「眠れぬ夜の遊戯」中
ネオンの光は、闇に溺れる魚のようだ。車のガラス越しに懐かしい光景を眺める。ドアに手をかけ、零治は数秒ほど開けるのをためらった。 右腕にはめられた時計をのぞく。銀のバンドに金の縁が付き、その中で時間が数秒の狂いもなく飼い慣らされている。いつも零治がこの店を訪れる時刻が迫っていた。ドアを開ける。 生地の硬いスーツを折り曲げ、零治は車を出る。黒い装甲は闇に身を潜めながらも、ネオンに当てられ美しい光沢を放っていた。一目で高級車と判る。 未だに木造の建物すら残るこの通りには、およそ似つかわしくないオブジェクトであるが、珍しいものでもない。車の後ろの方を見ると、似たような高級車がもう一台近付いてきていた。強いライトが人間を黒いシルエットに変える。 零治は車を離れた。中で運転手が動く。会釈をしたのだろう。程なくして車は動き出し、通りの奥の方へ吸い込まれていく。紅いライトが通行人に遮られ、不定期に点滅した。 「いらっしゃいませ」 声が零治を引き戻した。ドアの横に立っている、小柄な青年と目が合う。赤紫色の着物を着ていた。長い髪が垂れ下がり、薄紫が赤紫に交じる。微妙に波打つ毛先が、布地に新しい模様を描き出していた。 青年は微笑んだ。左頬にある、細いのと長いの、二本の傷が、わずかに歪む。ドアの上に付いているランプがそれをくっきり照らしていた。はるか昔の傷は既に塞がっており、白い凹凸として肌に沈着している。 零治は歩道を横切り、青年の着物を掴んだ。左右の合わせ目を引っ張り、内側に重ねる。 「千夜、風邪を引くんじゃないのか」 千夜は零治の手を手のひらで覆って、首を傾ける。千夜の小さな手では零治の拳を覆いきれない。角張った零治の指の関節が、千夜の指の間からのぞいていた。 「僕より病弱なあなたが何を言っているんですか」 千夜の手から熱がじんわりとしみこんでくる。外にいたせいか、零治の方が冷えている。零治は息を震わせ「そうか」と呟く。 「出てきたばかりか。珍しく外で待っているから、驚いたな」 千夜は微笑みを少し深くした。 「先ほども言われました」 千夜が手をほどく。零治も手を放した。着物の合わせ目を自分の手で整える。 「たまにはいいでしょう」 零治の同意を待たずに、千夜は背を向ける。漆塗りのドアに手を載せた。千夜の白い手は漆黒に近い焦げ茶色のドアの中で、さらに白く浮き立っていた。 木製のドアだが分厚く、粗雑さは感じられない。むしろ落ち着いた趣があって高級感を感じさせる。建物自体は極端に大きくはないが、この界隈で一番綺麗な内装の店だ。奥に行くと娼婦よりも安いという理由で男娼を利用する場合もあるが、この店では零治のような金持ちの客が多い。 零治がこの店を出ていったのは一年前だ。男娼の入れ替わりは頻繁にあるが、店の様子は露とも変わらない。二枚の扉の上には緩やかな曲線を描いた木の看板が掲げられているが、ニスの光沢の中、塗り込められる黒い文字はいつでも同じ「止まり木」。 せっかく遠くの地へ発ったのに、一年経った今でも同じ場所に足を踏み入れるというのは、奇妙な感覚だった。いつまで自分は止まり木に居座る気なのだろう。零治は瞬きをして、看板の文字を視界の外に追いやる。 千夜は店の中に入り込んでいて、ドアの隙間から服の色だけが見えた。零治はドアを押し千夜の色をたどる。ドアを境に闇が途切れ、唐突に地面は白い色に変わった。 白いタイルに乳白色が淡く入り交じる。滑らかな表面が天井につり下がった照明を歪めることなく映し出した。零治は黒い革靴の底をタイルに押しつける。ふと店の掃除夫の顔を思い出すがもう一歩足を踏み出した時には忘れていた。 入ってすぐに吹き抜けのエントランスがあり、四階の天井が見える。正面にカウンターが設置されている。大きな木を一本、継ぎ合わせずに削ったもので、木目は綺麗に続いている。歪んだ円を描きながら広がっていく線を眺めていると、吸い込まれてしまいそうだ。 零治は受付に身を乗り出す。カウンターの向こうには瑠璃色の着物を着た少年が座っていた。 茶色いイスに腰掛けた少年は人形のように置かれていた。着物の柄には白しか使われていない。夜空の星くずのように白い点描が生地を横断する。裾から伸びる肌は白くて滑らかだった。触れたらさらさらしていて心地よいだろう。 髪も夜と昼の境目のような、紺色をしている。長めの髪はほのかに紅い頬に優しくかかる。前髪の間からは不思議な紫の色がのぞいていた。零治は思わず感嘆の声を漏らす。 「今日の担当は雪夜か」 たった今命を吹き込まれたかのように雪夜はゆっくりと瞬きする。長いまつげが空を掻いた。何も言わずに頭を少し下げる。 手元にあったノートを零治の方に押しだし、ペンを添える。男娼を買う前に身元の証明や所要時間など(外出する場合は簡単な予定も)を書かなければいけないのだが、勝手に書け、とのことらしい。零治のような常連ならばいいが、初めて来る人間に対しては不親切この上ない。 この職種にしては珍しく愛想のない人間が雪夜だ。零治は口角をつり上げて記帳を受け取った。愛嬌を振りまかなくても男が寄ってくる魅力を持っている。 雪夜は笑わないが、彼は笑みによって顔を歪めることがナンセンスに思えるくらいに整っている。しかし体が弱く、客寄せも接客も出来ないので、受付で容姿だけをさらしていることが多い。 受付は店の顔だ。雪夜のオーラに引き寄せられ店に足を運ぶ客も多いが、接客している機会にはなかなか巡り会うことがない。それでも雪夜が忘れられずにまた引き寄せられる。強烈なまでの魅力を放ちながらも手に入らない人物、ということで、雪夜はある意味伝説的な存在になっていた。 零治も週に一度千夜に会いに来るが、雪夜とは顔を合わせる機会すらあまりない。まるで茶柱を見た日みたいに、縁起がいいと零治は思った。 いつもと同じ内容を書き殴り、記帳を戻す。雪夜が視線だけを移し、確認する。眉間がぴくりと動いた。 「……汚ぇ」 うっすらと開く桃色の唇から発せられる、端的な一言。喉の奥で低く押さえつけてはいるが、高めの声は綺麗なままだ。雪夜はその声であまり丁寧ではない言葉を吐く。態度だけでなく、口調にも愛想がない。 零治は「うるせぇ」と返す。「いつも同じことを書いているんだ、判るだろう」 汚いのは零治の字だ。余程丁寧に書かない限り、いつも走り書きみたいな、崩れた字を書く。角は丸まっており、線は繋がっていない。それをさらに急いで書けば、幼い子供の芸術的な絵に仕上がる。 「名前だけでも見えるように書け」 「僕が代わりに書きましょうか?」 追い打ちをかけるように千夜が雪夜の言葉に微笑をかぶせる。口元に拳を軽くあて、口の端から小さく笑い声を漏らした。 零治は唇を閉ざす。黙ったままペンを強く掴む。拳でペン先を包み込むような持ち方だ。人前では形だけでもきちんとしてみせるが、この店に帰ってくるとどうも零治は地が出るのだ。 ゆっくりとペンを動かす。鉄製のペン先から黒いインクがにじんだ。紙に消えない線を残す。「零治」と先に書いて、手が止まる。手を右の方に戻し、ためらうようにゆっくりと、引き取られた先の家の名字を書いた。 店を出ていくと共に樋川の姓を名乗り始めたが、いつ見ても零治には皮肉に思えてしまう。零治を解放したはずの男の名に、今度は囚われている。結局零治は囲われたままだった。外に出たかと思えば、ただ別の枠の中に入っただけなのである。その名前を自分から書き記すということは、自分で自分に手錠をかけるようなものだ。 名前くらい綺麗に書け、と言われたが、本当は一番書きたくないのは名前だ。他人がつけたものに一生縛られる。零治という名前をつけたのは一体誰だったか。漢字を当てたのは店の主人だ。不可能を可能にする、という意味合いでつけたらしいが、零治にはないものを収めようとする不毛なあがき、という意味に思えてならなかった。 最後の一角に力をこめて、ペンを置いた。あれこれと考えていたので、結局字の仕上がりは汚かった。雪夜は記帳を自分の手元に引き寄せて、顔をしかめるが、何も言わなかった。雪夜だって仕事熱心な方ではない。結局は読めればいいのだ。零治の言うようにいつも同じことを書いているのだから判らなくもない。 零治は足早に受付を離れた。長い足が乱暴に虚空を蹴り進む。千夜を置いてけぼりにしているが、零治と千夜が使う部屋はいつも同じである。勝手知ったる様子で、入り口右手の階段を上る。 木製の階段は意外としっかりした造りをしていて、長身の零治が足をかけてもかしましい音はしない。零治が身長の割りに軽いせいかもしれない。男娼時代はあまり肉をつけないように勤めていたが、食には困らない生活になっても、零治の体重はあまり変わらなかった。 わずかな足音も赤いじゅうたんが消していってくれる。じゅうたんの毛に零治の靴についた泥が所々付着していくが、明日になれば掃除夫がすっかり綺麗にしてくれることだろう。 階段と平行して、細かい装飾のついた手すりが伸びる。よく磨かれた木の表面はすべすべしていた。微妙にひねりの入った棒はわずかな凹凸を作っていて、撫でると気持ちが良い。側面には、鳥と枝の絵が刻まれている。丸い頭と細長い四肢、長い尾を持つ鳥。雉に似ているが本当は何の鳥なのか零治にはよく判らない。店長は幸せの青い鳥だと言っていた。馬鹿馬鹿しいと思いながらもそうだったら良いのにとも思っていたことは千夜にはばれていただろう。 「木彫りなんだから茶色でしかないですよねぇ」 「うるせぇ」 零治の思考に口を挟んだ千夜に、零治は言葉で返した。肩越しに振り返ってにらみつけると、千夜は階段の半ばほどで立ち止まって笑っていた。零治が見ていることに気づくと、足を上げて階段を上ってくる。しっかりと足を巻きつける長い着物の裾は階段には不適だった。そのため、実は店の階段は一般的なものより段が低い。その分段数は多く、足を小刻みに動かさなければならなかった。 四階まで上がり、二つに分かれる廊下の内、通りに面している方に進む。廊下に挟まれた四角い空間からは、雪夜のいる受付が見下ろせる。雪夜はいすに座りながら、手持ち無沙汰そうに左右に揺れていた。零治は一瞬声をかけてやろうかとも思ったが、大声を出さないと気づきそうにないのでやめた。 部屋は廊下のちょうど真ん中、入り口の真上になる。下を見下ろす零治の横をすり抜け、千夜が先に部屋のドアを開けた。電気はついていなかったが、窓の外からは向かいの店の明かりがきらびやかに入り込んでいた。あいにくカーテンがかかっているため、向かいの店内までは見えない。 千夜が壁のスイッチを押して明かりをつける。一回ついてすぐに消え、数秒ためらった後、部屋が遠慮がちに照らされた。白を基調としたベッドカバーが、光の中でセピア色に見える。壁紙は淡い桃色とクリーム色のストライプ。その色の差はごくわずかで、薄暗い中では違いがよく判らない。 部屋の隅には色の濃い木のタンスが置かれていて、その横に鏡の着いた背の低いタンスがある。引き出しは小物入れになっており、その中に営業道具がしまわれている。鏡の脇から電気スタンドが伸び、枕元を照らしている。 千夜はカーテンを引いた。カーテンレールを滑って、闇の代わりに落ち着いたベージュ色が窓を覆った。脱出路が一つ閉ざされ、部屋が狭くなった。 お帰りなさい。千夜は何も言わなかったが、誰かが零治に語りかけたような気がした。千夜が零治の心に直接話しかけたのかもしれない。あるいは。 「ただいま」 零治は部屋のドアに触れて、呟いた。男娼とは比べ物にならないくらい、客室はいつも同じ清潔感を保っている。あの頃と同じだ。零治がかつて、男娼として働いてきた頃と。 あるいは、この部屋自体が零治に語りかけているのかもしれない。零治はそう思った。部屋が意思を持って、零治を手招きしているかのようだ。現に週に一度、零治は必ずこの部屋に引き寄せられる。 この部屋に囚われているのかもしてない。零治の周りには、捕らえるものばかりだ。抜け出しても抜け出しても、零治の前に立ちはだかる。檻から抜け出しても、また別の檻の中に入ったに過ぎない。 ドアは限界近くまで開かれ、零治の帰還を待っている。千夜が部屋の中央で振り返った。左側の頬がちょうど見えた。淡くオレンジに色づいた光で傷は見えにくくなっていたが、零治には赤々とした二本の線がくっきりと見えていた。 零治はドアをくぐって部屋の中に入る。自ら鳥かごの中へと飛び込んでいく。そして扉を、自ら閉ざした。 |