[灰色ロリーポップ]
第一に思ったのは。顔をべしょべしょのくしゃくしゃにして泣く顔なんて漫画で見るほど美しくないのが現実だが、顔のいいやつの泣き顔は本当に綺麗なんだなってことだ。 綺麗な表情をなるべく保とうとしているけれど、溢れてくる涙と湧き出る嗚咽がそれを許さない。顔を隠そうにも両手は俺がふさいでいる。井森が俺の拘束から逃れようと、腕に力を入れているのが手のひらから伝わってきた。 俺は少し不憫になってきて井森の腕を解放してやる(まだちょっと何をしでかすか判らないから、恐る恐る)。井森は手の甲で涙をぬぐった。涙が手の甲にも広がっただけであまり状況は改善されていない。仰向けで泣いているから頬が濡れ放題だ。耳の後ろの髪に滴がたまってきている。 手を目元からずらし、井森は俺を見上げた。小さな水溜りの奥で俺はどんな風にぼやけて映っているのだろうか。井森はまだ俺を誰かと勘違いしているようで、「蝶子」と呟きながら俺の服をつかむ。 その言葉がどれくらい切実なのかは何となく伝わってきて、俺も泣きたい気分になってきた。酒のせいだよ、こんちくしょう。いまさら、いまさら井森の涙につられて俺まで思い出しだなんて、ありえない。 あの時の俺も確か泣いていた。傍にいてくれる人は誰もいなかった。自業自得だ。判りきっていた。だから誰かに傍にいてほしいだなんて贅沢は言わなかった。むしろ彼女の方がずっと痛みを抱えていたはずだった。 俺が黙ったままでいると服を引く力が強くなる。少し苦しい。握りこぶしの強さが痛々しく思えた。すがり付いているみたいだよお前。 「何で……何で」 うわ言のように井森が繰り返す。答えてくれと言わんばかりに井森が俺の胸を圧迫する。俺に聞くなよ。そんなに泣くほど大事な問いなら、俺なんかに聞いちゃいけない。こっちは何がなんだかさっぱりなんだぜ。 俺は井森の頭をなでた。さっきよりは優しく。俺の下で、井森は寒い季節でもないのに震えていた。 井森は泣き上戸なのだろうか。井森と飲みにいくのは初体験だから真偽のほどは判らないが、今はそういうことにしておいた方がいいような気がした。 井森が悲しいこと、泣きたいこと、すがりつきたいこと、俺は何も知らない。井森の言葉からいくらでも邪推することは出来たし、酔いに乗じて話を聞きだすことも出来ただろうが、やはりというか、俺はそれをする気にはならなかった。井森にそこまで興味はないし、男の内部に侵入しようとするほど俺の趣味は悪くない。 俺はたまたま井森がへこんでいるところに居合わせてしまっただけだ。泣きたいなら勝手にしろ。泣く場所くらいは空けておいてやる。 俺は抵抗するのをやめて布団にうつ伏せた。動いたせいか井森はじんわりと汗をかいてくる。井森も相当暑いとは思うが、かまわず顔を俺のシャツに押し付けてくる。汗臭くないのかね。自分は風呂に入りたいと散々わめいていたくせに。 井森の高い鼻が鎖骨の間に食い込む。涙で濡れた目元が一段と胸を強く熱する。汗と井森の涙でシャツが濡れる。 「忘れちまえ」 井森の頭を軽く叩きつつ、何となくそう口にしていた。井森もちゃんと聞いていたのか、腕の中で身じろいだのがうかがえる。 「なにがあったか知らないけど、いつかは忘れられるときがくる」 たぶん。それは、俺の願いでもあった。俺が忘れたいんじゃない。純情で一途で何事にも一生懸命で逃げることを知らなくて、俺が傷つけてしまったあの子に対しての願いだ。 まったく、チャラ男ならチャラ男らしくしていればいいのに。純愛だなんて反則だ。恋なんて真剣にするもんじゃない。二次元相手にハアハアしてるのが妥当なところだ。 でもそんな一途さがたまらなく愛おしい。あの頃も、今でも。愛してるだなんておこがましいことは言わないけれど、こんな俺を好きだと言ってくれたあの子に対する暖かな思いは、一つの愛情ではある。 今井森を慰めることは、その償いになんてなりはしない。だけど井森がどんな気持ちで泣いているのか、俺には判る気がするから――きっと真冬に嵐の中へ放り出されたみたいに孤独でどうしようもないくらいに悲しい気持ちなんだ――、目の前、手の届くところにいるところで泣いている井森を、放ってはおけなかった。 「いいか」自分の声は思いのほか震えていた。「忘却ってのはテストでひどい点数を取るためにするんじゃないんだ」 そこまで言って自嘲する。俺がいつもひどい点数を取るのは別に忘却のせいじゃなくってもともと勉強していないか覚えきれなかっただけだけどな。 そんなことはどうでもいい。覚えていたかったら事前から計画的に頑張るしかない。反対に、記憶力というものはどうやらそのときの感情とセットになってどうでもいいところで発揮されるらしく、忘れたくても忘れられないことってものがある。 いくら思い出したって記憶は改変できないし現実に何の影響力もないわけだが、当時のえもいわれぬ激情がよみがえってきて何度も自分を苦しませる。何の意味もなさない自傷行為。謝っても逃げでも、本当にそうしたい相手には何も伝わらないのに。 それならそんなものはいらない。捨てて楽になればいい。だから忘れればいい。 「忘れるってのは、笑って明日を迎えられる、すごい機能の一つなんだぜ」 水を飲め。流せ流せ。アルコールを飛ばすみたいに吐き出して、二日酔いにちょっと悩まされながらも、また新しい一日に向かえばいい。 「だから今は、存分に泣け」 一瞬、井森の顔が離れた。そのとき井森が何を思ってどんな表情をしていたかは、残念ながら俺からは見えなかった。 井森は至極素直だった。何も言わないまま、再び顔をうずめる。俺の言葉通りに受け取って、あとはずっと、井森は泣いていた。 「ちょーこ」という名前は、あとの方ではほとんど聞くことはなかった。 上から降り注ぐ生暖かい湯が気持ち良い。水圧は少し強め、シャワーから飛び出してくる局部的な土砂降りは肌に当たると少し痛い。 俺はお湯をまんべんなくかぶりつつ、汗が流せてようやくすっきりした体を軽くなでる。白い泡は肌をすべりお湯と共にマットの方に流れていって、お湯に溶けて消えるかあとは排水溝へと吸い込まれていった。 風呂場の窓から漏れる光は明るい。片づけが終わり、風呂に入れたのは、結局日もだいぶ高くなってからだった。つまり徹夜だ。 たぶん諸悪の根源である井森はまだ布団でぐーすか寝ているだろう。俺が風呂に入る直前は少なくともどれだけ物音をたてたって微塵も起きる気配を見せなかった。おかげで安心して片づけができたが。 片付けの出来はまずまずだと思う。ポスターは全部はがしたし偽造のミュージシャンのポスターまで貼り付けておいた。CDラックにもリア充を装ったラインナップをそろえてある。 グッズ系統はまず探られる恐れがないであろう洋服ダンスの奥やクローゼットの中に押し込んでおいた。このままグッズをきちんと整理するのも良いかもしれない。……グッズを見られたのが前の彼女と別れた原因だからな。 引きずっているつもりはないが、それから一年、彼女は作っていない。ただ二次元と混同して義務教育の彼女を持つのはやめようと思っただけだ。 今のティーンエイジャーはこまっしゃくれているだなんて誰が言った。子供は純真だ。彼女は多分一人の男として俺を愛してくれていた。それを踏みにじったのは俺の方だ。前途ある若者の清き青春を汚され、傷ついて、泣いて泣いて悲しんだのは、彼女の方であって、俺ではない。俺は良心が少し痛んだ程度だ。 少しブルーな気持ちになって、俺はシャワーの中で頭を振った。水しぶきが飛ぶ。これが水だったらいい感じに精神統一になりそうだが、風邪引くこと間違いなしの馬鹿をやるつもりまではない。 蛇口を閉めお湯を止める。水分をたっぷり含んだ髪を後ろに撫で付けた。髪がたっぷり吸った水気は首筋を通って背中を流れ落ちていく。 ドアを開けて風呂場に立ったまま腕を伸ばし、バスタオルを取る。洗剤でただ洗っただけのタオルは硬くてざりざりしている。顔を拭くと水分が取れる代わりにひりひりした。 軽く体を拭いてから風呂場を出てドアを閉じる。まだ片づけをしていないがどうせ井森が入るだろう。昨日あれだけわめいてたんだから。 俺は洗濯機の上に置いておいた服の中からトランクスをつかんで履いた。今日は出かける予定がないから上はTシャツ、下はジーパンという地味なラインナップだ。家にいるのが井森じゃ張り切る気も起きない。 タオルを頭にかけて髪をこすりながら居間に戻ると、部屋の中央を陣取っていた井森の体がもそりと動いたのが見えた。やっとお目覚めか。 俺は井森をまたいでカーテンを開けた。雲がだいぶ多いが日差しは強く、雲の向こうから白い光が見える。九時にともなれば日はだいぶ高くなっていた。 一歩下がるとかかとが布団の端に触れた。振り返ると気配を察したのか井森は体を転がして仰向けになった。その目は開きそうで開かない。まどろみの中を行き来している。 俺は井森の枕元に屈みこむ。試しに「おはよう」と言ってみると井森はかすかにうめいた。とろんとしているまなざしはえらく無防備で不覚にも可愛らしいと思ってしまう。俺には腐男子属性はないはずだが。 井森のまぶたがわずかに押し上げられた。茶色っぽい瞳がきょろきょろと動く。ちゃんと見えているのだろうか。興味本位で目の前に手をかざしてやるとどうやら見えていたようで手首をつかまれた。 そのまま腕を引かれて、俺は井森に倒れ掛かる。激突する寸前で片腕のブレーキが発動し体を支えることが出来た。危ない。 しかし今の状況もこれはこれで危ない。井森の顔が目の前にあった。鼻先が十センチほどのところにある。はっきりとした意識を伴っていない井森の目は潤んでいて妙な色気を放っていた。 少しだけ開かれた唇がすぐそこにある。妙な気を起こしかけた俺の唇がピクリと動く。幸いというか、何かが起きる前に、井森の口が開いた。 「いいにおい」 ええまあ風呂上りですから。なんだか気恥ずかしいコメントに俺は顔を離して視線をそらした。 視界の端で井森が顔をしかめたのが見えて、再び視線を落とす。眉間に寄せられたしわ、ゆがんだ眉。井森はいぶかしげに俺を見上げていた。目はほとんど完全に開いている。 「……誰」 不機嫌な低いトーンで一言。って、そりゃないだろ。昨日お前を介抱してやったありがたい人物を何だと思っているんだ。まぁ予想通りっちゃあ予想通りの反応に、俺は怒りを通り越して呆れたため息を吐いた。 |