには久遠も苦労させられた。朱野にはファンが多かったが、生半可な熱意では吹雪のいびりにふるい落とされることとなる。持ち前の才覚を余すことなく発揮して相手の才能のなさを罵り、「その程度でお兄ちゃんに近づかないでよね!」と言い捨てていく。
 久遠はあらゆる意味で吹雪に勝てたためしがなかった。久遠が未だに朱野の傍にいられるのは彼女に認められたからではなく、単にガッツと執念の賜物である。
 吹雪は女性としては背が高く、百六十の後半はあった(レナよりは少し小さい)。以前から高かったその身長もファンをいびる武器の一つで、吹雪より背の低い者は真っ先にふるい落とされた。しかし背の高い朱野と並ぶと、むしろ吹雪の長身がちょうどよく見える。
 朱野に色素がないのは生まれつきらしく、現に妹の吹雪もかなり色素の抜けたシルバーブロンドである。吹雪の方は長い髪をざっくりと三つ編みにして、肩甲骨の辺りに垂らしている。解いたらもっと長いだろう。
 二人とも整った顔立ちにあいまってよく似合っていると思う。垂れ目がちで優しげな顔つきをしている朱野は、明るい金髪よりも銀髪の方が合う。
 まるでファンタジーのワンシーンを見ているようだった。美形兄妹なのでファンタジーでも妙にしっくりくる。袴姿と制服姿というのが妙に現実的だが。というか、銀髪とシルバーブロンドにははっきり言ってミスマッチだ。誰か代えの衣装を持ってこいと言いたい。
 それでも一瞬見惚れてしまった。「何?」と聞かれて意識を引き戻される。吹雪が眉をひそめて久遠を見ていた。
 敵に見惚れてしまうとは情けない。吹雪は必然的に朱野に似ているから仕方なくもあるのだけど。久遠は手を顔の前で振って「いや別に」と何かを否定する。
 吹雪はさして気にする様子もなく(あんたなんかどうでもいいのよ、とでも言いたげだ)、後からついてきた少年の方に視線を向けた。
 彼の奇抜なファッションに久遠は怪訝な顔つきを隠せなかった。背が高めであることを抜かせばこれといった特徴もない少年だったが、唯一つ首もとの首輪だけが異彩を放っていた。
 首輪以外が普通すぎるからおかしいのだ。髪も黒髪で長くも短くもないし、目の色も普通。制服はちょっとくたびれているからお下がりだろう。学年色が緑だから、久遠と同じ一年生のはずだった。
 だのに首輪にはロープがついており、その先は吹雪が握っていた。まるで猛獣使いと猛獣である。
「やっほ〜、清司。久しぶり!」
 つながれている本人はいたって温厚に口を開く。噛み付くどころかその口調からは牙すらも見当たらない。
「今朝ぶりだな」
「サワジーも久しぶり!」
「中学の卒業式以来だな」
 とすると、首輪の少年もリカやレナと同じ中学なのだろう。久遠は頭の中で人間関係を整理する。佐渡の知人はどうにも奇抜な人間ばかりで逆に覚えづらい(というか覚えていたくない)。
「君は?」
 なのになぜかこっちに矛先が向かってくる。久遠は思わず名乗るのをためらってしまった。そこをすかさず吹雪ににらまれる。
 久遠は「ひえ」と口の中で悲鳴をあげる。はっきり言って吹雪の方が猛獣みたいだ。
「久遠、です」
 何とかそれだけをしぼり出す。吹雪は不服そうににらみを利かせているが、首輪の少年の方はさして気にならなかったらしく、「そう、久遠くん」と満足げに笑う。
「俺は、草壁虎琉。虎に琉球の琉でたけるって読むんだ。よく変わってるって言われる」
 左手を久遠の方に差し出しながら、続ける。
「あとテストのときとか書けなくて困る」
 久遠は乾いた笑いを返しながら、自分の左手を軽く見た。握手を求められているのだろうか。素直に応えようかどうか迷って、虎琉を見上げる。
 笑顔には陰りがない。何かをたくらんでいる様子はなさそうだ。久瀬と同じように、特に深く考えてはいないのだろう。
 久遠も深く考えないことにした。立ち上がって、虎琉に視線を合わせる。改めて並んでみると、やはり久遠より背が高い。朱野といい吹雪といい虎琉といい、周りにはやたら背の高い人間が多い気がする。久遠より背の低い佐渡が隣にいて、妙にほっとする。
 少しだけしびれの残る足を軽く開き、左手を差し出す。そういえばどうして左手なのだろう。若干の疑問がよぎるが、虎琉は一方的に久遠の手をさっと掴み、ぶんぶんと振った。
 手を放すと「これで友達!」と虎琉が満足げに目を細めた。ずいぶんとお手軽な友達である。
「佐渡、友達はこうやって作るんだぞ」
 久瀬の言葉に、「できるわけない」と言いたげに首を背けた。佐渡もこれをまねすれば友達百人も夢じゃない気もするが、逆に佐渡にはとてもまねできそうにない方法だ。佐渡は友達の概念まできっと古風だから。
「それで」
 吹雪が虎琉と久遠の間に割って入る。吹雪が自分の慕う誰かと他の誰かが親しくしているときに見せる嫉妬のしぐさだ。つながれた首輪からは見当もつかないが、虎琉は吹雪にかなり気に入られている存在らしい。
 それともこれはそういうプレイなのだろうか。想像するととんでもない方向に考えが行ってしまいそうだった。久遠は別に邪魔されてもかまわないので(いろんな意味で)素直に引く。
「虎琉に何か用なの?」
「そうだ虎琉」
 朱野に呼ばれ、虎琉がくるりと身体を反転させる。ロープがその分首に巻きついて、吹雪が律儀に解いてやる(そうするくらいならはじめからつけなければいいのにと、不思議に思う)。
「お前顔が広そうだから聞きたいんだけど」
「そんなに広くないよ」
 両手で側頭部を押しながら答える。いや、顔の幅じゃないからさ。本気でやっているのか冗談なのか図りかねて、久遠は閉口する。
「物理的な意味じゃない!」
 拳で軽くこめかみを押さえながら、朱野がため息をついた。虎琉が小首をかしげている辺り、どうやら本気で言っていたのだろう。久遠と同じく反応に困ったのか、吹雪や久瀬が苦笑しつつ視線をそらしている。
 朱野は小さく咳払いをして気を取り直す。
「ゆきよって女子、知らないか?」
 久遠はかすかな違和感を覚える。どこかで聞いたことがあるような名前だ。しかし思い出せない。
 すぐそこまで出掛かっている気がするが、決定打に欠ける。自分の記憶が自由に操れないというのは気持ちの悪い感覚だ。
「ゆきよ……女の子……」
 呟きながら呻る。虎琉も一応思い当たる節はあるのか悩みはするものの、決定的な答えは出てこないらしい。
「ごめん、判らないや」
 虎琉が言うと、朱野は微笑みながらも目を伏せる。
「そうか」
 残念そうにしている表情を隠したいのだろうが、うつむいてできた影が逆に朱野の顔に陰りを見せている。久遠は少し胸が痛んだ。それだけ「ゆきよ」という人物を気にかけているということだ。
 見たこともないゆきよという女性を思うと久遠の胸にチリッと熱いものが浮かぶ。朱野は何だかんだで誰にでも優しい。彼はもてるし、付き合った女性も何人も見てきた。逆を言えば、特定の誰かに固執することはなかったのだ。朱野が誰かに思いを寄せる姿は、もしかすると初めて見たかもしれない。
 朱野の心が誰か別の人のものになる。あるいはすでに心奪われている状態かもしれない。久遠は胃の中に鉛を詰め込まれたような気分だった。胃が重い。消化不良だ。むかむかする。
 ゆきよ、あんた、何者なんだ。聞いたことがある気がするのに思い出せない。それが一番やきもきする。おぼろげに像が頭の中に浮かんでいるが、どれだけ目を凝らしても、はっきりしない。
 朱野が見初めるくらいだから、きっと綺麗な人なのだろう。例えば今朝見た人くらいに。
 久遠ははっとした。「雪夜」。その文字が鮮明に浮かび上がる。学校指定のカバンの側面、白い布地に油性ペンのにじんだ字で、確かに書いてあった。そしてそれはゆきよと読める。
 久遠はほぼ野生的な直感で、ゆきよと「雪夜」が同一人物であることを悟っていた。
 だがその直感はほとんど無意味であることもすぐに悟った。結局久遠には「雪夜」の学年すらも分からないのである。UT学園に在籍している、という程度の基本事項は、今さら何の役にも立たなかった。
「お兄ちゃん、それってまさか」
 誰もが頭をひねっている中で(いや、佐渡は興味なさそうにぼんやりしているが)吹雪が唯一声を上げた。大きな瞳を更に押し広げて、吹雪が朱野を見上げている。
 彼女は何かに行き着いたのだろう。のどの奥から声が出てくるのを待ちきれずに、唇だけが動いている。誰もが吹雪に視線を注いでいた。
 ――結局吹雪は何も言わなかった。口を閉じて、何事もなかったかのように軽く微笑んで見せた。
「何でもない。虎琉、帰ろう」
 朱野が口を挟む隙を与えずに、隣の虎琉のロープを引く。首から伸びるロープがぴんと張った。首が絞まったのか虎琉が苦しそうに呻く。
「迷子になっちゃうから離れたらダメよー」
「はーい」
 散歩に行く犬と飼い主の図だ。吹雪はロープを掴んだまま虎琉を引っ張っていく。虎琉はそのままついていく。
 それでいいのかお前ら。久遠はポツリと思ったが、他人が口を出すことではない。本人たちが良いと思っていればそれで良いのだろう、たぶん。
 妹の後姿を自分の肩越しに見送りながら、朱野は「どうしたんだろう」とぼやく。唐突な吹雪の退場に釈然としない様子だ。それには久遠も同意したい。
 吹雪は最後に言いかけた言葉をごまかすために立ち去ったのだろうが――なぜ、何も言わなかったのかがひどく気になった。
 ゆきよ、雪夜。その答えは吹雪だけが知っている――のか?
 肝心なことを忘れているような気がして、なにやら釈然とせず、久遠は首を傾げた。



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