「眠れぬ夜の遊戯」下


 千夜は鏡の前にあるイスを引いて腰掛けた。長い着物の裾が床にこすって落ちる。淡いベージュ色のじゅうたんに濃い赤紫色の花が咲いた。
 背の低い丸イスで、赤いクッションがついている。イスに座って、小さなタンスの鏡を見れば、タンスは化粧台の代わりにもなる。
 化粧道具は鍵のかかる右側の引き出しに入っている。部屋は男娼それぞれに振り分けられているため、鍵のかかるスペースには個人的な物を入れておく者も多い。しかし開けようと思えば針金一本で開く簡素な造りなので、下手をすると盗難に遭うこともある。千夜は逆にどうでもいい物しかこのスペースには置かない。
 左側の引き出しには商売道具が入っているが、零治が来ているときはほとんど開ける必要がない。零治相手に差し出す道具は、千夜の身一つ、正確に言えば千夜の脳みそ一つで事足りる。
 零治はドアを閉めて、まっすぐベッドに向かう。足早になっているのは千夜の気のせいではないだろう。少し行動の先を予想しながらも、止めずに視線で零治の動きを追う。
 上着を脱ぐよりも先に、零治はベッドにダイブした。シーツの裾が跳ねる。ベッドの表面がへこみ、スプリングが悲鳴を上げる。生憎ベッドは飛び込むために設計されているわけではない。バキっと、どこかがいかれた音がしなくもない。
 何の予告もなしにいきなり飛び込むとは、よほど疲れているらしい。千夜はため息をつく代わりに「やっぱり」と漏らした。長い髪の毛を梳くって耳の後ろにかけ、立ち上がる。
 零治の生活がどれだけ過酷かは、千夜がわざわざ心をのぞかなくても知れることだ。元男娼ということだけで風当たりは悪いのに、零治の存在は会社経営の面でも無視できないものとなっている。
 元々零治は頭が良く人を使うのが上手い人間だった。出会った頃の零治を思い出すたびに、千夜は恐ろしく感じる。家族を失った千夜をこの娼館に売り飛ばしたのは、零治だった。そして当時若干十二歳の子供が、千夜の身を案じ、生きていく場所と生き抜き方を教えた。
 まだ成長期を終えていない少年の中に、一体どれだけの知略が張り巡らされているのかと思う。樋川に引き取られたのは偶然ではない。零治がそうなるべく計算して、行動した結果、まさにそうなったのだ。
 しかし周りには当然敵も多い。零治を落としいれようとするやからは山ほどいる。一体いつになれば零治は渦中から抜け出せるのだろうか。一人不毛な戦いに挑まなければならない零治を、千夜は時に哀れにすら思う。
 零治は黒いスーツを着ているため、余計白地の中で重々しく見える。白一色のシーツに広がる黒いしみは孤独だった。ピクリとも動かないから、放っておくと本当にベッドの柄になってしまいそうだった。
「せめてスーツくらいは脱ぎなさい、零治」
 千夜は零治の背中を揺らす。千夜が零治に手を貸せることは少ないが、せめて闇に落っこちてしまわないように、時折引き上げてやるくらいはしてやりたい。零治も切実にそれを望んでいるから、毎週千夜の元へ来るのだろう。
 零治は顔を少しだけ動かして、目をのぞかせた。目玉を動かして千夜を見る。頭の中に、直接零治の問いかけが入り込んできた。
 ――なぁ、母親ってこんな感じ?
「僕はあなたの母親でも何でもありません。あなたくらい大きな子供を持つ気もありません。ていうか十六歳になってまで母親にわざわざ上着を脱いでからベッドに入りなさいと言われる子供はいません」
 まくし立てるように答える。そして、シーツを引っ張る。零治が乗ったシーツは重かったが、幸い上半身しかベッドにかぶさっていないので、両手で引き上げれば何とか持ち上がる。糊が利いてせっかくぴんと張っていたシーツだが、千夜は思い切り握り締めて、白の調和を一気に破壊する。
「それ!」
 シーツが千夜の元に引き寄せられる。千夜の手を頂点にして、シーツの成層火山ができた。その斜面にいた零治の身体は必然的に転がる。零治の身体が反転し、仰向けになった。
 突然入れ替わった視界に驚いてか、零治は背中を打つ前に身を丸め、軽い受身を取る。体制が安定しても目は開かれたままだった。心なしか肩で息をしている。とりあえず、目は覚めたらしい。
 零治は歯を食いしばって、唇の端を下げた。横目で千夜をにらむ。
「何しやがる」
「何しやがるじゃありません」千夜は負けじときっぱり答えた。「あなた、仕事をしに来たのでしょう? あなたが事前に連絡寄越してきた分の資料、一応まとめておきました。寝るんだったらせめてそれに目を通してから寝てください。僕だって疲れてるんですから、あなただけぐーすか寝ていると非常にムカつきます」
「その」
 零治は額を抱えてうなる。手を少し上に上げて、前髪を掻き揚げた。
「甲高い声でまくし立てるの、やめてくれ。頭に響くんだ」
「二日酔いの親父みたいなこと言わないでください」
 間髪入れずに言い返し、おまけに零治の足をつま先で軽く小突いてやる。とても客に対する態度ではない……が、千夜にとって零治は客ではない。離れ離れになっても会いに来る、究極の腐れ縁である。
 千夜は起き上がろうとしない零治を放っておいて、着物の裾を軽く持ち上げた。左右に余った布地をふくらはぎの裏に載せて、屈む。先ほど千夜が座っていたイスを引き寄せ、上と下を押さえながら、ゆっくりと倒した。
 木製のイスはじゅうたんの上に静かに横たわる。かすかに音が鳴るが、指摘されなければ気づかない程度の音だ。イスを転がしながら底の方を千夜自身の方に向けると、黒い穴が四つ開いているのが伺える。統一性はなく、不規則に散らばっているだけの穴は、虫に食われた跡のようにも見える。
 千夜は自分の髪を止めていたピンを一つ引き抜く。ガラスの赤い花がついているシンプルな髪留めだ。千夜の特注品で、止め具の部分は少し変わった形をしている。まっすぐな形になっておらず、不自然な凹凸があるのは、わざとである。
 千夜はピンを穴に差し込んだ。ピンはゆっくりと回っていき、半回転ほどすると、かちりと音が鳴る。指先に震動が伝わってきた。
 虫に食われたような穴が鍵穴になっていると知っているのは、千夜と零治と、店長だけだろう。不思議な仕掛けのあるイスは店長から譲り受けたものだった。
 他の三つも、同じようにピンを挿し、鍵を解除していく。最後の鍵を開けるときだけ、千夜はイスの底を手で押さえた。そうしないと、底の板が外れて落ちてきてしまう。店長が自分でイスを改造したらしいので、多少粗があるのは仕方がない。むしろ何故こんな小細工をしたかが気になるところだ。店長は店で最も謎の多い人物である。
 底を外すと、まず出てきたのはビニール袋だった。小さい袋の中に空気が入れてある。これをクッション代わりに使っている。イスの中の空間に何かが入っていても、クッションが音を消してくれる。イスを動かしてもまず中に何かが入っているとはまずばれない。間違って隠し忘れても、ビニールなら適当な言い訳が思いつくし、割ってしまえばどうにでも隠せる……という零治のアイディアだった。
「まったく、悪知恵ばかり働く人がたくさんいますね、この店には」
 零治に聞こえるようにわざと大きめの声で呟くが、反応はなかった。口を開くのも億劫らしい。お前も人のこと言えないだろう、という零治の思考が、かろうじて流れてくる。ごもっともだ。千夜は苦笑して、イスの中からクッションのいくつかを掻き出した。
 今入れてあるのは、たった二枚の紙だ。紙はビニールに圧されて肩身が狭そうにイスの壁に張り付いていた。受け付けに置いてある用紙の余りをいくつか拝借したもので、表には空欄の枠が印刷されている。
 爪を使ってめくると、裏の白紙の面に、千夜の字が書き並べてあった。鉛筆で書かれた文字は淡い光源の下で鈍く光っている。読めなくもないが読めば確実に視力が低下する。千夜も零治もこの暗がりの中でよく本を読んでいたため、現在あまり視力は良くない。
 千夜は紙とビニールをイスの中から全て取り出し、底をまたはめる。片手で押さえながらピンで鍵を締めていった。イスを傾けて底がしっかりはまっていることを確認すると、イスを立ててタンスの横に戻す。
 着物の裾を軽く押さえつつ千夜は立ち上がる。長い髪は下を向くと床につきそうだった。そろそろ切ろうかと考えながらも、背中から落ちた髪を捕まえて背中に載せ直す。邪魔なこと以外特に不便はないのだ。大して良くもない栄養状態から、髪だけは毛先まで枝毛はない。多少細くて乾燥はしているけれども、もしかしたら髪の毛が千夜自身の栄養分を吸収していってしまっているのではないかと思いたくなる。
 手で軽く髪を束ね、足元の紙を拾い上げた。そのまま零治の上に投げ捨てる。千夜の手を離れた紙が空気に乗って斜めに滑り落ちていく。紙は右に左に揺れながら、零治の顔の上にフワリと乗った。
 零治の吐息で紙がずれる。息を吸うと、今度は吸い付く。円滑に鼻の中に入り込めなかった空気が、ズズッと奇妙な音を鳴らした。
「ぶっ」
 思わず吹き出して、千夜の口から似たような音が出る。零治は懲りずに呼吸を続けて、規則的に奇妙な音を鳴らしていた。
 顔の上に紙があって気づかないわけがない。どうやら、千夜がのんびり鍵を開けている内に、零治は眠り込んでしまったようだ。通りで返事が返ってこなかったわけだ。そのときにはもう意識が半ば眠りの中に引きずり込まれている状態だったのだろう。
 息苦しかったのか、零治は寝返りを打って紙を落とす。奇妙な態勢のまま寝そべっていたので、首筋にはシーツのしわの跡が赤く引かれていた。
 紙の下から、無防備な零治の寝顔がのぞいた。軽く閉じられた目に長いまつげが覆いかぶさっている。いつもはつり上がっている眉毛からは完全に力が抜け、緩いカーブを描いていた。
 千夜も久しぶりに見る熟睡モードだ。会社の経営も零治を蹴落とそうとするライバルのことも忘れ、夢の中に浸かっている。
 千夜は零治の横に腰を下ろし、両手いっぱいに抱えられたビニールのクッションを膝の上にばらまく。ビニールの口を開いて空気を出し、畳む。端を引けばすぐに解ける結び方だ。解ければ空気はさっと部屋の中に逃げていく。あとは小さく折り畳んでいくだけなので、五分もすれば手元からビニール袋はなくなっていた。
 さて、次は何をして暇をつぶそうか。零治はどうせ、何をしても当分起きやしない。
 たまには思う存分眠らせてやるのも良いだろう。多忙な零治に眠れる夜は少なかった。夜の闇を気にせずに目を閉じられる場所があるのはとても価値のあることだ。
 千の夜。それはいくつもの夜を寝ずに過ごす、千夜の多忙さを皮肉った源氏名でもある。眠らない町に住んでいる者たちは、眠れる夜を欲して止まない。
 今宵もまた、零治が寝過ごさないように起きていないといけないようだ。千夜は「やれやれ」と呟きつつ、鏡の下のタンスに手を伸ばす。確か下の方に、すでに読み終わってしまった小説が放置してあったはずだ。ストーリーはもう判っているが、暇潰しにはちょうど良いだろう。
 引き出しを開け、小説を取る代わりに先ほど畳んだビニール袋をそこに押し込む。片手で引き出しをしめつつ、イスに腰掛ける。表紙をめくって一ページ目を開き、見覚えのある冒頭部分を読み始めた。


End.

 遊郭ネタです。時代背景は明治〜昭和を意識しておりますが、舞台は日本のようで日本ではないどこかです。つまりパラレルワールドです。元ネタは友人の見た夢です。
 上中下編で、上下が千夜視点、中が零治視点となっております。零治と千夜を絡ませるのが面倒だったので零治は眠らせておきました(タイトルに矛盾)。千夜はうっかり零治と一緒に寝てしまって、二人して寝過ごして以来、ちゃんと起きているようになりました。結局遊郭なのに何もせずに終わる辺りが零千スタイルです(あれ、並べてみると両方とも数字だ。今気づきました←遅)
 実はキャラが日暮園シリーズとかぶっておりますが、世界観が違いすぎるので気にしない方が読めます。同じ名前が出てきたらほくそ笑む程度でお楽しみください。



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