「眠れぬ夜の遊戯」上
角張った紙の波が、空気を掻く。汗のにじむ肌を弱い風が撫でる。耳の上から垂れ下がった髪が首筋をくすぐった。下手な愛撫よりも余程気持ちいい。千夜は手にした扇子を上下に動かしながら、肺から温もった空気を吐き出す。 扇子の柄がちらちらと目に入った。裏と表が交互に見えるので、白と青がリズミカルに切り替わっていく。青い染みの上に黄色い染み。夜の街を表しているらしいその柄は、有名な絵描きが書いたそうだが、千夜にはあまり関係のないことだった。扇子は扇げればそれで良い。 骨組みは檜で作られていて、風と共にほのかな木のにおいが香った。見た目には地味だが、手に取ってみればすぐに上等の物と判る。客の男から贈られた品だった。 千夜が人前で贈り物を使っているのは、見せびらかしたいわけでも、贈り主が気に入りの客だったわけでもない。単純にただ、この部屋が暑いのである。 男を招き入れる客室と違って、従業員の控え室は空気が重かった。机とイスが乱雑に置かれているだけの広間だが、人間がイスの数よりも多いので、壁に寄りかかっている者もいる。そうして何人も寄りかかったせいか、壁紙は肩の高さでボロボロになっていた。どうせよそ様の目には付かぬからと、何年も張り替えられていないのだ。元は白かったであろう壁紙は黄色っぽく変色している。千夜はその汚らしい壁に肩を付けるなど、便所の床に寝転がるのと同じようなものだと思っていた。 薄紫色の着物で身をくるんだ少年が、壁に背を付けたまま大きな口を開けて笑う。汚らしい笑み。しかし客を相手にするときの作った綺麗な笑みよりも、ずっとあでやかだった。 汚らしい。みんな汚らしい。だから、この広間にいるの落ち着く。仕事が回ってくるまで部屋の中で待機していた方が余程快適なのだが、広間から人間がいなくならないのは、誰もが同じことを思っているからである。 千夜は扇子の絵を畳んだ。閉じた扇子を机の上に置く。腰を浮かしてソファーに座り直す。綿がすっかりつぶれてしまっていて、硬い骨組みが尾てい骨に当たる。 「珍しいね、千夜がここにいるの」 千夜、という名前が自分の中に浸透してくるのに、少し時間がかかった。千夜は自分が話しかけられたのだということに気づく。後頭部でまとめた髪を指で押さえながら、隣を見る。扇子の風で長い髪が数本、背中に落ちてきていた。 オレンジ色のまぶしい布地が目に入る。白や淡い桃色の、丸い花弁をした可愛らしい花が、布地に散らばっている。 「千夜は仕事で忙しいから、いつも来ないじゃないか」 首を傾げると色素の薄い髪が頬にかかる。髪を掻き上げた指は、同じ年頃の少年よりもずっと細い。太めの垂れ下がった眉毛がさらに角度をきつくする。笑顔は優しげだが、疲れ果てているようにも見えた。 この仕事場にいて肉体を削り取られていない少年はいない。脂肪はほとんど労働に消え去り、骨ばかりが自己主張し出す。 千夜の仕事は殊に過酷だった。それを同情する者はいない。仕事があるということは、それだけの金を得られるということだ。 千夜は口角をわずかに上げた。金は使わなければ意味を持たない。鳥かごから出られぬ者が金を手にしても、自由に買える品はたかが知れている。 「だんだん寒くなってきましたからね……一人の部屋は、冷えるんです」 何を言っても、言葉は千夜の口を通ったとたんに汚物化してしまいそうな気がして、思っていたことを脈絡のない言葉にすり替える。 高く甘い声が地面から這い上がってくる。夏の終わりから聞こえ始める虫の音。季節は暑さを残しながらもすっかり秋になっていた。 少年は微笑みと共に「そう」と返す。常に浮かべられている笑顔は、無表情と同じくらい何の意味も持たない。首がねじれ、少年の横顔は後頭部に切り替わった。 千夜は少年の後頭部を見つめた。意識を脳内に引きずり込む。周りの感覚がだんだんあいまいになっていった。耳に見えないフタがかぶせられ、会話が遠のいていく。反対に少年の後頭部が、じりじりと近づいてくるように見えた。 「……きはあ……いでいた……せ……」 最初は不鮮明なノイズ。千夜は意識を右に左にずらし、ゆっくりと少年の意識に合わせていく。 流れてくるのは、宙を流れる粒子の壁のイメージ。それが邪魔になって、千夜は少年の声を聞くことが出来ない。千夜は壁づたいに進んでいく。青い色がちらついた。さらに進むと、黄色や赤の粒子が増えていく。 色が破裂した。急激にカラフルな世界が構築される。千夜は少年の意識にたどり着いた。 言葉が空気を伝う代わりに、頭蓋骨の中に響き渡る。頭に直接聞こえてきたのは、少年の「心の声」だった。 「さっきは扇いでいたくせに、今は寒いって何なんだ。何考えてるかよく判らない奴」 攻撃性のない、ただのぼやきだった。千夜は自分の心が押し出されていくのを感じる。頭から血の気が引いていき、妙に冷静になる。 興ざめだった。自分があまり好かれていないことも敵を作りやすい位置にいることも判っている。少し千夜を見下すような声は聞き飽きていた。 千夜の口が退化したのは、口を開かなくても情報伝達が出来るからだった。少し意識を集中させれば、人の思考を読むことが出来るし、自分の意識を送り込むことも出来る。 テレパス。俗にそう呼ばれる能力が、千夜には備わっていた。 賢い千夜には、知られれば今以上に煙たがれることが判っていた。いや、知られることを恐れたのは、千夜ではない。知られてはならない、普通を演じなければならないと、千夜に諭した男がいた。 あの男さえいなければ、千夜はきっと別の場所にいたのだろう。男が男に体を売る娼家などではなく、富豪の所にいたかもしれない。予想はほとんど確信に近かった。 千夜の身体と能力が目当ての富豪に、引き取られる。千夜ははっきりと富豪に買われていく自分を意識することが出来た。 ピン札がしわだらけの娼家の主人に押しつけられる。代わりに千夜の背が押される。肉付きのいい男の腕が、千夜の肩を捉える。男は客として千夜を何度も抱いていた。千夜は肌を合わせるだけで男の内部を感じ取れる。直に触れる肌からは男の情欲が熱気となって伝わってくる。 千夜は全てを他人事のように見ているのだ。きっとこの想像が現実になっても、千夜の心は遠くで見ている野次馬の中にある。視線だけは当事者側にあって。腕を引かれるまま、男の車に乗るのだ。 しかしその先の生活はまったく想像できなかった。車で男の屋敷に移動する途中、何故かいつも黒い男が立ちはだかる。千夜が深海にいても空の彼方にいてもその男は現れる。呪いのように。 まただ、と千夜は思った。少年の後頭部から視線を右にずらし、波打つカーテンを見る。窓が小さいため、生地は半分近く余っていた。 鉄格子の向こうに闇が閉じこめられていて、ぼんやりと向かいの娼家の光が見える。ガラスの表面には室内の光景が鏡のように映り込んでいた。真下は道路になっているのだが、もっと窓に近付かないと見えない。千夜の座っている場所からでは隣に座っている少年の薄い浴衣しか見えなかった。 「お客さん、新しい世界をのぞいてみませんか? きっと癖になりますよ」 呼び込みの声が窓にぶつかる。甲高いがかろうじて男の声だと判る。ここは男娼の街だからだ。建ち並ぶ娼家は例外なく男だけを売っている。女は壁を隔てた向こう側の歓楽街にしかいない。 夜の進行と共に、店はシャッターを上げて、徐々に目を覚まし始めていく。会社帰りのサラリーマンなどが道に流れ込んで、混沌が辺りを支配し始めた。夜は交わりの時間である。床につくのは快楽のためであり、そこに眠りはない。 少年が体を動かす。ソファーの端に身体を寄せた。裾が揺れて少年の白い足を撫でる。青白いこの少年に、オレンジ色の衣装を与えたのは誰なのだろう。皮肉にも、白とオレンジは両方の色を際だたせていて、よく似合っていた。 窓の真横に立ち、少年が視線を降ろす。外から見られないようにこっそりと。男娼たちが広間にいる姿を見られるのは、あまり歓迎されない。本音と建て前が入り乱れる場所だからだ。どんなに念入りに白い粉を塗りたくっても、口の中からずるりと素顔が出てきてしまう。接客業のマナーみたいなものだったが、それ以上に男娼たちの方が、自分の内側の内側にある、心まで掘り起こされてしまうことを嫌っていた。 「また来たね」 千夜の言葉を少年が代弁した。千夜は視線だけを窓に放り、「みたいだね」と返す。素っ気ない返答を耳の穴から捨てて、少年は闇の中を見つめ続ける。あまりにも目を見開いてじっと見ているから、その内目玉を落っことしてしまうだろうと千夜は思った。 「一週間に一度、きっかり一時間、必ず来てくれるよね。良いな、若くて格好良くてお金持ち。そんな常連さんが僕も欲しいよ」 少年の口元が湿る。言葉に媚びるようなつやが混じる。唇の間からのぞく舌は、熟れたように真っ赤だった。唾液に照明の光が跳ね返る。本人は気付いていないだろう。まるで恋をしているような顔をしていた。 「零治か」 声は少し遠くから飛んできた。千夜は首を必要最低限の所までひねる。千夜の髪は腰まであるため、頭の上でまとめていると、頭を支えるだけで重い。力仕事に慣れない千夜であるが、首の力だけはかなり鍛えられているのではないかと思う。 薄紫色の袖を荒っぽく振り、さっきまで壁に寄りかかっていた少年が歩み寄ってくる。長い着物の裾は膝の辺りまで巻くりバレッタで無造作に止めている。足の内側には内出血がぽつんと浮かんでいた。客の残した跡がまだ消えていないのだろう。話し相手は仕事に出てしまったのか、ソファーは空席だった。 髪質が硬いのだろう、さして短くもないはずの髪はあちこちに突き出していた。瞳はとびきりに大きくて、まつげも長い。顔だけ見れば可愛らしいのだが、髪型と性格はやんちゃ坊主のものだった。 「男娼上がりのあの野郎、よくもこの店に帰ってこれるよな。かつての仲間を踏みにじって楽しんでるのか、あのサディスト野郎め」 「口が悪いよ、色」 少年の目が針のように鋭く細められた。気に入っている男を侮辱されたからか。千夜の頭に戯れ言がかすめるが、口には出さない。 「零治さんは僕らの売り上げに貢献しに来てくれているんだよ」 色は袖を大げさにはためかせて、腕を上げた。紫色がパッと広がる。 「それは悪かったね」 語間をわざとらしく伸ばし、色は身を翻す。言葉に誠意がこもっていないことは心を読まなくても判った。千夜は自分より三つほど幼い色を微笑みながら眺める。 先ほどまで楽しそうに笑っていたのに、もう不機嫌の中にどっぷりと浸かっている。色は良くも悪くも素直だった。年齢よりも幼く見えるのが好きだと、少年愛好家の中には好んで色を抱く者もいる。 千夜は色が嫌いではない。汚いものも包み隠そうとしない色は、心を読んでも同じ言葉しか出てこない。色の言葉は常に本音を孕んでいる。色の言葉はいつも真実であると、千夜は信頼していた。 色は主を失ったソファーに腰を落とす。綿が薄いため思いの外色の身体は沈んでいかず、代わりに硬い音が響いた。色が尾てい骨に手をやり、呻いている。少年は色の深く折れ曲がった身体を見て、口角をつり上げた。「ふん」と鼻から声を抜く。 「早く部屋で待機した方が良いよ」 怒りを押しのけるようにして、少年が口を開いた。千夜はこれから訪れるであろう零治が受付で雑談をするために後十分は動かないであろうことを知っていた。しかし少年の怒りを収めるためには素直に従っておいた方が良い。たまには客と一緒に部屋の中に入ってやるのも良いだろうと、千夜はソファーを手で押し腰を上げる。 赤紫色の浴衣がわずかに開く。浮き出た鎖骨が露わになった。布にはわずかな香りがたらしてあり、裾が踊るたびに甘い香りを残す。 千夜は後頭部に手をやり、赤いバレッタに触れた。滑らかな表面が指先に気持ち良い。小さな突起を押し、バレッタを開く。 上にまとめられていた髪が滝のように流れ落ちた。淡い紫が広がる。長い髪が宙に舞う。左右に大きくうねりながら、千夜の髪は徐々に収束していった。 千夜は髪を指で梳く。白い指が髪の合間を泳ぐ。千夜の髪は腕を真っ直ぐに伸ばさないと梳ききれない。毛先は栄養不足のせいか細くなっていた。 ベッドの上の夜に飾りはいらない。必要なのはこの身体一つだ。千夜は眠れない夜に目を覚ます。緩やかなカーブを描いた赤色のバレッタは、薄気味悪い微笑みのようだった。 |