[灰色ロリーポップ]
ドアを開けると、居酒屋特有のタバコのにおいと、かすかな酒臭さが鼻をついた。店員がすぐに俺を見つけ、ざわめきを割って「いらっしゃいませー」と声をかけてくる。俺は店内に足を踏み入れてドアから離れた。 さすが夕飯時のピーク時、一見して空いている席は見当たらずそこら中から話し声が聞こえてくる。酒が入っているせいかはたまたうるさすぎるせいか、どんな話題が上っているのかさっぱり聞き取れない。 「一名様ですか?」 店員が忙しそうに空のお盆を持ったまま駆け寄ってきた。黒いバンダナに同色のエプロンというシンプルな制服に名札をつけている。 「いえ、犬飼ってやつと合流したいんですけど」 店員はちらりとレジの横の顧客リストに目をやった。俺もつられて見たが、半ばほどに片仮名で書かれた犬飼の名を見つけられただけで席番号と思しき記号や数字は解読できなかった。 「こちらへどうぞ」 さすが店員は慣れているようで一瞬だ。顔を上げると店員は右側を指していた。 俺は視線を左右にやりながら促された方に歩いていく。店内には全体的に大学生と思しき若者が多いようだった。安さが売りで比較的大学とのアクセスのいい駅前の店だからだろう。若者の専売特許(だと俺は思っているのだが)のコールがかかっている。一気飲みで死人が出て以来てっきり風化した文化だと思っていたのだが。 酒場なので仕方がないが店内はひたすら薄暗い。淡くオレンジ色づいた光が酒で沸いたテンションと嫌にミスマッチだ。 この暗さだと人の顔を判別するのは困難そうだ。ボックス席に座ってなければいいのだが。 「鳥越君、こっち!」 俺がよそ見をしている間に、先に見つけたのは犬飼の方だった。声のした方を振り向くと犬飼が身をよじりながら俺に手を振っていた。 クラスメイトとはいえ必修の授業でもない限り顔を合わせないので、しばらく見ないうちに髪の毛の色がまた明るくなった気がする。ショートボブに切った髪を金色のヘアピンで留めていたが、ヘアピンの色と髪の毛の色にはほとんど差がなかった。 犬飼たちが固まっていたのは窓際の席だ。夏至が近いせいかまだ外はしぶとく明るさを残してはいたが、電灯はポツリポツリと灯り始めている。もっと暗くなれば薄暗いおかげで夜景がよく見えそうだった。俺の機嫌が少し浮上する。 席の間をくぐり抜けながら近くまで来ると犬飼は席を立った。 「わざわざありがとう。意外と早かったね」 「どうせ暇してたから。電話の後すぐに出たんだよ」 「さすが仕事が速い」 いよ、と掛け声とともに犬飼が手を叩く。さすが、と言われるほどこいつから仕事を引き受けた覚えはない気がする。すでに乾杯を済ませたのかいつもよりテンションが高い。 「はは、飛ばしてるな」 「そんなことないって!」 と言いながら、犬飼は俺の腕を引っ張って空いた席のところに立たせた。犬飼の向かいなのは、他に知り合いのいない俺を気遣ってか。相変わらず行動的なことだ。そうでなければ幹事なんて好んでやらないだろうが。 犬飼は自分の席にさっと戻ると、俺に座らせる間を与えず残りの六人の方に顔を向ける。 「彼がさっき話した、助っ人の鳥越君!」 六つの視線が俺に集中した。確かに、犬飼以外俺の知っている顔はいない。人数的に同学年しかいないのだろう……という推測くらいしかできない。そもそもこれは何の集まりなんだろう。 いや、訂正。知っている顔はあった――向こうは俺のことを知らないだろうけれど。 井森。下の名前は知らなくても顔は覚えている。うちの大学の経済学部一色男と名高い人物だ(微妙にローカル)。まさかこんなところで遭遇するとは思わなかった。しかも何の因果かこの席順だと俺は彼の隣に座ることとなる。 以前は学食でちらりと見かけただけだったが、近くで見ても噂に違わず端正な顔立ちをしていた。釣り目がちの目はくっきり二重だし、長いまつげが影ができるほどかぶさっている。一般人レベルでなら美形といっても全く差し支えない。 昔もさぞかし美少年だったんだろうな、と想像すると思わず邪な妄想までしてしまいそうだ。同い年に生まれてしまったのが残念に思われる。義務教育以下の井森も見てみたかった! 不躾に見ているとさすがに目が合った。以前見たときは彼女(とはいえとっかえひっかえだという話を聞くけど)と一緒でなにやら楽しげに笑っていたのだが――今はやけに無表情だ。美形なだけやけに冷やかに見える。 機嫌が悪いのだろうか。何か言うのも野暮だと思ったので、テキトーに笑って視線をそらす。 「じゃあ、鳥越君のために我が中部会のメンバーを紹介いたしましょう!」 犬飼の言葉によって、俺の思考はそれ以上進展しなかった。まぁ、どうせ井森とは今後付き合う機会もないだろうし、俺が気にすることではない。俺は代打としての役目をしっかり果たさせてもらおう。 俺は軽く会釈して井森の隣に座り、まずは自分からと口を開く犬飼に「待ってました!」と拍手を送った。 反省すべきはいったいどの点だったのか。井森とは今後付き合うこともないと高をくくったところか。安請け合いをして「中部会」だなんていう訳の判らない会の飲みに参加したところか。 ちなみに中部会とは犬飼や井森たちが所属しているテニスサークルの中部地方出身の人間が集まっているらしい。今のところは二年生だけで、全部で十人らしい。俺ともう一人以外は地元の話で盛り上がっていた。 俺は何も悪くないはずだ。強いて言えばその盛り上がっていなかったもう一人、井森が悪い。誰が考えてもそうだ。 「本当にごめん!」 パン、と両手を合わせて、犬飼が頭を下げる。もう何度も見た動作だ。嫌に弱気なのは酒気のせいなのだろうか。ここが路上だということも忘れているらしい、人目もはばからず頭を下げ続けている。いくら深夜とはいえ終電を控えた駅の前にはまだ人影があった。 俺は何度も返した答えを、繰り返し言う。 「犬飼は悪くないって」 本当に悪くない。そう思っている。むしろ犬飼は十分すぎるほど幹事としての役目を果たしている。それをさらに責めるというのは筋違いだろう。 「誰だって飲み過ぎることくらいはあ」 末尾まで言う前に肩のものがずり落ちそうになったので、引き上げることを優先させる。細身とはいえ俺より背の高いやつが寄りかかっていると重い。おまけに意識がないもんだからまともに立ってくれない。 長めだから赤めの茶髪が遠慮なく頬にかかる。居酒屋のにおいが染み付いて酒臭い。というかやつ自身がスモーカーなのでタバコ臭い。俺の好きな子供の石鹸とか飴玉の香りとは縁遠い臭いだった。俺の肩に張り付いている巨大な塊の正体は――酔って眠っている変わり果てた井森だった。 いくらきれいでもでかい男にときめく趣味はない。不快指数はかなりマックスに近かったが、だからといって女の子にこれを託すわけにはいかない。 中部会のメンバーはほとんど女の子で、今回の飲みにも男は俺と井森と犬飼しかいなかった。だが犬飼は家が遠い(下宿先の親戚の家が近くないらしい)。ここから井森の電車賃を自腹で払えば無視できない額になる。 しかも幹事だから犬飼は今回の飲み代をみんなよりも大目に払っていた。ここでさらに井森まで押し付けるのは酷な話だろう。そんなこんなで消去法で俺が面倒を見るしかないということになったのだ。 部屋を散らかしたまま来てしまったのでむしろ酔ってくれていた方が好都合。ロリショタ系キャラグッズを見られてもいくらでもごまかしが利く。俺は腹をくくった。 「ほら、終電逃すぜ」 日付は変わりかけている。家が遠いから終電も早い。犬飼が終電を逃したら更なる一大事だ。 井森に加え犬飼も泊めることになったら……。意識のはっきりしている相手をオタク丸出しの部屋に泊められるほど俺の肝は据わっていない。犬飼は幼さを残すショタ系の顔で、井森よりよっぽど好みではあるんだけど。 「俺には犬飼がちゃんと帰れるかどうかの方が心配だよ」 「大丈夫だよ」 犬飼は少しむっとした様子で唇を尖らせる。それは本当だろう。井森の件でだいぶ酔いも覚めてしまったようだし。 「なら早く行かないと」 俺が重ねて言うと、犬飼はようやく観念してくれたようだ。まだ遠慮がちにだが、「うん……」とうめいて首を縦に振った。 「よろしくな?」 そう言って背を向け、心配そうに何度も振り返りながら、犬飼は駅の構内に入っていった。あんなに可愛い子(男に言うのは語弊のある言葉だが)を心配させて、井森はつくづく罪作りな野郎だ。今回はいつもとは違う意味で困らせてるんだろうけど。 だいたい、よろしくという言葉は犬飼からではなく井森から聞くべきなのだ。当の本人は眠りの中で未だ目覚める気配はない。幸いなのは呼びかければ反応があるということで、おかげで病院に連れ込む手間だけは省けた。 「おら、行くぞ井森!」 「おー……」 返事はするものの歩こうとはしない。半ば背負うような形で俺は井森を引きずる羽目になった。酔っ払いを見送る通りすがりの目は冷たい。 ……美形が台無しだな井森。お前がゲロったときはせっかくの女の子たちもドン引きだったぜ。 美形は男として鼻にかかるが、哀れな姿には同情を誘われなくもない。だから井森を俺の部屋に置くのはいいとして。 「こいつが寝ている間に俺は部屋を片付けないといけないんだよな……」 それが一番の憂鬱。俺のマイコレクション(あれ、重複してる)をどう収納しようか。ポスターだけでもすごいぞこら。 俺は俺の背中をベッド代わりに寝ている男を見下ろす。鼻息で赤い茶髪を揺らして、井森はゲーゲー吐いてたときとは違って穏やかな顔をしていた。 この様子なら放置してても起きないだろう。声をかけても起きないくらいだ(寝言で返事をするとは器用なやつだ)。時間は十分ある。おとなしく寝ていることがお前の仕事だ、よろしく頼むぞ井森。 心の中で頼みつつ(どーせ口で言ったって今のこいつには伝わらないんだろうから良いんだ)俺は歩き慣れた家路へ重たいお土産を一つ担いで向かっていった。 |