[灰色ロリーポップ]
目を開けて井森を見た瞬間に「誰」と言う俺の計画は、無残にも崩れ去った。なぜならば寝起きで頭のぼんやりしている俺に対し、すかさず発言したのは井森の方であり、その第一声は、「飯」だった。 畜生、おかげで夢の余韻に浸る間もなく俺の意識は覚醒してしまったじゃないか(何の夢を見ていたかは忘れたけど)。どうせなら野郎に起こされるよりは女の子に起こされたかったぜ。特にティーンエイジャー希望。それこそ夢の中でしかありえないだろうが。 不服な目覚めに若干気分を悪くしながらも、眠気はすっかり吹き飛んでしまったので起きるしかない。俺は後頭部の寝癖を撫で付けながら体を起こした。生乾きの状態で寝たので酷いことになっている。 光に慣れないまぶたを何度か開閉し、眼前を覆う白い靄のようなものを取り払う。緩慢に頭を動かすと右手側に井森が屈みこんでいた。 「よお」 馴れ馴れしい笑みを浮かべてが片手を上げる。お前のために尽力した俺が疲れて眠っていたのに叩き起こしておいて、そのさわやかな表情は何なんだ。無駄に格好いいし。 イラッとしたので俺は掛け布団を井森に投げつけてやる。ちょっぴり埃が立った。 「うわっぷ、酒くさ!」 それはお前が擦り付けたにおいだ馬鹿野郎。俺だって布団に包まった瞬間酒臭くて堪らなかったわ。 布団をかぶってお化けみたいになっている井森を尻目に、俺は腕を高く上げ背筋を伸ばす。弱いしびれが首筋から腰の方まで駆け巡った。気だるさがふるい落とされる。 クリアになった視界でもう一度部屋の中を見ると、窓が黒く塗りつぶされていた。まばらに白い点が浮かぶ。 ちょっと待て、今何時だ。ポケットに入れたままになっていた携帯を見ると(他の時計は全部キャラ物だったのでしまった)六時になっていた。 まさか朝の六時ではあるまい。となると九時間くらい寝ていたんだろうな。 ……ああ、俺の貴重な休日が何もせずに削られてしまった。別に休日だからといってやりたいことなど特になかったが、やっぱり休日がおじゃんになってしまうと、いささか落胆する。 それもこれも井森のせいだ。横目で井森をにらみつけると、井森は掛け布団を脇に放り捨て、足でさらに隅の方へ追いやっていた。こら、お前も使った布団だろうが、たためよ。 主張したところで無駄なんだろうな、ということは、寝る前の短いやり取りで充分承知している。俺はため息を吐いて、自分で掛け布団を回収する。押入れに収納するのは面倒なので、敷き布団と重ねて三つ折りにしてはい終わり。ちょっと持ち上げて隅に置いた。 俺がせっせと動いているというのに、井森はその間立ち上がりもせず、俺をじっと見上げて観察していた。俺が右に行くと井森の視線も右へ、左に行くと視線も左へ。何かのおもちゃみたいだ。 「何でうろうろしてんの」 「何でこっち見んの」 質問をそっくり返してやる。井森はへらっと頬を緩めて、「何かうちのババアみたいだなって」。 俺はこんなに大きい子を生んだ覚えはない。そしてお母さんを召使か何かだと勘違いしてないか。親だと思うなら敬ってちゃんと手伝いなさい。母親をババアとか言うな。 「だったらお母さん疲れたからご飯作っておいてちょうだい」 よっこらしょ、と言いながらたたんだ布団の上に腰を下ろし、わざとらしく肩を叩いてみせる。やべ、リアルにうちの母ちゃんこんなんだ。年を取るにつれて無意識のうちに似てきてんのかな。何か自分と親の老化を感じて嫌だ。 「えー、腹減って動けない」 井森坊やは座り込んだまま駄々をこねる。膝を伸ばし、かかとで床を打った。 ……本当にただの餓鬼だなコイツは。同い年のはずの俺はこんなに老化を感じているのに。しかも飛び切り可愛くない餓鬼。 腹が減ったんなら飴玉でもくわえていろ。本当の子供がくわえているようなカラフルなのは似合わない。お前なんか灰色ロリーポップくらいがお似合いだ。あいにく、そんなゲテモノみたいな飴はうちにはないけれど。 つくづく俺もやっかいなものを引き受けたようだ。飯くらい井森に作ってもらわないと割に合わない。 俺は意地でも立ち上がるもんかと決意して、座ったまま石像と化す。ここで引き下がったら一般人がイケメンに敗北したようでなんか嫌だ。しかし井森も動く気配を見せない。 空腹の男が二人、自らの主張を成し遂げるためにらみ合っている。ハンストのようだと思ったが、動機のくだらなさにちょっと萎えた。かつてガンジーは偉大なる意思を持って命を張った抗議を行ったのに、今の俺たちは何と浅はかなことか。 歴史の偉人よ、愚かな俺を許してくれとは言わないが、俺にだってどうしても譲れないことがあるのだ! と脳内で訳の分からないことを叫びつつ早くもだるくなってきた俺に対し、井森の方はなかなかの強情で視線すら動かそうとしない。 少し潤んで、哀願するような目(に見える)。美形の顔でやるんだから効果はてきめんだ。俺は仔犬に見つめられたようなえも言われぬ逆らいがたい感覚に襲われ、耐え切れずに視線をそらした。俺が石像でいられたのは残念なことにたった数十秒間だけだった。 顔をそらしたままちらりと井森の様子を見て、俺は後ずさった。 「何で逃げる」 「いや、近いから」 俺は井森と自分の間に手のひらを割って入れる。井森の顔は一瞬の隙にやたら至近距離にあった。俺が手を割り込ませなければ部分接触しそうだったくらいだ。 俺はさっと身を引き、枕を盾にするような感じで抱く。盾としてはいささか心もとないけれど。 たとえここに鉄の盾があったとしても、かなう気がしないくらい、井森の笑みは不敵に崩されなかった。何か嫌な予感がする……井森が少なくとも俺にとってろくなことをするやつじゃない、というのは既に痛いほど分かっている。 今度は何やらかす気だ。俺はパンチを繰り出すボクサーのように口の中で短く息を吐きつつ、枕を小刻みに移動させる。どっからでもかかって来い! と思ったら正面からかかってきた。真上からチョップを下ろし、枕を叩き落しておしまい。枕弱いな! そして井森はがっちりと俺の手首をつかむ。俺の背中がたたんだ布団にぶつかる。既視感。昨夜の状況と同じだ。 「強気なのはいいけど」 手首が布団に押し付けられて、ちょっと肩が痛くなる。井森の顔が近くなる。至近距離で見ても端正だな――って、近すぎるわ! 首に勢いをつけて頭突きを繰り出そうとするが、そんなもん井森が少し身を離せば届かなくなる。腕を拘束されている状態では俺の方が圧倒的に不利。 俺と井森のにらみ合い――だが、力の差は歴然としていた。井森は強者の目で俺を見下ろしていた。 井森の顔が下りてきて、俺は反射的に身を縮めた。毛先が頬をかすめる。井森の吐息が耳にかかる。井森は声を耳の穴に流し込むようにささやいた。 「オタクだって、ばらされてもいーの?」 音が耳の中に飛び込んできて、血管を通り心臓に飛びつく。心臓が凍りつくとはまさにこのことだ。瞬間的に血液の循環が止まって、全身が酸欠状態になる。にぶい全身の痺れとめまいを起こして、目の前の色がすっと薄くなった。 上半身を支える気力もなくて体が布団に落ちる。たたんでいる状態じゃなかったらそのまま床に頭を打っていたかもしれない。 「どういう、ことだ」 それでも何とか一言しぼり出せたのは、プライドのおかげだろう。こんな身勝手な男にされるがままにしておくのはひどく癪だった。気持ち悪いくらいのめまいをかき分け、井森の色だけを必死で凝視する。 「タンスの中あさってたら、色々出てきた」 お前それ、犯罪だろ! ぶん殴ろうと腕を動かすが、井森の手の中で少し身じろぐ程度に終わった。井森が口角をつり上げる。わお、悪い笑みだ。 「隠すくらいだから、知られたくないよな?」 脅されている。完全に犯罪なんじゃないですか井森君、という突っ込みは後にして、俺は間髪いれずに答えた。 「別に」 「へ?」 井森が間の抜けた声を出す。同時に拘束する力がゆるむ。その隙を見逃す俺ではない。渾身の力を振り絞り井森の体を払いのけた。 まだ頭がくらくらしているから大したもんじゃないが、呆然としている井森にはそれでも充分だった。俺が井森の胸を押すと、井森は抵抗もせず素直に身を起こした。 俺は身を横に転がし、布団の上から脱出する。着地に失敗して床の上に肩を落とした。ごん、と鈍い音が鳴る。ちょっと痛かった。 肩を押さえながら布団に手をかけて身を起こす。これでこっちも少しは臨戦態勢だ。深呼吸すれば気持ち悪さも収まってくる。俺は改めて井森をにらみつけた。 俺の視線とぶつかり、井森は首を傾げる。ちょっと可愛い。とか思った俺の脳みそを一回殴りたい。 「何で?」 何で、と言われても。急に理由なんてまとめられなくて、俺は返答に困る。仕方ないので言葉に出しながら考えを整理する。 「一応嫌悪されることも多い趣味だってのは分かってるんだよ。だから、隠すのは自分のためでもあるけど、それ以上に相手を不愉快にさせない配慮であるというか。街中を全裸で歩かないのと一緒かな。マナーだろ、そんなもん」 全裸で歩くのはわいせつ物陳列罪で立派な犯罪だが。ここは例え話として流しておく。 「そんでもってこれは個人的な意見なんだけど、マナーは恣意的なもんなんだよ。守らなければとんでもないペナルティが下されるわけでもない。 だから俺がマナーを守ろうとしたけど守りきれなかったのならそれはそれで仕方がない。誠意でどうにかフォローしていくしかないさ。 俺が自分の性癖を隠そうとして、ばれてしまったとしても、同じことだ」 そして誠意でどうにかできなかったら付き合いをやめるしかない。人間関係なんてそういうものだ。 俺がロリコンであることはどうしようもないことだ。隠したところでそれがなかったことにできるわけではない。逆に公共の福祉に反しなければ俺の性癖は個人的で瑣末な問題にしかならない。 自分の性癖を自由に持ちたければ他人に迷惑をかけないという一線を死守することだ。もし一線を越えたらどうなるか。相手の心も自分の心も踏みにじられる結果に終わることは、死にたくなるくらい自分の身体で体感した。 俺は自分の肩を強く握り締める。痛い。けどお互いそれより痛かった。 俺も相手も悪くない。だからその調和を保つために俺は沈黙する。自分のためでもある。でもそれだけじゃない。もう二度と誰も俺なんかの性癖ごときで傷つけないために。 ――そう決めたんだ。 |