[Blade]


 桜が咲いた。
「ついに!」
 久遠は教室から校庭の桜を見下ろし、拳を握り締める。
「憧れのUT学園に!」
 四階の端の教室、目の前に邪魔な校舎は見えず、数メートル下に中央広場がうかがえる。広場は綺麗な桜並木で縁取られていた。淡い桃色と白が入り混じった桜は、かすかなグラデーションを描いている。満開のため、微風が吹いただけで花びらが雪のように散る。
 受験のためにUT学園を訪れたときは、まだ暖房がよく効いた冬だった。冷える手で単語帳をめくっていた記憶が懐かしい。南から入り込んでくる光を浴びていると、冬という季節がひどく遠くに感じられた。
 サクラサク――半年間のみっちりとした受験勉強の末、久遠は何とかUT学園に合格した。
「行ける高校は他にもあるだろ? 近所に高校がたくさんあることは地方に比べればかなり恵まれたことなんだ。なのにお前、高校から浪人する気か? 若い時代の青春の一年を無駄にする気なのか?」
 成績が足りなくて担任の先生にはかなり真剣に諭されたが、頑張れば何とかなるものだ。
 憧れの朱野に勉強を見てもらった甲斐もあった。好きな人に勉強を教えてもらう……というところだけを切り取れば実においしいシチュエーションだが、本気で勉強が危なかったので甘い期待は現実の前に消えうせることとなった。
 だが今度こそ、同じ部活に入って高校生活を共にエンジョイすることができる! と、思う。
 入学式で生徒会員としてステージの奥に立っていた朱野の姿を見てから、久遠は入学式もホームルームも放り出して声をかけたい気持ちでいっぱいだった。前日には「これから同じ高校の生徒同士、よろしくな」と握手を交わしてもらったのだが、もう朱野成分が不足しているようである。
 朱野に会いたくて仕方がない。だのに。
 久遠は拳を作る。軽く窓に押し当てて、うなだれる。
 結局朝練には、朱野の姿はなかった。
 二年の久瀬という先輩に聞いたところ、生徒会の仕事だそうである。入学式の仕事ぶりから、どれだけ忙しいのかということはよ〜く判っているのだが、それでも落胆せざるを得ない。
 気合を入れた分、久遠のやる気の破裂具合は悲惨なものだった。正直せっかくの朝練もうろ覚えで、自己紹介を兼ねた各授業の説明はほとんど頭に入っていない。
 頭の中にあるのは、朱野先輩に会いたい、それだけだ。
 だが久遠はめげなかった。朝練がダメなら次がある。その次がダメでもまた次がある。伊達に無茶をしてまで朱野と同じ高校までついてきたわけではないのだ。
 同じ高校にさえいれば必ず会う機会はある。UT学園に入学したことによって、久遠の未来はまだまだ明るかった。
「く〜、早くホームルーム終わらないかな〜!」
「元気だな」
 後頭部に軽い衝撃を受け、久遠の上体は前に傾く。不意をつかれたせいでバランス感覚は容易に奪われた。ちなみに窓は全開。ここは四階。
「危なっ!」
 視界が開けて目の前に花壇が近づく。チューリップの鮮やかな赤や黄が綺麗だった。思いのほか地面は遠く、軽くぞっとする。
 両手に力をこめて身体を引き起こした。窓枠の凹凸が指に食い込み、視界が九十度切り替わる。
 久遠は叩かれた後頭部を押さえ、犯人をにらみつける。相手は凶器(手刀)を隠そうともせず、淡々と「危ないな」と言った。
「お前のせいで落ちそうになったんだけどさ」
「窓に身を乗り出すからだ」
 侘びの言葉すらなく、彼は久遠の横をすり抜け、窓を半分閉じた。教室の床に落ちる光の真ん中に黒い影ができ、半分がくぐもった色になる。さすがは私立、公立だった中学とは違い窓の桟は銀色の光沢を保っており、開閉もスムーズである。
 背中を押されて久遠は窓から一歩遠ざけられた。危ないから離れていろということなのか。どうにも子供扱いされているような気がしてならない。久遠は口をへの字に曲げて、窓から少しずれた壁に背を預けた。
「いたのか、佐渡」
「同じクラスだからな」
 わざとか無意識か、佐渡は窓と久遠の間に立つ。桜の色が黒い学ランにかき消された。
 かつてより短くなった髪は純粋な黒なのだろう、日に透けても黒い色を保っていた。背は少し見ない間に伸びている気がする。久遠より明らかに小さかったはずなのに、現時点ではほとんど差異がない。
 多少の変化はあるものの、忘れるわけがない。相手は中学最後の大会で久遠を破った男、佐渡なのである。
 教室に佐渡がいたときはそれはそれは驚いて「これが宿命ってやつか!」と思ったが、まるで旧知の仲のように「おう」と声をかけられたら拍子抜けしてしまった。もう少し劇的な場面になっても良さそうだが、つくづく現実とは淡白なものだ。あるいは佐渡が淡白なだけかもしれない。
 次に会うときも敵同士だと思っていたのに、いつの間にか「新しい友達」扱いになっている。人間というものはすぐにグループを作りたがるもので、近くにいる人間はそれだけでめでたく仮グループの一員になる。新クラスの仮グループに、佐渡・久遠ペアというのがすでに成立していた。
 久遠とて佐渡が嫌いなわけではない。ただ少し意地を張ってしまうだけだ。昨日の敵は今日の友。そんな簡単に人間関係ころころ変わって順応できるほど、久遠は図太くない。
 佐渡と目が合うと、久遠はあからさまに視線をそらす。佐渡は腕を組んで「ふむ」と呟いた。
「まあ良い。どうせ部活も同じだ。繁く付き合うことになる。そう慌てずとも、親しくなる機会は」
「まずその」
 耐え切れずに、久遠は佐渡が言い終わらない内に口を挟んだ。
「いちいち回りくどいしゃべり方、何とかならないか?」
 聞いているとだんだんイライラしてくる。何が言いたいのかすんなり頭の中に入ってこない。わざと判りにくく言っているんじゃないかと問いたくなる。
 佐渡は他のパーツは動かさないまま、器用に眉間にしわを寄せた。
「こういう癖だ。幼少の頃はよく奇特だと言われたものだ」
 昔からそうだったのか。それは奇特がられるだろう。現時点でも十分不自然なのだ。子供の頃はどうだったのか、想像しがたい。
 佐渡は長めに息を吐き出す。ゆっくりと息を吸い直し、数秒溜め込む。
「別に友達が普通のしゃべり方すっから、普通にできなくもねーけど」
 そこまで一気にしゃべって、また言葉を区切る。
「俺としては落ち着かんな」
「はぁ、まぁ……」
 言われてみると、回りくどい方が佐渡らしいかもしれない。少なくとも故意にやっているわけではなく、自然と回りくどくなってしまうということは判った。故意にやるのと自然にやるのと、どちらの方が性質が悪いかは図りかねる。
「お前が厭うなら精進しよう。俺としては大事なチームメイトだ、つまらぬいさかいなどしたくはない」
「あ、横文字は普通に使うんだ」
「お前、俺を何だと思っている」
「時代錯誤の変なやつ」
 きっぱりと言う。慣れるとなかなか面白いとは思うが、やはり聞きづらいので精進してもらいたいところだ。
「だいたい、学ラン!」
 久遠は佐渡の首元を指差す。春も盛りになってきたというのに、ボタンは全て締められている。
「今時第一ボタンまできっちり締めるか?」
 教室内にも学ランを着ている人間は何人かいるが、大体は一番上のボタンが機能していない。久遠もまだ中学の制服で、一つボタンの開いた学ランだ。
 UT学園の制服はブレザーだが、中学の制服も認められている。成長期前の男子はすぐサイズが狂うのでありがたいことだ。本当は早く朱野と同じ制服が着たいところだが、少しでも出費を減らしたい親は許してくれなかった。やはり一度に大金が出て行くのは避けたいのだろう。
 久遠は学ランの襟を引っ張り、第一ボタンが開いていることを強調する。佐渡はしごく当然のようにきっぱりと返した。
「ボタンがついているから締める。それまでだ」
 真面目なのか何も考えていないのかいまいちよく判らない回答だ。久遠は一瞬、とんでもないところにボタンをつけてやろうかとも考えたが、いちいち相手にしていると疲れそうなので自ら却下した。佐渡にまともな感性を求めるのが間違いだ。
 成長期さえ終わればボタン掛けが面倒な学ランともおさらばだ。そう気にすることもない。少なくとも今着ている学ランが短くなれば新しいブレザーがやってくる。現在まばらに残っている学ラン軍も、その内ブレザー軍に制圧されるだろう。
 だがブレザーを着た佐渡というのも想像しがたい。古風な佐渡はどちらかといえば学ランが似合う。頭の中に浮かべたUT学園の制服を目の前の佐渡に投影してみても、なんだがしっくりこなかった。
「何だ、俺の後ろに何か見えるのか?」
「え、いや」
 思わず佐渡をじっと見ていたことに気づき、あいまいな答えを返す。ブレザーが似合わなさそうだと言ったらさすがに失礼だろう。久遠は言葉に詰まる。
「早くブレザー欲しいな〜って」
「……そうか?」
 佐渡は顔をしかめる。古風な佐渡が新しいものを欲しがるとは思えない。どうせ「使えるならそれで良いだろう」とか言いそうだ。
「学ランで十二分だろう」
 ほらやっぱり、と久遠は思う。
「いやいや!」
 久遠は驚いて反射的に身をすくめた。――否定したのは久遠ではなかった。突然割り込んできた女の声に久遠はキョロキョロと視線を巡らす。
 声の主を探すまでもなく、今度は目の前ににゅっと手が割り込んできた。久遠が思わず一歩下がると、後ろの机に腿を打つ。
 あまりにも場違いな色に久遠は眉をひそめる。「不良」という文字が頭の中に浮かんだ。
 腕をたどって本体を見ると、目にも鮮やかな赤い髪に行き着いた。熟れた苺のように赤いその髪は、「炎」としか形容できないヘアースタイルだった。背は佐渡と同じといったところだが、短い髪をワックスで逆立てている分少し高く見える。
 見た目の威圧感とは裏腹に、赤髪の人物は明るく高い声の調子で言い放つ。
「やっぱり時代はブレザーでしょう!」
 自分が着ているブレザーの襟を掴んで、びしっと伸ばしてみせる。伸ばさなくてもおろしたての制服は充分な張りがあった。
 髪型のインパクトのせいか新入生にありがちの「着せられている」感じもなく、真新しい制服は確かに格好良く見えた。それはつまり今の体格にぴったり合わせてある、ということでもある。ズボンの裾までぴったりだ。
 ボブショートの髪型も相まって、中性的な彼女には男子の制服がよく似合っていた。背が高くて筋肉もあるからなおさらだ。下手にだぼだぼの制服を着ている男子よりもらしく見える。声を出さなければ充分男子で通せるだろう。
「ほう、レナは制服を新調したのか」
 乱入者を特に拒絶することもなく、佐渡は普通に言葉を返す。いまどきありえないほど生真面目……かと思いきや、赤髪――レナとか、青海みたいに奇抜な見た目をしているやつとも親しげだからよく分からない。
 レナは自慢げににっと笑った。
「リカも新しくするって言うから、ついでにな」
「男の子と違って、私たちはだいたい成長期終わってるから」
 レナの後ろからリカと呼ばれた少女がひょっこりと顔を出す。
 リカは穏やかに笑って、レナの肩に頬を載せた。髪がレナの新しいブレザーの胸元にかかる。UT学園の制服が女子に人気なせいか、周りを見ても女子は大体制服を新調している。
 そういうときはちょっと女子がうらやましくなる。女子の成長期が終わったのに男子の成長期は来ないこの時期は、身長も僅差でなかなかジレンマが多い。
 リカは黒いストレートの髪が良く似合う、真面目そうな少女だったが、久遠はすぐに「真面目そう」という認識が偏見でしかないことに気付いた。赤髪のレナとはおよそ似つかわしくないと思われたが、リカは臆することなく手まで握っていた。
 あまりにも堂々としているので久遠の方が恥ずかしくなってしまうほどだった。レナが男子の制服を着ていて、リカが女子の制服を着ているから、傍目には立派な男女のカップルだ。
「相変わらず仲むつまじく微笑ましいものだな」
「良いだろ」
 リカがつないだ手をひらひらと振ってみせる。ああ、うらやましいさ! と心の中で叫びつつ久遠は見ていた。
 もし朱野先輩とべたべたできたら……と想像してみるが、朱野は輝きすぎてとても「仲むつまじく」は見えないような気がした。風格が違いすぎて、良いとこ「主と従者」だろう。
 レナと比べれば明らかに控えめな性質を持ちながら、それに負けず隣に立つリカの在り方が、うらやましく思えた。どういった経緯で二人が結びつくのかは想像もしがたかったが、そこら辺は同中出身者にしか語れないエピソードでもあるのだろう。
 久遠はいささか異邦者の気持ちになって、一歩離れたところで三人の掛け合いを見ていた。それから中学時代の知り合いの、朱野や佐渡が傍にいて、思いの外はしゃいでいた自分に気付く。
 近所の高校を選ばなかったから、同中出身者は極めて少ない。久遠にとって、ここは仲間のいない、異邦の地なのだ。彼らの、特にレナとリカの連携の強さを見せ付けられて、その事実を思い知らされる。
 新しい土地。高校生活が始まったのだなと改めて実感できる。久遠はちょっとした感傷を覚えながらも、拳を握ってその感覚を握りつぶした。代わりに沸き起こってくる感覚。
「おいおい、俺も混ぜろよ!」
 佐渡の肩に飛びつき、久遠の体重を支えきれなかった佐渡が前のめりになる。佐渡がとっさに手をついた机が、床をこすりながら前に押し出された。
「危ないだろう!」
 抗議する佐渡に、久遠は笑って「さっきのお返しだ!」と答えた。四階から落下しそうになった恐怖に比べれば可愛いものだろう。
 胸にあるのは新しい生活へのわくわく。久遠の乱入にきょとんとするリカたちを前に、久遠は顔がにやけるのを抑えられなかった。



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