[Blade]


 白い壁が左右を塞ぎ、真四角のタイルが天井に並ぶ。足元は渋めの濁ったグリーンで、窓から斜めに入り込む光を反射し、白く光っている。
 久遠は入学式前に体育館入り口で配られた地図を片手に、視線を左右にやる。おのぼりさん丸出しだがいたしかたがない。どの廊下に行っても似たような風景であるため、地図でもないと久遠でも迷子になりそうだ。
 地図は入学式のプログラムの裏にカラーで印字されている。紙は少し厚めの光沢紙。細かいところで金がかかっているのはさすが私立だと思う。しかし私立とはいえ、入学金や授業料は公立と十万程度しか変わらない。一芸に秀でた人間が集まる校風を買われ、どっかから援助金が出ているかららしい、といつぞやのオープンキャンパスで聞いた。
 地図は二ページに渡っていて、片方は高等部と中等部の全体図である。校舎は全部で八つあり、半分が高等部の校舎だ。二つのエリアは山を上下に横断するバス通りによって区切られている。
 久遠のクラスがある校舎はちょうど四つの校舎の真ん中に位置している。どこへ行くにも近いが、代わりにたくさん道がありすぎて方向を間違えるとややこしいことになる。
「教室から行くときは行くときでややこしいけど、体育館から四階まで上ってくるのもだるいな」
 今まで三階建ての校舎に慣れ親しんできた久遠としては、四階建てというのはかなり高く思えた。運動後ともなればなおさらだ。運の悪いことに久遠のクラスは見晴らしの良い四階だった。
「朝練を早めに切り上げればいいだろう。特待生の校舎はもっと遠いのだから、先輩方も配慮するだろう」
 四つの校舎のうち一つは特別棟でクラスのない校舎であり、残りの三つがそれぞれ普通科、特殊技能科、進学科に当てられている。久遠は言わずもがな普通科で、一番端にあるのが特殊技能科だった(一芸に秀でている者を集めたUT学園で最も特徴のある学科らしく、性格も個性的な者が多いと聞くが、佐渡とレナでお腹いっぱいの久遠は、これ以上どんな個性派が集まるんだとげんなりした)。
「面倒臭い……」
 ぎりぎりにならないとやる気が出ない久遠としては、五分前行動どころか時間に合わせるのも苦手だ。中学時代も朱野がいる内は頑張ったが、三年生のときはちょっとだれて内申が危なかった(もともと見栄えのするものではなかったが)。
 朱野さえいれば頑張れる自信があるのだが、佐渡に口うるさく言われるとやる気がなくなってくる気がする。勉強しようと思っていたところに母親から「勉強しなさい!」と言われるのと一緒だ。
 久遠としては友達というよりまさに親から見張られている気分になるのだが、佐渡が剣道部に入らないわけがない。朝練にもしっかり参加していたし、放課後久遠が剣道部の見学に行くと言ったら、当然のように佐渡もついてきた。
 二階の渡り廊下を過ぎてA棟に入ると、すれ違う生徒の雰囲気ががらりと変わる。眼鏡の比率が格段に上がり、まさに秀才ぞろいといった感じだ。朱野は眼鏡をかけてないが、この進学科に属しているはずだった。反射的に朱野の姿を探してしまう自分がいた。
「師匠!」
 と場違いな単語を発しながら現れたのは、残念ながら朱野ではなかった(朱野だったら逆に困るが)。
 二人が振り返った先にいたのは、自称剣道部副部長の久瀬であった。剣道部には各学年に副部長が存在するため実際に副部長なのだが、朱野が仕事をほとんどやってしまうために「自称」なのだと本人が言っていた。
 剣道着の袖を大きく振りながら先生にとがめられるのも気にせず廊下を駆けてくる。いつも何が楽しいのか判らないが満面の笑みを浮かべており、とりあえず全てにおいて豪快な男である。
 袴姿に上履きというのもまた豪快に不釣合いだ。そもそもなぜ体育館とは逆方向から走ってくるのかもよく判らない。
「信一、廊下は走るな」
「あ、まずそこを突っ込むんだ」
 部活前に袴を着込んでいることなどは佐渡にとって瑣末なことらしい。久瀬の動向は日常茶飯事なのか、A棟二階の住人も教師以外気にせず廊下を行き来している。
 久瀬は佐渡の目の前で止まり、短く息を吐く。
「師匠はこれから剣道部?」
 師匠、というのは佐渡のことらしい。一体どういう関係なのかは謎だが、朝練のときもそう呼んでいた。
「人前で師匠はやめい。苗字で呼べ、信一」
「そっちこそ少しは先輩を敬えよな」
 久瀬は苦笑しながら言う。先輩を呼び捨てにする勇気は久遠にはない。久遠だって朱野を下の名前で「清司(はぁと)」とか呼んでみたいが……先輩に対してそれは失礼に値するだろう。
「では久瀬先輩」
 少しの躊躇もなく佐渡は言い直す。
 逆に久瀬の方が顔をしかめた。固めているのかつんつんと逆立っている短い髪を、軽くいじる。
「やっぱいい」
 ポツリと漏らして久瀬は久遠に向き直った。
「久遠も一緒にいるってことは、二人は友達だったのか? 朝練ではそんな話してなかったけど」
「え、まぁ」
 急に話を振られて久遠は言いよどむ。思わず答えてしまったが佐渡の方が久遠を友達と思っているかは判らない。佐渡は横目で久遠に不審そうな視線を寄越していた。悔しいので言い直した。
「これから友達になる予定です」
「予定かよ!」
 予定は未定。本当に友達になるかどうかまでは久遠に責任は持てない。
 久瀬は短く息を切って断続的な笑い声を上げた。
「師匠……じゃなくて佐渡、友達少ないからぜひなってくれよ」
「お前が勝手に決め付けるな」
 佐渡がむっとした様子で抗議の声を上げる。少し口調が荒くなった辺り、かすかな動揺を感じる。もしかすると図星なのかもしれない。
 実は友達が欲しかったのか。久遠が揶揄するような笑みを浮かべて佐渡を見ていたら、しっかりとばれていたようで佐渡の肘に強めに小突かれた。それを見た久瀬が小さく吹き出す。佐渡は軽く久瀬をにらみつけ、つま先で久瀬の足をこつんと蹴飛ばした。
「時間の無駄だ。早く行くぞ」
 一方的にそう言い放ち、佐渡が歩き出す。あっさりと久遠を追い抜き、すたすたと行ってしまう。久遠がその後ろを慌てて追いかけた。
 久遠が肩越しに後ろを見ると、久瀬がのんびりと歩きながらついてきていた。ついてくるというより単に目的地が一緒なだけだろう。どうせ行く場所は同じだと判っているからか、久瀬が歩調を速める様子はない。
 師弟関係? つーかお前、何者? そもそもこの学校、変な奴多くねぇ?
 口に出したいことは山ほどある。そのどれだけに、佐渡が答えてくれるかはさておいて。これから三年間、自分で答えを探していくのも、七不思議の謎を解くみたいで面白そうだ。
 とりあえず今は、黙って佐渡の隣を歩くことにする。

 竹刀が身体の真正面に重なる。足を肩幅に開いて前に出し、肘をわずかに曲げたその基本姿勢でさえ、黄金比を元に造られた彫刻のようだった。完璧でいて美しい。芸術作品にして残したい。久遠は体育館の壁際に腰を下ろして、熱っぽい息を吐いた。
 時間が朱野に収縮し、止まる。静止している朱野とともに、全てのものが静止してしまったように見えた。飛んでる鳥さえも久遠の目には止まって見える。
 それでいて今にも動き出しそうなエネルギーに満ちている。隙はない。相手がどこからどんな攻撃を仕掛けても、朱野は対応できるだろう。その動きが容易に想像できるほど、朱野の構えは整っていた。
 久遠は神話の世界の英雄を見ている気分だった。朱野が真剣を持つ時代に生まれていたら、実際に英雄になっていたに違いない。落ち着いた青のマントが頭の中で翻る。
 低く腰を落とし、朱野は足を前に出した。頭の位置は変わらない。重心は数センチもずれることなく、激しい踏み込みが体育館の床を揺らす。
「面!」
 腹の底から出された短い一声。床が震え、空気が震える。二つの振動を身体の表面で感じながら、久遠は背筋を震わせた。熱いものが目尻にこみ上げる。
「かぁっこいぃー……」
 ため息混じりに呟く。感激しすぎて上手く言葉が出ない。胸が熱くて苦しくて、この場で溶けてしまいそうだった。
 ずっと待ち焦がれていた朱野の部活姿だ。このためだけに久遠は勉強も部活も頑張ってきたが、朱野の姿を見るたびに頑張って良かったと思える。おつりが来るくらいだ。
 久遠にとって朱野が剣道をしている姿以上に感動するものはない。冗談抜きで、生きていて良かったと思えるのだ。胸を押し上げる高揚感。幸福、という言葉では表しきれないくらい心を熱くさせるそれを味わえるのなら、久遠はどんな代償でも払ったっていい。頭の中で朱野の動きをリプレイしながら、久遠の意識はどこか違う世界へとトリップしていた。
 実際の世界では、朱野とその相手をしていた久瀬が、練習試合用に貼られたテープの外で礼をする。朱野は試合終了後まで綺麗な姿勢で、背骨から頭までまっすぐにしたまま深々と頭を下げる。
 テープから数歩離れると、二人ともまずつけていた面を取り外した。面の中は蒸れるためなるべくなら必要最低限つけたくないというのが共通の思いだ。面を外すとすでに久瀬の頬には汗が流れている。久瀬は袴の袖で頬を拭った。
「やっぱ朱野の試合風景は正面から見るのが一番迫力あるな」
 久瀬は歯を見せていたずらっぽい笑いを朱野に向ける。練習試合とはいえ、仮にも対戦した相手に言う言葉ではない。どちらかというと観客の台詞である。
「お前、対戦相手だっていう自覚あったか?」
「ないね」久瀬は即答した。「だって俺がどれだけあがいても、朱野にはかなわねーよ」
 言う久瀬には、妬みや自らを卑下するものは何もない。むしろ尊敬の念さえこめて、潔く負けを認めている。朱野の方が恥ずかしくなって、照れた笑いを浮かべた。
「久瀬だって強いじゃないか。佐渡の一番弟子なだけある」
 面を脇に抱え、久遠の隣で正座している佐渡に視線を向けた(正座している方が佐渡は落ち着くらしい)。久遠は自分より先に佐渡が呼ばれたことにむっとする。下唇を小さく突き出し、恨めしそうに佐渡を眺める。佐渡は少しも足がしびれている様子はなく、膝を立ててすっと立ち上がった。
「弟子として紹介するにはまだまだだ恥ずかしい。だが、始めたころに比べれば格段に上手くなった。とりあえず神経の図太さなら誰にも負けないだろう。練習試合とはいえ、朱野の前に立っても怯まずに立ち向かえるのは同学年ではこいつくらいだろう」
 あまり賞賛の言葉はないが、佐渡はどこか誇らしげに目を細めた。久瀬もどこか褒められているのは伝わったのだろう。笑みを少し歪ませて、嬉しそうに「まーな」と相槌を打つ。
「あの」
 どうしても気になって、久遠は声を上げた。朱野が小首をかしげながら振り向く。朱野のさりげない動作も可愛いな、と思いつつ、久遠は口を開く。
「さっきから師匠とか弟子とか聞こえるんですけど、一体何なんですか?」
「ああ」頷いたのは朱野だった。「確かに周りから見たら変かもな」
 かも、ではなく変です。久瀬と佐渡がいる手前、口には出さないでおく。
「俺も最初は不思議に思った」
「んー、俺は今更おかしいとは思わねぇけど」
 まぁ、普通はおかしいと思っていたら公共の場で年下を師匠とは呼ばない。その点、佐渡は少しくらい不自然には感じているようだ。朱野に対するあっけらかんとした態度といい、久瀬は物事に深くこだわらない性格らしい。
「剣道教えてもらってたのが佐渡なんだよ。佐渡の親が師範やっててさ」
 その話なら朱野から聞いたことがある。久遠は頷いた。
「道場行ったら、俺より年下の佐渡がめっちゃ強くて。そこで俺が弟子入りしたってわけだ」
「あの時は冗談で弟子にするといったが、まさか本当になるとは思わなんだ」
 小声で佐渡の不吉な独り言が聞こえる。冗談て、あんた。少し青ざめつつ佐渡を見ると、佐渡は気まずそうに明後日の方を向いた。久瀬にまでは佐渡の呟きが聞こえなかったらしく、不思議そうに目をしばたたかせて佐渡を見ている。
 人には色々事情があるものだ。久遠は深くつっこまずに聞かなかったふりを決め込む。
 目を強く閉じて再び開けると、気分がすっきりして心なしか視界がクリアになった。朱野の後ろで、別の練習試合が始まろうとしているのが見える。注目の朱野の試合が終わってしまったためギャラリーは先ほどよりも少ない。
 入学式後も部活はやっているが、初日から見学に来る一年生はまだ少ないようだった。二階建ての体育館の内、入学式が行われた一階は、今片付けのために閉鎖中である。演劇部やバスケ部が今日のところ活動中止になっているので、本格的な部活動見学と勧誘が始まるのは明日からだろう。
 剣道着の合間に、制服がちらりと見えた気がした。制服を着ているということは見学に着た一年生だ。久遠は身体を傾けてもう一度制服を探す。
 思いがけず見覚えのある姿を見つけて、久遠は「あ」と声を漏らした。その声が聞こえたわけではないだろうが、タイミングよく向こうがこちらを向く。
「お兄ちゃん!」



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