[預かり物]
3.ギブ・アンド・テイク?


 夜の底に沈んだアパートは、まるで難破船のようだった。錆びた階段に足をかければ、沈む。今にも壊れてしまいそうな悲鳴を上げる階段に足を載せたまま、白崎は一番下の段で硬直していた。
 俺はなかなか上ってこない白崎を見下ろす。「早く来いよ」と急かす。アパートの横にぽつんと立っている街灯の中で、白崎は弱々しく首を持ち上げた。
「これ、壊れないか?」
 嫌そうな声を上げる。確かに、初めはぼろぼろの吊り橋を渡るような恐怖を覚える。だけど実際に壊れた試しはないし、二階に住んでいる俺は毎日この階段を上り下りしている。多少嫌な音がすることをのぞけば、通行に支障はないのだ。
 階段を上りきって、もう一度振り返る。白崎は何度か足に体重をかけるが、鉄板がきしむたびに足を下ろす。嫌いな野菜を食べられずにつついているだけの子供みたいだ。俺は会談の前に屈み込み、手を叩く。
「はいはい、俺はここですよ〜、怖くないから上がってこようね〜」
 母親が赤ん坊に呼びかけるみたいに言う。白崎の視線が険しくなった。馬鹿にされたのが判ったらしい。先ほどとはうって変わって勢いよく階段を駆け上る。長い足で一段ずつ飛ばす。かしましい音が階段のそこら中から鳴り響いた。
 あっという間に俺の横に立って、白崎は俺を見下ろす。笑いながら「早いじゃん」と言う俺の言葉を無視して、仕返しと言わんばかりにすねを蹴りつける。軽く小突かれた程度だが俺は大げさにしりもちをついた。白崎が吹き出す。
「まったく、廃墟かと思ったぜ、このアパート」
 大家さんに失礼なことを言う。大家さんはアパートのすぐ隣の家に住んでいて、静かな夜ともなれば、外の会話は聞こえてしまうのだ。
 年代は恐ろしく古いわけではない。ただ単に外装を新しくしないからいけないのだ。時折ペンキを塗り替えているおじさんを見かけるが、一人で作業しているので、業者などではなく大家さん自身なのかもしれない。一人では当然塗りきれず、中途半端な箇所だけが白くなっていた。それが一層壁の汚さを強調する。
 俺の部屋は奥から二番目。観葉植物や洗濯機が置かれた玄関を通りすぎる。俺の部屋の前には何も置かれていない。鍵を開け、閉まりの悪いドアを強めに引く。木が割れるような音が鳴った。
 白崎がまた顔をしかめる。どうせぼろいドアだとでも思っているのだろう。放っておいてくれ、必要最低限使えれば良いんだよ。
「あ〜、疲れた」
 ぼやきつつ玄関をくぐり抜ける。出勤は朝だったのに、気付けば帰宅時間は昨日とそう変わらない時間になっていた。レイの様子を見るために一度家に帰ってきたので、本日四回目にくぐる玄関だ。
「お疲れさま」
 後ろから白崎が入ってくる。途中大学に行くため、抜けていた白崎は、俺よりはましな顔をしていた。
 加賀谷さんが駄目ならと、俺が助っ人に呼んだのは、白崎だった。聞いてみたら白崎も家で猫を飼っているとのことなので、呼んでみた。といっても状況は俺と同じで、世話は他人に任せきりらしい。助っ人として役に立つかどうかは判らないが、こうなったら、『一人よりも二人』の精神である。
 狭い家の中、でかい図体の白崎を入れるのはかなり窮屈だ。白崎は長身を少し屈めて玄関の中に身を押しやる。「おじゃまします」の後に「狭いな」とつぶやいたのを俺は聞き逃さない。白崎が俺の部屋を見たいとぬかしやがったのでとりあえずつれてきたけれど、やはりよせば良かった。
「悪かったな」
 つぶやきで返して、自室に向かった。白崎はと言うと、やたらキョロキョロ部屋を見回しながらついてくる。人の家をまじまじと見るなと訴えたかった。もうちょっと片づけておくんだったと後悔する。片づけるスペースすらない状態なので、まずはそこから考えなければいけないが。
 部屋の中央にはレイの入ったケージがある。レイはお休み中だった。毛が室内に落ちないようにと敷いた新聞紙は、爪を研いだのかケバケバになっていた。
「レイ?」
 呼ぶとすぐに目を開け、俺の顔を見る。青い瞳の奥で瞳孔が細くなる。おかえりの鳴き声を上げることもなく、ケージの入り口を引っ掻き始めた。俺は少し後ずさる。開けるの怖いんですけど。
 しかし明らかに苛立っているのが判るので、開けてやることにする。俺が仕事の間、野放しにしておくのも怖くて、ずっと入れておいたんだ。こんな狭いところに押し込められていたら俺だって嫌だ。
 引っ掻かれることを覚悟で入口を開けると、案の定レイは飛びかかってきた。
「うわっ!」
 それを何とか抱きかかえ、ウーウー呻るレイを押さえつける。
「レイ、ごめん、ただいま」
 どうにか落ち着いてもらおうと、誠意を込めて言ってみる。レイが俺の頬をなめる。ほんの少し伝わってくれたのか、レイは爪を引っ込めてくっれた。
 レイの姿が消えたかと思うと、それは上に浮いていた。レイの警戒する声と一緒に、白崎の「雄か」という声が上から降ってくる。
「しかも発情してない? これはまた大変な物を預かったね」
 それを言うなら、大変な人物に預かられたんだと思う。俺なんかに託されて、レイも良い迷惑だろう。飯もろくに食えないし……って、そうだ、飯。
 俺は肩に掛けていた鞄の中を探り、帰りがけに飼ってきたキャットフードを出す。得売り用の大きいやつを買ったので、カバンの中はぱんぱんになっていた。白崎がおごってくれるというのでお言葉に甘えた。レイに良い物を食わせてやりたいとは思うが、何しろ本格的なことは何も判っていないのでとりあえずだ。
 餌のにおいをかぎつけたのか、レイはひらりと白崎の腕から逃げ出した。身体を伸ばして腕の中をすり抜ける。軽く後ろ足で跳躍し、床に着地した。そして俺にすり寄ってくる。
 現金な奴だ! でも結構可愛いかも。首の下を撫でてやると、レイは喉を鳴らした。
 レイを腕に抱えながら、俺は台所に移る。流し台の横には昨日もらった紙袋が置いてある。器とかが一式入った袋だ。
 飯用の器はピンクと水色の二つ。多分片方が水用で片方がキャットフード用なのだろう。どっちがどっちか判らないので先に触れた方を手に取る。一応洗っておいた方が良いか。
「白崎、皿洗って」
「はいはい」
 俺の命令に白崎は両手を上げて答える。うむ、つれてきて良かった。洗剤をスポンジにたらし、簡単に皿を洗う。軽く水気と取って白崎は机の上に皿を置いた。なかなか手慣れている。
「白崎も一人暮らしなのか?」
 少し意外に思えて、思わず聞いた。「そうだよ」白崎は即答する。「大学3年から始めたばっかり」
 その割には、あまりバイトに顔を出さないような気がする。俺は生活費の為に、日夜バイトに励んでいたものだが。大学生の頃は学費のために今よりもずっと精一杯だった。
 返ってきた答えは、とてもうらやましいものだった。
「親がお金持ちだからね」
 聞くんじゃなかったと後悔する。
 乱暴にキャットフードの袋を開け、器に流し込む。まだ途中なのに、レイはイスに飛び乗り、机の上に飛び乗った。飯にありつける瞬間を今か今かと待ちかまえている。
 俺が手をどかすと、レイは一気にがっついた。机の上にいっぱいこぼれる。あんまり掃除してないから、机の上とはいえ汚いぞ。拾い食いするなよ? レイが食べる前に落ちたキャットフードを回収して、三角コーナーに投げ入れた。
 めざとくそれを見つけたレイが、俺の動きを追う。しまった、後でこっそり捨てておくべきだった。後悔してももう遅い、遅いから後悔というのだ。
 レイの身体は、跳んでいた。腹が減っていたはずなのに素晴らしいジャンプ力だ。それとも、腹が減っているからこそなのだろうか。狭いからさほど距離はないとはいえ、レイは机の上から流し台まで、ひとっ飛びでたどり着いてしまった。
 俺がキャットフードを捨てた三角コーナーに足をかける。三角コーナーには卵の殻とかトマトのへたが入っていた。その中からキャットフードを探そうと、レイが三角コーナーを器用に傾ける。
 レイにはそこまで器用なことはできなかった。手前に倒しすぎた三角コーナーはあっさりとひっくり返る。しかも、レイの身体にすっぽりかかる形で。
 当然、レイの身体は生ゴミまみれ。あまり見たくない生ゴミの鎧に身を包み、レイは力無く「ナー」と鳴いた。

 白崎が華麗な手つきで携帯電話のボタンを押す。手慣れているのが判る。素早い動きだ。俺は携帯電話なんて金のかかるもの、当然持っていないが。
 携帯から微かに聞こえてくるコール音。俺はレイが汚れたままどこかへ行かないよう見張りながら、白崎の横顔を眺める。鼻が高くて、ちょっとだけ彫りが深いのが見て取れる。典型的な日本人顔の俺としては少し憧れるところだ。
「もしもし?」
 コール音が止んで、電話の奥から微かな雑音が聞こえると、白崎は独り言みたいに喋り始める。道を歩きながら電話している人間を見ると、一瞬独り言を言っているかのように見えてびっくりする。携帯から聞こえてくる女性の声と思しき高い音が、かろうじて白崎が電話をしているのだと認識させる。
「あのさ、今うちの猫が生ゴミかぶって大変なんだけど、猫の風呂の入らせ方って知らない?」
 猫ってどうやって風呂に入れるんだろう。俺たちの苦難はそこから始まった。
 猫を飼っていた実家に聞くのは却下だ。実は交通費とかの関係で、実家を出てから一度も帰ったことがない。そんなところに猫の飼い方を聞きに電話を入れたら、怒鳴られること間違いなしである。
 仕方なく、ここでも白崎に頼ることになってしまった。交友関係の広い白崎に頼んで、猫を飼っていそうな知人に電話をかけてもらっている。先ほどから相手が女ばかりなのは気になるところだ(ぶっちゃけうらやましい)。
 白崎が「ちょっと待って」と断って、受話器を放す。無言で指を動かした。箸を持つような手で、手を振る。少し考えてから、物を書くジェスチャーだと気付いた。
 俺は電話の傍に置いてある鉛筆立てから、芯の折れていない鉛筆を一本抜きだし、玄関横に積み上げられているチラシを一枚とってきて渡す。大して動かなくても色々な物が取れるのは、狭い家の利点だ。
 白崎は何かをチラシの裏に書き殴った。つやつやした素材の紙に、鉛筆はあまり濃く映らない。白崎も書きにくそうに鉛筆を押しつける。シャーペンのシンを出すように、鉛筆の先を押しても、当然変わりはない。すみませんね、このご時世に鉛筆で。鉛筆は経済的なんだよ。
 最後に、「ありがとう」と言って電話が切られる。白崎は疲れたように携帯を閉じてため息をついた。
「女の子の甲高い声を聞いていると、何かを吸収されるような気がする」
 呟きながらチラシをよこす。それは判らなくもない。実家の妹たちのおしゃべりは、聞いているだけで疲れてくる。俺は苦笑しながら、チラシを掴んだ。
 薄い字だが、綺麗なので何とか読めそうだ。蛍光灯の光に字が輝いて読めないので、自分の頭で影を作る。
 えーっと、耳に水が入らないよう首から下を洗う。低刺激シャンプーを使う。体はタオルでよく拭いてあげる。何だか面倒くさそうだ。少なくとも、シャンプーはない。もしないとダメなら石けんで我慢してもらうしかない。とりあえず水で流すくらいはするか。
「猫は基本的に外に出してないなら風呂に入れなくても良いらしいぜ」
 それは便利だ。水道代が浮く。でも家の中にだって汚れる危険は潜んでいるようだ。なぁ、レイ? 俺が瞳をのぞき込むと、レイは小さく鳴いた。
 猫の飼い方って意外と大変なんだ。実家ではほとんど世話をしなかったので今さら思い知る。せめてレイがもう少し大人しくしてくれればいいのだが。俺一人では対処して良いか判らない。
「今日は白崎つれてきて本当良かったわ。助かった。今度、お礼に飯でもおごるよ」
 皿も洗わせたし、思いの外こき使ってしまった。きっと普段俺よりも良い飯を食っているであろう白崎に、俺のおごりが嬉しいかどうかは判らないが。
 白崎は「別に良いよ」と苦笑しつつ首を横に振る。どうせ俺の財布の心配でもしているのだろう。生意気な奴め。先輩として、礼をしないわけにはいかないのだが。
「それよりも俺は」
 白崎が腰を浮かせる。少し移動して、俺のすぐ側に座った。元々近かった距離がゼロになる。腕と腕がぶつかった。
 間近で見ると、白崎は迫力があった。たまに若い女の子がバイトで入ってくると白崎を見て騒ぐのだが、気持ちはよく判る。加賀谷さんはどこか世間ズレしていて、他の子と一緒に騒いだりすることはなかったが。
 男の色気というのは、白崎から発せられている雰囲気とかを言うのだろうか。不意にした動作が何故か目を引く。引き寄せる何かがある。フェロモンと言った方が正しいのか――。
 ぼんやりと考えていると、白崎はいなくなっていた。代わりに肌色の何かが視界を覆う。それが白崎の顔だと気づくまでに、数秒の時間を要した。
 近いよ。ぶつかるよ。頭をよぎるが、その心配は無用だった。既にぶつかっている。
 唇と唇が。
「――っ!」
 俺は声にならない声を上げる。どちらにせよ、口は塞がっているのだから何も言えない。目の前がだんだん暗くなっていく気がした。手足が抵抗することを忘れている代わりに、心臓が暴れ回る。
 白崎の唇は意外と厚くて、柔らかい。男の唇は硬そうなイメージがあったけれど、実際にキスするとそうでもないのだという、どうでも良い発見をする。
 唇が離れる瞬間、吐息を感じた。喉の奥からクツクツと声が聞こえる。笑ってやがるのだ。なんだこいつ、人に勝手にキスしてきておいて、失礼な。
 俺は腹が立って、自分から顔を近づけてやる。驚いたような白崎の顔。
 ゴッといい音が鳴る。白崎が後ろによろめいた。俺は額をさすって顔をしかめる。
「この石頭ー。ちくしょう、笑いやがって!」
「だってキスの最中息してないから。死ぬよあんた」
 子供扱いするように、俺の頭を軽く撫でる。キスの経験はあっても男からのキスは初めてだよ。そりゃびっくりするだろう。
 白崎の方は、とても満足げに笑っている。目尻が垂れ下がって、溶けてしまいそうな笑顔だ。普段この笑顔を見たら俺もつられて笑ってしまうのだろうけれど。俺をからかう代償に笑っているのかと思うと、むかつく。
 俺は下唇を強く噛んで、白崎の足を蹴り飛ばした。頭突きだけでは足りない。
 当の白崎に反省の色はないようで、蹴られた足をさすりつつも笑顔は崩れない。あまりにも優しい微笑みについ誤魔化されそうになるが、そうは問屋が卸さないってんだ。
 俺は殺傷能力のなさそうな物――とりあえず手元にあったチラシを思いっきりぐしゃぐしゃに丸めて、白崎に叩きつける。小気味よい音を鳴らし、不格好な球体が、白崎の鼻にクリンヒットした。



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