[灰色ロリーポップ]
「俺の家……じゃないな」 「当たり前だ、昨日は自分で帰れる状態じゃなかっただろう」 俺が言うと、井森はまたあのいぶかしげな表情を見せる。 「鳥越竜弥」 誰、と再び問われる前に名乗りをあげる。俺が井森とまともに言葉を交わしたときにはすでに酔っていたのだから仕方がない。覚えていないことは想定内だ。 「昨日飲み会に助っ人で来た。オーケイ?」 そこはさすがに覚えていたようで、井森は数秒の沈黙のあと「ああ」と呟く。もっときりきり思い出せや。井森ほど目立つ人間ではないけれどそこまで思い出してもらえないとへこむぞ。 「こういうパターンはてっきり女の家かと思ったんだがな」 それはさり気ない自慢かこの野郎。女に尽くされることが当たり前だとでも思っているのかこいつは。 「お前みたいな酔っ払い女性に預けられるか、ていうかお前がゲロった時点でみんなドン引きだったよ」 腹いせに笑顔のまま真実のままに言ってやる。井森はどうでもよさそうに無表情のまま鼻から「ふーん」と声を出した。あの場にいた女の子には興味がなかったってか、おい。 そのまま首の後ろを掻きつつ井森は「風呂貸せ」と端的に言う。俺の返事を待たずに井森は布団から抜け出して俺が歩いてきた方(つまりさっきまでいた風呂場)へ勝手に進んでいく。 宣言しただけかよ。酔っていたときに勝るわがままさ。むしろ酔っていたときの方がだいぶ可愛げがあったんじゃないのか? これじゃ起こさない方が良かったかもな。ひそかに思いつつ俺はため息をついた。遠くで風呂場のドアが閉まる音がする。 何も言われなかったが着替えは用意しておいた方がいいのだろうか。無意識の内に世話を焼こうとする自分の頭に苛立つ。俺は甲斐甲斐しい下女か。 もうあいつは昨日までの酔っ払いじゃないんだ。俺がかまってやる必要はない。調子が戻ったのならすぐに追い出してやる。犬飼との義理は果たしたはずだ。 そういえば犬飼には一応井森が元気に目を覚ましたことを伝えておいた方が良いだろうか。昨日の様子では相当心配していた。日曜日とはいえそろそろメールを送っても失礼ではない時間帯だろう。というかこれから俺が一眠りしてしまうと次はいつメールできるか判らない。 風呂に入る前に昨日着ていたズボンの中から引っ張り出しておいた携帯を手に取った――ところでピンポン、という音が聞こえた。珍しい、日曜日の午前中から来客とは。 宅急便だろうかと思いつつ「はいはい」と言いながら玄関に下りる。サンダルの方に足を突っ込んでドアの鍵を開けた(チェーンは朝郵便物を取るときに外した)。 ドアの前に立っていたのは予想外の人物だった。俺は思わず手元の携帯を見てしまった。俺はまだ何も送っていないはず。ずいぶんタイミングよく現れたというかメールを送る手間が省けたというか。 「おはよう、鳥越君。寝てた?」 「むしろ寝てない……犬飼も早いな」 玄関と外の通路には若干の段差があるせいで、犬飼の頭はいつもより下にあった。実際の身長差は五センチくらいだが今は犬飼が完全に見上げる形になる。寝不足でとち狂っている俺の頭は「上目遣い萌え」とか考えていた。 犬飼はいつものように金髪をヘアピンで留めてパーカーを着ていた。フードと袖の部分が黒で、白い胴の部分には赤い炎が描かれている。中のシャツはグレー。俺はさっきテキトーに服を着てしまったことを後悔した。 「大学に行く用事があったから。ついでに寄ってみた」 言って犬飼はさり気なく笑った。あくまでもついでというのを前面に押し出す辺りがお人よしだな。遠いところからわざわざ来るほど気にしていただろうに。 「サンキュ」 どうせ礼も言わないであろう井森の代わりに俺が礼を言っておく。犬飼は照れ臭そうに歯を見せて笑った。 ただでさえ童顔な犬飼は笑うとさらに幼く見える。やんちゃ坊主って感じだ。これはこれで可愛い。わがままな男を見た後だからものすごく癒される。 「井森は?」 「風呂入ってるよ。バリバリ完全復活、超俺様。いつもああなのか?」 「まぁ……」 言いにくそうに言葉を濁し、犬飼は視線を泳がせる。問題なく肯定の意味に受け取って良いだろう。人懐っこい犬飼にまで言われるなんて、友達なくすぞ井森。 「それにしてもよくうちが判ったな」 「友達もこの近くのアパートに住んでるから……」 この界隈は大学が多いからな。必然的に大学生が多くなる。アパートの方も大学生向けに低価格を売りに出している。 鳥越という苗字は珍しくもない代わりに近所にぽこぽこいる名前でもないので、アパートさえ知っていれば探すのは容易だろう。ということでこの話題はあっさり終了し、会話の間が開いた。 数秒間気まずい沈黙が流れる。犬飼は井森の様子を見に来ただけなんだから、井森の無事が確認できた今話題がないのは当たり前か。 俺はまだ乾いていない髪をタオルで拭きながら、どう別れの文句を切り出すか考えた。わざわざ来てくれたんだから犬飼に時間さえあればお茶でも出したいところだが、俺はとにかくモーレツに眠い。刻一刻と徹夜の記録が更新されている。 眠い頭で考えても何も思い浮かばない。ぼんやりしていると、犬飼の方が口を開いた。 「あの、井森のこと。許してやってほしい。いつもは飲みすぎるやつじゃないんだ」 俺は大きく瞬いた。何かがあるとは予想していたが。いつも昨日の調子で飲んでいたら井森はとっくに死んでいるだろう。昨日は原因について言及している暇がなかったし、そもそも部外者の俺が知るところでもなかったのであえて気にしていなかったのだが。 犬飼は少し身をよじって俺の部屋の中をうかがった。視線を左右に泳がせる。 「井森ならしばらく出てこないよ」 俺が言うと犬飼は安堵したように息を吐き、続ける。 「高校時代から付き合ってた彼女と別れたんだ」 少し意外な理由に俺は失礼ながら純粋に驚いた。もてるからさぞかしプレイボーイなのかと思ってたが、イメージに反してストイックだったらしい。彼女をとっかえひっかえという話は少なくともただの噂だったようだ。 「鳥越に来てもらうことになったのも、そのせい。来なかったのは井森の彼女だから」 同じ高校なら当然出身地も井森と同じだ。その上恋人となればそろって中部会に入っていてもおかしくはない。なるほど、そういう因果だったのか。別れてすぐの元彼がいる飲み会には参加しづらいわな。 「井森は色々な噂があったけど彼女一筋だったからすごくショックだったみたいなんだ。昨日の飲み会は本当別れてすぐだったから、飲みすぎたんだと思う」 「あいつでも酒に溺れたいことがあったんだねー」 第一印象で不機嫌そうだとは思ったが、よもやそんな裏があったとは思わなんだ。井森ほどのモテ男だからなおさらだ。 思えば初対面の俺に対するわがままな態度も多少はそういう事情の上でのことなのかもしれない。普段の様子を知らないからいかんとも言いがたいが、親しくないやつにまで俺様な態度を取るようなやつではないことを祈っておこう……。 首を上下に揺らしながら、俺はつらつらと続く井森のエピソードを聞いていた。駄目だ、脳みそが動かない。正直井森のことなんて興味ないです。講義中教授の話と眠気を天秤にかけるときと同じく俺は眠気の中にたゆたっていた。講義中には最終的に寝るんだけどな。 俺はだんだん狭まっていく視界の中で犬飼を見ていた。上半分がまぶたに隠れて真っ暗になっていく。立っているのも億劫になって頭を開いたままのドアに預けた。ひんやりしていて風呂上りの体には心地よい。このままドアを枕に寝てしまえたらどんなに楽だろう。 何度か眠りに引きずり込まれそうになっては首がかくんと折れて目を覚ます。それを何度か繰り返したとき、いつの間にか会話が途切れていることに気がついた。まずい、さすがに話の途中でうとうとしているのは失礼だった。 はっと顔を上げると、犬飼が口を開けたまま呆けた顔をしているのが目に映った。犬飼は黙っているのではない。絶句しているのだ。 いったい何を見てそこまで衝撃を受けたのだろう。俺は犬飼の視線を追って後ろを振り返った。昨日掃除してちょっとすっきりした俺の部屋があるだけだった。井森が放置していった布団だけが乱れている。別にまずいものはないはずだ、昨日必死で隠したからな。 「どうした?」 顔色を伺おうと俺が半歩足を前に出すと、犬飼はあからさまに半歩後ろに逃げた。 「えーっと」 犬飼は口元を引きつらせる。手を上げたり下げたりしてしどろもどろしていた。手がかろうじて首元を指し示す。 「首がどうした?」 俺が腰を曲げて犬飼の首筋を覗き込むと、犬飼は「違う」と首を振る。 「鳥越君の」 言われて俺は自分の首筋に手を当てた。特に指に触れるものは何もない。あるはずが……。 心当たりに気づいて、俺は一気に目が覚めた。両手で首筋にあると思われる赤い印を隠す。 そこは、昨日井森にキスマークをつけられた場所だった。 くそ、忘れてた! 襟で首元が隠れる服を着るんだった! 後悔したところで、犬飼にはしっかり見られてるんだから、遅いのだけど。 「こ、これは……」 言い訳の仕様がない。犬飼だって気づいているだろう。昨日犬飼と別れた時点で、俺の首元にキスマークはなかった。そのあとは井森の看病で井森以外とは誰とも会っていない。誰がどう考えても、井森がつけたキスマークだとしか思い当たらないだろう。 よく考えれば俺と井森が入れ替わりに朝風呂に入っているというのも意味ありげだ。これが男女だったら確実に体のお付き合いを暗示させる。 「酔った勢いで井森が……いや、それ以上は何も!」 やましいことは……あったけど! 断じて年齢制限するようなことは起こっていないんだ! 何とか説明したいけれど、言えばいうほど胡散臭くなるような気がして、言葉に詰まる。中途半端に何かあったから余計言い訳しづらい。 俺がどもっている間に犬飼は何を想像したのだろう。見る見る内に赤くなっていく。耳まで赤くなっているさまは他人事だったら可愛いなとも思えたけど当事者としては青ざめるばかりだ。 「お、お疲れ様!」 犬飼は意味ありげな言葉を言い捨てて背を向けた。そのまま走って階段を下りていく。金属の階段にやかましい音が鳴り響いた。いくら日が昇っていても日曜日には近所迷惑だぞ。 犬飼はあっという間に去ってしまった。足速いんだなあいつ。と感心している場合ではない。何とか弁解しないと後が怖い。 追いかけようと玄関のドアノブを握り、 「何やってんだお前ら」 俺は勢い良くドアを閉じた。バンッと建物が崩壊したような大げさな音が響く。いかん、犬飼よりも俺の方が近所迷惑だ。 しかし犬飼が慌てて去った理由がよく判った。俺だって当事者でなければ逃げたい。近所の目が冷たくなったらどうしてくれるつもりだ。 俺の後ろには、風呂から上がったまま何も着ないでうろついている井森がいた。 「つーか服着ろ」 「着替えがない」 「同じの着てろよ」 「嫌だ」 このわがまま太郎めぇぇぇぇ! 少しは人の気を遣え! 犬飼に誤解された件で俺には余裕がない。眠いし二日酔いで若干気持ち悪いし我慢の限界とも言う。 「この際だから他人の家でゲーゲー吐いたことも酔った勢いでキスマークなんかつけやがったことも許してやる! 俺様な態度も勝手に風呂使ったことも目を瞑っといてやるよ! だからこれ以上話しかけるな、なぜならば俺はこれから寝るからだ!」 まくし立てて、俺は玄関に鍵をかけてサンダルを脱ぎ捨てる。井森の裸体を押しのけて部屋の中に入っていった。井森が寝ていた布団の中に体を滑り込ませる。 風呂に入らないまま酔っ払いが寝ていた布団は汗とアルコールのにおいが染み付いていたが、眠気マックスの俺には関係ない。横になれる場所があればどこでも寝れる自信がある。 俺はすぐにまどろみの中へ落ちていった。畜生、絶対に良い夢見てやる。可愛い幼女に囲まれて花園を駆け回るような、そんな寒いほど天国みたいな夢の国へ行くんだ。いっそ井森のことなんか忘れてやる。そして目が覚めて井森と顔を合わせたら一番に「誰」とか言ってやるんだ。 頭の中で妄想しているとようやく布団に入れたことも手伝って幸せな気持ちになってきた。俺は自分の二の腕で顔を隠した裏でにやりと笑った。 もうこれで今度こそ井森と付き合うことはないはずだ。さらばだ井森、一夜限りだと思うと何もかもが許せる気がする。貴重な体験をありがとう――。 「ありがとう」 ん? 俺は今声に出して言っていたか? 違和感を覚えたがそれを確認する気力はどこにもない。俺はそのまま眠りの中に沈んでいった。 |