[Blade]
ブロック塀が流れていく。久遠の両サイドの景色が視界の端に吸い込まれては、新しい景色が目の前に迫ってくる。久遠は一心不乱に前だけを見ていた。 急げ。頭の中はその言葉で埋め尽くされている。 少し腰を浮かせて、体重をかけながら、ペダルを踏み込む。それを繰り返すこと数十分。田園風景がまばらに見える久遠の地元とは違い、周りには住宅地が隙間なく立ち並んでいた。 家と家の間にかろうじて自動車がすれ違える程度の狭い道路が交差し、一帯が巨大迷路のようになっている。同じ会社が一斉に建てたのか、並ぶ家に差異はなく、似たような四角い建物が延々と続く。 「富士の樹海はここは!」 目印になるような建物も見つからず、久遠はぼやく。大体の家は白い壁の上に落ち着いた赤の屋根が乗っかっている。さっきと同じ道を走っているような気がしてきて、久遠の胸に不安が浮かぶ。 前方に誰もいないことを確認してから、久遠は素早く腕時計に目をやった。液晶の中でデジタル時計は朝練開始二十分前を指していた。まだ時間はあるものの、肝心なのは今久遠が自分の現在地を把握していないことだった。 はっきり言って、迷子である。 「落ち着け」 久遠は小声で自分に言い聞かせる。まだ迷ったわけではない、なかなか目印が見えてこないだけだ。目印さえ見えてくれば、あとは左に曲がり、山を下っていけば高校が見える。自転車はこういうときに便利だ。下りとなれば自動車くらいに早くなる。 本来なら久遠の家から学校までは自転車でも一時間はかからない。飛ばせは四十分くらいでいけることは、入学前に確かめてある。今日はちょっと邪な考えが働いて、寄り道してしまったのがいけなかったのだ。 今久遠が走っているのは、朱野の家を通って、学校に行くコースだ。あわよくば朱野と一緒に登校できる……と甘い夢を見て道をそれたのがそもそもの間違いである。朱野は剣道の強い中学に通いたかったがために通学圏外の中学を選んだだけあって、予想以上に久遠の家から遠かった。 朝練といってもまだ仮入部期間なので参加する義務はないのだが、どうせならば初日から参加して朱野にやる気を見せたいところである。少し目を細めながら、「偉いな」と笑う……その一言が聞きたいがために、久遠は走っている。 とにかく今は朱野の家の近くにある建物を見つけないと自分のいる場所も判らない。児童養護施設、日暮園。その施設だけが頼りだ。 さっさと人に道を聞けばいいのだが、それは気恥ずかしいので最終手段としてとっておくことにする。幸いなことは、紛らわしい色の建物が近くにないことだ。施設はカスタードクリームのような色だと聞いた。 再び時計を見ると、五分進んでいる。時間と共に久遠の余裕も削られていく。日暮園を見過ごさないように両脇に意識をとられているので、スピードもあまり出せない。 その甲斐あってか、ようやく久遠の目に少し毛色の違う建物が見えた。 「あれ」 前方にちらりと見えたクリーム色に、思わず声を出す。すぐに家に隠されて見えなくなるが、隙間かちらちらとうかがえる。久遠は強くペダルを踏んでタイヤの回転数を上げた。 目の前にブロック塀が近づき、小さな丁字路に差し掛かる。その左側に、クリーム色の建物があった。二階建てなのでそう目立つわけではないが、横幅は広く、塀の中の敷地もでかい。普通の家二件分はあるだろう。庭に面した大きな窓ガラスが後方にある太陽を反射してまぶしかった。 児童養護施設ということで久遠はもっと大きなものを想像していたが、ここは少人数制らしい。スピードを緩めながら角を曲がり、建物の前で自転車を止めると、確かに「児童養護施設日暮園」というプレートが打ち込んであった。 「ここだ……」 やっと見つけた目印に、久遠は思わず深いため息をついた。再び時計を見る。集合時間まで後十分少々ある。ここから下り坂を飛ばせば剣道場まで十分はかからない。 間に合う。 自転車の向きを変えていざ漕ぎだそうと足を上げるが、足の裏は上手くペダルの上に乗ってくれなかった。 「君は」 背後からの声に押されるようにして、右足が空回りする。 「UT学園の子かな?」 振り返ると門の傍に久遠の母親と同じくらいの年齢の女性が立っていた。長いこげ茶色の髪をざっくりと一つに結わいている。桃色のエプロンにサンダルと、いかにも家事の途中であるような、アットホームな姿だった。 だが親しげな笑みを浮かべるその顔には確実に見覚えがない。そもそも近所ですらないのだから、施設に知り合いなどいるはずがなかった。 「はぁ」 あいまいな返答をすると女性は笑みを深くした。笑いじわが深くなる。四十代にはさしかかっているだろう。 彼女は久遠がかもし出している「あんた誰ですか?」というオーラにもお構いなしに口を開いた。 「見ない子だから一年生ね。急いでるようだけどうちの子たちもまだ出たばかりだから、間に合うと思うわよ」 口内をこするような笑い声(効果音で表すならクスクスだ)を上げる。 中年女性の井戸端会議は知人だろうが通りすがりの人間だろうが人種を選ばず時間を削っているものだと判りきっているので、久遠は焦った。間に合うことは判っているが、相手にしていたら確実に時間を食う(自分の母親はまさに加害者の側だ)。 まだ時間があるにしても早く行くに越したことはない。適当に会釈でも返してさっさとずらかろうと、久遠は「はぁ」と気のない返事をした。 その気配は察してくれたのか、女性は「あら、引き止めちゃってごめんねぇ」と笑いながら漏らす。 「うちにも一年生の子がいるから、ついね。ちょっと無口だけどお人形みたいな可愛い子見かけたら、仲良くしてやって?」 ふとミニチュア人形みたいな青海の姿が思い浮かんだが、どぎついシルバーブロンドはお人形と言うにはちょっと違う気がする。人形と聞いて久遠が連想するのは、どちらかというとおかっぱ頭をした日本人形だ。 このご時勢着物を着ているわけもないし、そんな人間実際にいるのかと思いつつ、久遠は日本人らしい建前で「判りました」と答えた。その方が円滑にこの場から離れらる。 ペダルを踏み、それがスイッチであったかのように、久遠は猛スピードで走りだした。少し左右によれながらも、自転車は前に進んだ。 ロスした分を取り戻そうと思うとスピードは加速する。スピードが出てくると安定して垂直に立った。 久遠はサドルから腰を浮かして、全体重をペダルに乗せる。タイヤが勢いよく回転し、景色の流れが速くなる。 その後ろの方で、女性は穏やかな笑みを崩さぬまま、小さく手を振っていた。 家や店といった建物が周りからなくなると同時に、その下り坂は現れた。コンクリートの四角い箱はそっくり木に代わってしまい、人工物といえば、思い出したように立っている電柱とそこから生える街灯くらいしか見当たらなくなる。 このまま下れば久遠の通う高校が見えるはずだ。校門を出て坂を下る道しか通ったことがなかった久遠としては、学校の上がちょっとした山になっていることは意外な発見だ。夜でもきらびやかで二十四時間営業の店も多い、ふもとの駅前の風景とはずいぶん違う。 「たまには遠回りもしてみるもんだな」 えらく時間が掛かった事実は抜きにして、久遠はそう思うことにした。 木々がどんどん後ろに逃げていって、代わりに木々の上から突き出す校舎が見えてきた。久遠はレバーを引いた。ブレーキがタイヤをこすって摩擦音を出す。 「うわっと」 前輪に力が入りすぎて後輪が少しだけ浮き上がった。ブレーキを軽く緩めてバランスを取り戻す。 もう校門が坂の下の方にうかがえる。昨日の入学式には新しい仲間となる新入生でにぎわっていたが、今日は一年生らしき人物は見当たらない。まだ部が正式に一年を加えて稼動していないから当然だろう。そんな中わざわざ来ている自分に久遠はちょっと得意げになった。 「おっはよ、一年!」 上級生と思しき生徒が自転車に乗ったまま颯爽と久遠の横を抜けていった。 「おはようございます!」 彼もおそらくは運動系の部活の朝練に来ているのだろう。校門を高スピードのまま突き抜けていくが、久遠はその後は追わずに、校門の手前で右折する。一年の駐輪場は北門にあるのだ。 関係者用に開かれている北門は狭い上に鉄の棒が置かれていて車は通れないようになっている。自転車も乗ったまま通過すると管理人さんにしかられるので、久遠はいったん自転車を止める。 「おはようございます」 「ああ、おはよう」 プレハブの中で暇そうに雑誌を読んでいる管理人さんに軽く会釈をし、久遠は足早に門を通り過ぎた。この時間はまだ生徒が来ないのだろう。 北門は体育館のすぐ裏に当たって、学校が山の中腹に建っている都合上、体育館の二階に接続している。練習はまだ始まっていないのだろう、掛け声や物音は聞こえてこなかったが、話し声は聞こえてきて、久遠はドキドキしてきた。 朱野先輩は、真面目だから、きっともう来ているだろう。 自然と足が速くなる。駐輪場にはすでに何台か自転車が置かれているのが見えた。体育館で朝練をする生徒が横着して止めていってしまうため、明らかに上級生のものまでまじっているのはお約束だった。奥から詰めるように、という教師からの注意に従い、久遠は一番奥に自転車を押し込める。 鍵をかけて、なくさない内にかばんに押し込む。取り出しにくいが、ズボンに入れておくと着替えのときになくしやすい。中学時代に嫌というほど学習した。 振り返ると斜め左方向に体育館の扉がある。 「あそこが格技場か……」 つい顔がにやけてくる。まだ正式ではないが、今日から夢にまで見た朱野との部活生活が始まるのかと思うと、浮かれる気持ちを抑えることができなかった。 かばんを肩に載せて大またで体育館のドアをくぐる。入学式は下の階で行われたため、裏口から入るのは初めてだ。昇降口を狭苦しくしたような空間だった。 靴がぎゅっと横に詰めて置かれていた。放課後はこの下駄箱が靴でいっぱいになるのだという話は朱野から聞かされた。よく自分の靴が判らなくなるので、荷物は多くなるが袋に入れて持ち歩いていた方がよい、という話も聞いていたので、久遠は自分で脱いだ靴を持参したビニール袋に放り込む。 下駄箱の間を抜けたとき、ふと違和感を感じた。 「あれ?」 反射的に振り返るが、変わったものは特にない。開け放たれたドアの向こうには、季節的にまだ使われることのないプールがフェンス越しに見えていた。 気のせいかと再び視線を前に戻したとき、視界の端に黒い影がかすめた。 ぎょっとして視線を固定させると、そこには人がうずくまっていた。 「……!」 思わず叫びだしそうになった自分の口を手で覆う。手元から靴の入ったビニールが落ちて床を打った。 久遠は「落ち着け」と自分に言い聞かせる。ぱっと見て誰もいなかったから自分一人なのかと思ったが、下駄箱なのだから誰かが靴を履き替えていたっておかしくはない。冷静に判断すれば気持ちは収まってくる。 どういう人だろうか。同学年や同じ剣道部の人だったらいな、という期待をこめつつ、久遠は靴を拾い上げて人影をこっそりとのぞき込む。 床のきしむ音に反応したのか、人影がわずかに動いた。それ以降の反応はなかった。 久遠はすぐに「普通の状況ではなかった」ことを悟る。自分が驚いたのも無理はないのだと言い訳すると、ちょっとだけほっとする。 その人影は、下駄箱に背を預け、静かに目を閉じていた。 寝ているようにも見えたがうっすらと目が開いたりするので、うとうとしている状態に近いのだろう。いずれにせよ下駄箱で眠気に負けるとは、器用な眠り姫だ。 「保健室とか行って寝た方が良くないか?」 肩をつついて声をかける。ため口で話しかけたのは、その人物が上級生には見えなかったからだ。 小柄でジャージに「着せられている」感のある体格は、中学生の雰囲気をそのまま引きずっているように思えた。誰かのお下がりなのだろう、使い込まれている割りにサイズのまったく合っていないハーフパンツからは、細い足が突き出ていた。 全体的に華奢な印象を受けるので初見では女の子だと思ったのだが、その足には細いながらしっかりと筋肉がついており、少年かもしれないとも思った。髪型を見ても中途半端な長さで、ジャージが大きい分体格も分かりにくいので、中性的だとしか言いようがない。 黒い頭がおもむろに動き、久遠を見上げる。その動きだけで髪の毛は首筋に流れていくほどさらさらだった。テレビのコマーシャルに出てきそうなワンシーンに、久遠は思わず見惚れる。 長いまつげが重たそうに持ち上げられる。その奥からは少し紫色っぽく光るアメジストみたいな目がのぞいた。 人形みたい、という言葉が頭をよぎる。どこかで聞いたかと思えば、今朝の通りすがりの女性から聞いた言葉だった。確か何かの施設の。 「日暮園……」 「何で知ってる」 思いの他はっきりとした声が返ってきて、気がつけばその人物は完全に目を開いていた。大きな瞳が久遠を映す。 久遠はその目に鋭いものを感じて、「たまたま通りかかったんだよ」と言い訳じみたことを言ってしまう。久遠と比べても小柄なその人物に脅威はないのだが、相手を怯ませる何かがその目にはあった。 「あっそ」 そう呟いて、敵意と共に目を閉じる。再び開かれたときにはもうその鋭い気配は体の奥底に追いやられていた。 それ以上何も言わずにその人物はすっと立ち上がり、久遠は「あっ」と声を漏らす。 「どこへ」 「保健室。気分悪い」 端的に言って、すたすたと体育館の奥へ進んでいってしまう。その足取りに迷う様子はなく、久遠はもしかしたら上級生だったのかもしれないと焦りを覚えた。 女の先輩だったら、あの体格で上級生というのもありえなくはない。そうだとしたら、ため口で話しかけたことに、気分を害してしまったのかもしれない。 真偽を確認しようと、荷物に視線を走らせる。カバンに書かれた名前の中で「雪夜」という字がちらりと見えたが、小さなジャージ姿はさっと角を曲がって見えなくなってしまった。名前まで中性的で落胆する。 一人で歩いていったということはそこまで具合が悪かったというわけではないだろう。それだけが幸いだ。 結局何者だったのかという問いは、朝練開始を伝えるチャイムによって中断された。ただでさえ時間ギリギリだったのだ、何だかんだやっているうちにしっかり時間が経過していた。 久遠は体育館履きを履く暇も惜しんで、剣道場へ走り出した。靴下が床を滑りそうになり、スピードを出すことは諦める。 久遠はちらっとジャージ姿の消えた方を見た。部活も聞き損ねたが、まぁ、同じ学校だったらまた会う機会もあるだろう。そう考えて、すぐに視線を前方へ戻す。 間延びしたチャイムが久遠の背を押すように、格技場の中で小さく響いていた。 |