何の迷いもなかった。ただ相手を打つためだけに生まれて、すぐ消えることもいとわないような、一撃だった。
まっすぐ相手を捕らえる。そこにはどんな隙も揺らぎも存在しない。反撃の隙などあろうはずがないのだ。世界は一方的に完結している。 打つ。それだけだ。 何て純粋な太刀筋なのだろうか。朱野は自分の意識が純化された世界に引きずりこまれてくるのを感じた。 あらゆるものが取り払われていく。周りの人間も、体育館の風景も、自分自身すらも、消えていく。最後に残されたのは一人の人間だった。 顔は面に隠されているため判らない。少し小柄であるため、紫紺の剣道着の裾は大きめにはためく。小手越しに握られた竹刀は手からまっすぐに伸び、動くたびに舞うような軌跡を描く。 朱野は息を飲む。何故自分が笑っているのかよく判らなかった。拳に力が入る。跳ねる心臓は、調子に乗りすぎて口から飛び出してきそうだった。 欲しい。あいつが欲しい。 頭の中をその一言が埋め尽くしていた。 [Blade] はやる気持ちを抑えきれず、久遠は小走りになる。座席をよけて、保護者と思しきおばさんとすれ違った。匂いが見えそうなほど甘ったるい香りが鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになった。 思わず顔を背けたその先に、憧れの人の姿を見つける。久遠は無意識の内に頬を緩めた。遠目にも目立つ銀髪の少年――朱野が、客席の中にぽつんと座っていた。閉会式が終わってから三十分ほど、客席はガラガラになっていた。 久遠は一番乗りでたどり着いたことにガッツポーズをする。すぐに声をかけようと思ったのだが、あいにく朱野はうつむいてしまっていた。口元を引き締めたまま真剣な面持ちで、大会のパンフレットを見ていた。 「うわ、相当集中しちゃってるな」 朱野の剣道に対する集中力は、久遠も嫌というほど知っている。遠くから声をかけたところで気付きもしないだろう。仕方なく、袴の裾をパタパタと蹴りつつ、傍まで駆け寄る。足を動かすたびに空気が入り込んできて、太腿の辺りまですっと涼しくなった。 「朱野先輩?」 隣まで来ても、朱野は相変わらず冊子に集中したままだった。どれだけ長時間見ていたのだろうか、パンフレットの端は、朱野の手元でボロボロに歪んでいる(元々広告が半分を占めていて、紙の質も良くないパンフレットだが)。 久遠は少し身を屈めて、パンフレットを覗き込む。小さい文字がびっしり並んでいた。何が書いてあるのかは見えないが、久遠もパンフレットに目を通しているので何となく判る。 選手名一覧の項目だ。 「誰の名前を探してるんですか?」 久遠が口を開くと、朱野は面白いくらいに跳ね上がる。身体が真上にピンとまっすぐになってベンチから少し浮き上がった。勢いよくパンフレットを閉じたので乾いた音が大げさに鳴る。 「く、久遠。閉会式は」 「とっくに終わりましたよ。周り見てください」 言われて朱野が首を回す。声をかけると動くおもちゃの人形のようでおかしかった。首が二周ほどしてようやく、まるで人がいないことに気づいたらしい。「あ」と声を上げる。 「……あれ?」 久遠の方に向き直り、朱野は照れたように引きつった笑みを浮かた。久遠は口元に手を当て、吹き出す息を押さえた。 不意打ちだ。可愛すぎるよあんた。高校生にもなって何やってんですか。 心の中で久遠がそんなことを思っているとは露知らず、朱野は口の先を尖らせ「赤くなるほど笑うことないだろ」とぼやく。煩悩に逆らいきれず、久遠は朱野の頭を撫でた。短めに切られた髪はさらりとしていて、気持ちいい。 「何だ?」 「いや」 可愛かったんで、とはさすがに言えず、 「すねないでくださいよ」 適当に続けたが、それもあまり良い発言ではなかったことに気がつく。朱野は眉間にしわを寄せて、不服そうに久遠を見上げていた。 「まぁ、探し人がいるなら俺も手伝いますから」 そう言い添えて朱野の隣に腰掛けた。人がどいてからしばらく経ったプラスチックの表面は、ひんやりとしていた。まだ熱の冷め切らない身体にはそれが心地良い。 夏場の体育館は、湿気と高温でサウナのようだった。今は人が少なくなったのと、出入り口が開けられたことで、試合中よりかなりましになっている。昼の休憩時間に久遠が垣間見た客席は、人の頭で埋め尽くされた、酷い状態だった(高いところにあるのでなおさら空気が悪い)。 卒業した朱野が大会に来るとのことでなければ、久遠だって客席になど近づきたくなかった。朱野は昨年度の同じ大会で優勝している。閉会式後の顧問の話が終わった後、袴も着替えずに走ってきたのは、憧れの朱野と早く話しがしたかったからだ。 もっとも、朱野が来たのは久遠のためではなく、同じ大会に出ている妹の活躍を見るためなのだろうが。急いできた甲斐あり、彼女の学校のミーティングが終わる前に朱野を独占できたようだ。兄のファンを眼の敵にしている朱野妹は、一緒にいるとなかなか朱野に近づかせてくれない。 朱野は少し考えた後、表情を緩める。 「それもそうだな。頼む」 久遠をちょっと見下ろして浮かべるさわやかな笑みは、「可愛い」ではなく格好良いと思う。久遠にとっては、朱野の頭が上にあるのが普通なのだ。朱野を見下ろすのは、やっぱり落ち着かない。 朱野はページをめくって選手一覧の最初に戻る。一番初めには大会主催者の名前があり、隣にいかついおっさんの顔写真が貼られている。その次からあいうえお順に中学の名前が続く。選手名は男女混合でこれまたあいうえお順。以前はさらに男女別であったが、性差別がどうとかで近年混合になったようだ。 「小柄で、ものすごく強い選手を探しているんだ」 久遠の眉毛が歪む。随分アバウトな条件だ。小柄といっても中学生の大会なのだから高校生の朱野から見れば大体小柄だ。 せめて名前のヒントはないのか。選手は主催者と違って顔写真は載せられていないので、名前からは見掛けなど判るはずがない。 「男ですか、女ですか?」 「それが、遠目からだったからよく判らなかった」 「先輩!」 久遠は表情を明るくする。 「うん?」 「無茶言わないでくださいね!」 自分でも自覚していたようで、朱野は久遠から目をそらした。 男だったら「もしかしたら対戦相手になるかもしれない」ということで、多少は覚えている。だが、女だったらそれほど詳しくはない。男女の区別がつかないとかなり厳しいものがある。 とりあえず朱野が強いと言うのだから相当強い選手だろう。全国大会への出場権を得た上位の人間を搾り出してみる。 「強いのだったら……青海と佐渡、草薙あたりだと思います」 「佐渡は覚えてる。確か、準決勝で久遠と当たった」 できればそれは忘れて欲しかった。久遠は顔をしかめる。 あまり良い試合だったとはいえない。試合が始まって、佐渡が大きく踏み込み、隙だらけだ! と思って大きく開いた空間にもぐりこもうとしたら、胴。 「秒殺でしたー」 佐渡の作戦だったのだろう。それに気づかずまんまと飛びついた自分が恥ずかしかった。後半戦はさすがにもう少し善戦したが、やはり長くは持たなかった。 素早いとか威圧感があるとか、そういった強さではない。どちらかといえば佐渡の剣は頭脳戦、フェイントが主だ。見破れないくらい鋭いダミー。中学生でその戦い方はずるいとか正面から来いよとか言ったところで、所詮負け犬の遠吠えにしか聞こえない。 「佐渡は親が師範やってるからな。中学から始めた久遠が勝つには難しいよ。 でも佐渡は反応が早いわけではないから隙も大きい。久遠も剣道続ける内に、フェイントさえ気をつければ、勝てるようになるかもしれない」 「それまでに佐渡が弱点を克服していなければですけどね……」 久遠がぼやくと、朱野は眉を下げて少し困った顔をした。しかし久遠の心中はだいぶ穏やかなものになっていた。佐渡の分析が朱野と一致していただけで「俺ってセンスあるじゃん」と調子付いてくる(ただそれを口に出すと「調子に乗るな」と叱られそうなので黙っておく)。 「だから高校入ってから、鍛えてくださいね先輩」 口の端を横に広げ、肘で朱野の脇を小突く。 「もちろん、楽しみしている」 朱野は深い笑みを浮かべた。 剣道に関係することには本当に良い笑顔をする。剣道大好きな剣道馬鹿だ。「久遠と」剣道をすることより、「剣道をする」ということの方に重点が置かれているに違いない。 それでもまた朱野と一緒にいられるのだと思うと、久遠は嬉しくなった。朱野が卒業するときは本当に悲しかった。剣道をやめようと考えたくらいだ。朱野と一緒にいられるというのなら、もう少しやってみようかと思えてしまう(なんとも邪な理由ではあるが)。 その前にまず、朱野のいる高校に受からなければならない。最後の大会が終わったので、これからは久遠も本格的な受験生だ。 「うう、受験嫌だな……」 はっきり言って久遠はそこまで成績の良い方ではない。勉強もできるマルチな朱野とは出来が違うのだ。今までは大会があるからと逃げてこれたが、もう言い訳はきかない。 朱野の高校は剣道の強豪なので、スポーツ推薦でも易々とはいけないだろう。全国大会の切符を手に入れた佐渡たちがうらやましかった。 「あれ佐渡じゃないのか?」 「え?」 朱野の声に現実に引き戻されて横を見ると、朱野はいなかった。一瞬ビックリして首を動かすと、朱野は立ち上がってフェンスの傍に移動していた。久遠も腰を浮かすと、後片付けの始められている体育館に、確かに見知った姿があった。 佐渡は袴姿のままカラーコーンを回収しているところだった。選手が整列する際に目印として置かれていたものだ。おそらく彼はその片付けの手伝いをしているのだろう。手伝っている生徒は他にはいないので、たぶんボランティアだ。 「真面目な奴」 そういえば昨年も佐渡は片づけを手伝っていた気がする。そのときは試合で当たらなかったのであまり覚えていないが、物好きな奴は他にそういない。手伝われる係員の方も慣れたもので、普通に佐渡からカラーコーンを受け取っている。 袴姿の人影がもう一人、選手の控え室がある方の出入り口から入ってきた。佐渡のように手伝いに来たのかと思ったが、様子が違う。どことなく足元がおぼつかないように見えた。 佐渡がすぐに気づいて、作業を中断しその選手を支える。二人が並ぶと、具合が悪そうな方は小柄であることが伺えた。佐渡も背が高い方ではないが、一方はもっと小さい。明らかに染めていると判るシルバーブロンドが顔を半分隠しているが、遠目に見ても顔色が悪かった。 心配になると同時に、記憶がよぎる。茶髪に染めている奴は多々いるものの、シルバーブロンドの選手は一人しか心当たりがない。 「青海だ」 「どいつ?」 朱野がすぐに食いついてくる。朱野がフェンスに体重を預けた勢いで、客席周辺が揺れた。 「佐渡の隣にいる、金髪のやつです」 「あの外国人の?」 「日本人ですよ、朱野先輩」 間髪いれずに久遠がつっこみを入れる。しかし予想していた照れ隠しの言葉は返ってこなかった。朱野は人との会話を無視できるほど淡白な人間ではない。何かがおかしいと思って振り返ると、久遠は「ああ」と納得した。 障壁だ。朱野の周りを、障壁が囲っている。 音も視界も全て遮断されて、一つのものだけに全身全霊が注ぎ込まれている状態。今の朱野には何を言っても届かない。おそらく佐渡の姿さえ朱野の視界から除外されているだろう。 朱野にはたった一人しか見えていない。青海。頭の中をその人物が埋め尽くしている。 「あの子が……」 勉強もできる、スタイルも良い、性格も良い。朱野に付随するあらゆるステータスは朱野の中で全て無意味なものとなる。残るのは一つだけだ。そこには何の不純物も含まれていない。ただ青海を見つめるためだけに、今朱野清司は存在している。 久遠は自分が純化された世界から引きずり出されているのを感じていた。思わず服の袖を掴むが、朱野は気づかない。どんな方法を以ってしても、朱野を呼び戻すことはできない。 久遠は青海を見下ろした。佐渡に支えられて出口に向かっている。佐渡の首に回された腕は白く細かった。 見るからにひ弱そうだ。だが、青海の試合は久遠も見た。この大会に優勝し、全国に最も近い実力を見せたのが、青海だった。 何といっても瞬発力が違う。踏み込みは力強いのに、そこからしなやかに方向転換してみせる。切り替えの速さについていけず、対戦相手は防戦一方になるしかない。 実力が違いすぎる。かと思えば、試合後には一般人よりも弱弱しい。 きっと青海は、全てを剣道に注ぎ込んでいるのだ。朱野のように、他のものを全部捨てでも、一つのものに生きる。二人はとてもよく似ていた。 悔しくなった。捨てられるもののことなど、彼らには判らない。振り返りもしない。青海も朱野も、久遠には果てしなく遠くの人物に見えた。 苦し紛れに、朱野の腕を強く掴む。真剣な横顔は、頬が火照ってくるほど格好いいのに、妙にひんやりとしたものが背骨の辺りから熱を奪っていった。 |