[灰色ロリーポップ]


 トイレの中にアルコール臭を帯びた吐瀉物が流れていく。二次会で食ったもやし炒めの原型が若干残っているのがえぐい。だがほとんどが液体で、固形物はあまり混じっていなかった。散々吐いたんだから当たり前か。
 俺は便器に顔を突っ込む勢いの井森の体を支えながら、背中をさすっていた。気休めでも井森があまりに苦しそうだから何かしていないではいられない。
 家に着いた直後、井森が吐き気を催しトイレに直行した。それから十分が経過し、井森は「大分良くなった」と主張するものの不調は続いていた。酔っていたときは赤かった頬がすっかり青ざめている。病的な色だ。放っておいたら死にそう。
「ご……べ……」
 井森の言葉がゲロにかき消される。何となく謝ったのだけはニュアンスで伝わってきた。吐いたおかげか大分意識がはっきりしてきている。
「俺は良いから、楽になるまで便所にいよう」
 迷惑だとかそんなことはどうでもいい、元気になるのが最優先だ。つらそうなのは見たくない。こういうときに健康の大事さを思い知らされる。
「吐き出しても良いから、水飲んどけ」
 井森の吐き気がいったん途切れたのを見計らって、俺は入り口に置いておいたペットボトルの水を紙コップに注ぐ。二リットル入っていたがもう半分以上井森に飲ませた。少しはアルコールが薄まっているといいのだが。
 井森の体を起こし、頭を上に上げさせて少しだけ口の中に流し込む。最初の一口は口の中をすすぐために便器の中に吐き出させた。それからまた口に入れさせる。井森は力なくのどを動かした。
「楽になってきた」
「その台詞何回目だ」
 酔っ払いの言うことなど正直宛てにならない。横になって吐かれるのが一番困るんだ。吐瀉物を詰まらせたら最悪窒息死だ。
「寒いし、寝たい」
 寒いのは汗をかいているせいだろう。抱きかかえる体は汗ですべすべしていた。べとべとの域を超えている。俺もずっと井森にくっついたせいで汗をかいているので、どちらの汗なのかは判別がつかない。
 だが落ち着いてきたのは確かのようだ。俺の押さえている井森の胸からはゆっくりとした心臓の鼓動が伝わってくる。呼吸も静かだ。胃の中のものを全部吐いてしまったせいで井森の胸板はやけに薄く感じられた。
「風呂入りたい」
「それは却下」
 アルコールが残っているだろうに、風呂に入らせたら悪化してしまう。まだ暑くなる前だから水風呂に入らせるわけにもいかない。
「このままだと気持ち悪い。風呂」
 わめきながら井森はすぐ横の蛇口に手を伸ばそうとする。ユニットバスだからトイレのすぐ横は風呂だ。あーもう、酔っ払いはわがままだ。
「体拭くので我慢しておけ。新しい服は俺の貸してやるから。調子が戻ったなら、いったん流すぞ」
「うん」
 頷いた井森の口元をトイレットペーパーでぬぐう。それを便器に投げ捨て、井森の体を引き上げる。水を流すと汚物が渦を巻きながらパイプの奥深くに沈んでいった。これが最後になることを祈る。
「立つぞ」
 宣言してから井森の腕を肩に回す。力が入らないのかえらく従順だ。井森の手が不安げに俺の服をつかむが、握力はあまりない。俺は井森の体を支えられるよう、腰に手を回した。どうせまだ自分では立てないだろう。
 男の癖に細い腰だった。最低限の筋肉はついているが力の入らない今は意味がない。全体的にスタイルが良いんだな。顔も良いし脱いでも良いならもてるはずだ。俺だって太ってはいないけど筋肉の方は心もとない(一人暮らしのせいですっかりやせてしまった)。
 トイレと廊下の間に少しだけ段差があるので、井森の体を引き上げながら慎重に足を下ろす。そこから二歩程度で終わってしまう短い廊下の先には部屋があるのだが、床には薄くて高い本やゲームのパッケージが転がっていて、井森を置くスペースはなさそうだった。
 そうだった、先に掃除をしないと布団も出せない。俺は「悪い、ちょっと待ってて」と井森に声をかけてから、井森を床に下ろす。背中を壁に預けるようにして座らせたが、バランスが取れないのかすぐにぐしゃりと床に寝そべってしまった。
「風呂……」
 まだ名残惜しげに言ってる。
「はいはい、後で」
 テキトーに流して足元のCDを蹴飛ばしながら部屋に入る。とりあえず井森に寝てもらうのが先だ。そうしないと落ち着いて部屋の片付け(エロ本隠し)もできない。
 本の類をすべて一箇所に積み重ね、パソコンの下に突っ込む。人一人が寝られる即席のスペースが出来上がり、三つにたたまれただけの布団を引っ張って敷く。湿っぽいのは気にすんな。最近曇りが続いていて布団を干す機会がなかったんだ。
「井森、今日はここで」
 寝ろ、の部分は肺と一緒につぶされた。急激な重みに耐え切れず体が崩れる。とっさに手を出したがあまり役には立たなかった。手のひらがシーツに滑って、そのまま胸が布団にダイブ。頭を軽く打ってめまいがした。
 何が起きた! 焦点が定まらなくてぼんやりする目を瞬かせる。
 ちょっと湿ったシーツはかぎ慣れたこのアパートのにおいが染み付いていて、俺に少しの冷静さを与えてくれる。とにかく、俺の背中に何かが落ちてきたのは確かなんだ。
 まだ背中が重いので首だけをよじって背後をうかがった。そこには赤みがかった茶色の毛があった。はてうちにこんな毛の飾りがついたオブジェクトなどあっただろうかと考えて、廊下の方に視線を移した。井森の姿がない。ということは何のことはない、ここにあるのが井森の頭だということに気づいた。
「井森〜、自分で歩いてくれるのはありがたいが、倒れるなら布団の上にしてくれ!」
 片肘を上げて井森の体を押す。井森は思いのほかしっかりと床に手を突いていて動かない。
 まさかこのまま寝に入ったのか、とも思えばそれとは少し違う気がする。意識のない井森を背負ってきたから何となく判る。何というか、ちゃんと意識があって、筋肉を使っている状態だった。硬い胸板がそれを証明している。
「寝ないんだったら風呂入るか?」
「ん」
 井森は返事にならないうめき声で応えて、俺の背中に顔をうずめた。
「あったかい」
 俺は暑いよ。ただでさえ人一人を抱えて帰ってくる重労働をした後だから汗もだらだらだよ。風呂に入りたいのはむしろ俺の方なんだ。
「あーもう、寒いなら布団かぶってくれ。そのまま寝ると風邪引くぞ」
 二日酔いに風邪まで引いたら最悪だろう。預かった手前不調になられると後味が悪い。俺の沽券にも関わるだろ。背中に手を回して、井森の頭を乱暴になでる。ムースが使われているので髪は硬い。かき乱すと変な風にぼさぼさになる
 酒は麻薬のようなものだ。飲むと変に退化する。今の井森は、手のかかるでかい子供みたいだ。
 井森は俺と布団の間に手を突っ込むようにして俺を抱きかかえるようにした。こいつ、意地でも離れない気か。どこまで駄々っ子だ。
「井森、いい加減に離れろ」
「いやだ」
 俺は目の斜め上、こめかみの辺りで青筋がピシリと浮かび上がるのを確かに感じていた。
 俺は子供には寛容だ。どんなわがままでも大概は許す。だが、図体のでかいお子様まで甘やかしてやるほどお人よしではない。
「はな……っ」
 肘を高く上げて、そのまま井森の脳天めがけて振り下ろす。井森の視界にも若干映っただろうが、井森はよけるどころか腕の拘束を強くする。
「俺は絶対に放さない」
 はっきりと言う。意思を持った声色だった。射抜かれる。結局、肘に鈍い衝撃が走ることはなく、俺は手を止めていた。
 井森が少しあごを上げたせいで、やつの唇が首筋に触れる。柔らかい。熱い。井森が口を開くと舌や硬い前歯がかすかに当たる。
 気のせいかケツの辺りにも硬いものが当たってるんだが。酒のせいで血迷ったか井森!
「放すもんか、蝶子」
「んぁっ」
 蝶子って誰だ! と言おうとしたのに程遠い声が出てきたのは、井森が俺の首筋をなめたからだ。熱くてちょっとざらついてて湿った柔らかいものが這う。日常生活とは無縁な感覚に、どう反応すればいいのか判らない。
 井森は同じ箇所に唇を押し付ける。小さな痛みで強く吸われているのが判る。井森は顔を首筋に押し付けたまま、手を下からシャツの中に滑り込ませてくる。
「井森、目を覚ませ! 俺は鳥越だ、蝶子さんとやらじゃない!」
「うん」
「うんじゃない、寝惚けてるだろ今!」
「ああ」
 うああああ、駄目だ、何を言っても通じない。完全に酔っている。どうせ後で何も覚えいないに違いない。
 いっそ俺も何も覚えていなければいいものを。たぶんぼんやりと記憶には残ってしまうだろう。誰かさんが吐いたせいで今日はあまり飲めなかったからな。
 俺は拳を握って少しでも体を動かそうと肩に力を入れる。井森の体が邪魔で力も入りにくい。何とかわずかに体が浮き上がるが、井森の舌が首筋を伝い、背中が反る。そのまま力が抜けて布団の上に逆戻り。
 真後ろのちょっとへこんでいる部分を溝に沿って熱いものが上へ。普段触れる機会のない襟足の辺りに舌が到達し、俺は身震いした。
 駄目だ、感覚がすっかり敏感になって服と服がこすれるだけで集中が途切れる。力を一点に集中させることもままならない。俺まで変な気分になってくるだろ畜生。
「教えてくれ、蝶子」
 俺に向かって他人の名前が投げかけられる違和感だけが俺をリアルに引きとどめる。井森が前にしているのは俺であって俺でない。熱い唇を寄せるのも切実に言葉を吐くのも俺に対してじゃない。
「何で別れないといけないんだ」
「蝶子さんに聞けよ、そんなの」
 俺は横目で井森をにらみつけながら、なるべくきつい口調を選んで言う。井森の目を覚まさせるためと、俺の平常心を呼び戻すためだ。
「答えろよ、蝶子」
 前者の効果は全く見られなかったようだ。井森はまだ抱いているのが蝶子さんだと思っている。よほど俺と蝶子さんは似ているのかね。別に華奢でも女っぽくもない俺と似た女性はさぞかしいかついニューハーフになるだろう。
 俺は顔を上げて壁のポスターを見る。そこではアンパンをくわえて転びそうになっている幼女が描かれている。俺は気を奮い立たせた。
 俺が好きなのは義務教育以下のロリもしくはショタ(開拓中)なんだ。こんな意識混濁中のストライクゾーンを大幅に外れたボールにつかまってたまるか!
「せいっ」
 気合一発、俺は全身の力をこめて身をよじる。ちょっと力を入れる場所を間違って、普段使わないわき腹の筋肉がピシリと痛む。ここでひるんでいたら勝機はつかめない。俺はかまわず身体をひねった。
 俺は井森ごと横に転がって、横倒しになる。抱きかかえられていたおかげで衝撃はほとんど井森が吸収してくれた。
 体側を打って、井森の拘束が緩んだ。その隙に俺は井森の手首をつかんで、腕をこじ開ける。押さえてくれるものがなくなって、俺は井森の腕の中を転がりながら、布団の上に放り出された。
 ここで安心するわけにはいかない。再びつかまらないように、すぐに身を反転させて井森を見下ろす。井森の両手首をつかんで、まとめて頭の上に押し付ければ、
「形勢逆転」
 抵抗できなくなった井森に俺はにやりと笑った。なんか悪役みたいだ。ちょっと息が上がっているのは様にならないが。
 ここでようやく俺は井森の顔を見た。せっかく作った笑みはすぐに消えた。口元が固まる。
 潤んだ瞳に赤くなった目元、八の字にゆがむ眉、眉間によるしわ。それを見て「エロい顔だわ萌え〜」とか思うほど俺はまだ人間腐っちゃいない。
 井森は泣いていた。



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