[預かり物]
2.昨日の猫は今日の人


 朝日が熱い。東向きに寝ているせいで、日が昇ると顔面は目映い朝日に照らされることになる。クリーム色のカーテンは日に透けて白っぽくなっていた。
 俺は急速に眠りの世界から引き起こされる。意識は眠りと覚醒の間を彷徨っていた。起きようと思うのだけれど、目が開かない。生まれたての赤ん坊もこんな心境なのだろうか。よく判らないことを考えている時点で、まだ脳みそは眠っている。
 夢を見るわけでもなく、ただまぶた越しに届く光を見つめる。黒い赤が視界いっぱいに敷かれていた。頭を動かすと、枕の感触がある。人肌に触れていない部分はひんやりとしていて気持ちよかった。
 心地よさを求めて、無意識の内に寝返りを打つ。しかしそこには、望んでいた冷たさはなかった。あるのは硬い感触と生暖かい体温。顔に絹のような肌触りの何かが当たった。
 俺が今欲しいのはふかふかのヒンヤリとした布団なんだ。不服に思いながら目を開くと、そこは銀世界だった。
 銀色の糸が、川のように向こう側からこちらへ流れている。色は白がほのかに黒ずんだグレーだったが、朝日にきらめくそれは、まさに銀と言うにふさわしかった。
 綺麗だ。幻想的な川に手を伸ばす。手で梳くと、糸は絡まることなく指を通していく。つやつやで、シルクの布を触っているような感触だった。そしてヒンヤリしている。これはこれで気持ちいい。俺は川に頬を寄せた。
 川が蠢いた。向こう側へと引っ張られる。俺もつられて動く。川が上の方に上っていく。俺は重力には逆らいきれず、落ちるようにして転がった。二回ほど反対方向へ寝返りを打つと、また枕が俺の頭を支えた。
 今度こそ俺は重いまぶたを持ち上げる。光が一斉に突き刺さって怯んだ。ゆっくりと目を開く。やはり見えるのは銀世界だ。先ほどより少し遠ざかった。
 俺は身を起こして、銀世界を見下ろす。上から見てみると、大して大きくないのだということが判った。幅は人の頭ほど。長さは一メートルくらい。銀色の糸が幾重にも連なり、川のように広がっている。また動いた。
 俺は布団から身を出す。布団をめくると、肌色が見えた。突然現れた色。それがなんなのか、俺には判らなかった。おもむろに触れてみる。暖かい。予想だにしていなかった物体に、俺は頭の中が真っ白になる。
 これはまさか。――人間?
 勢いよく布団をはぎ取る。光の中にホコリが舞った。
 銀色の糸の下に続くのは、首。しっかりとしたカーブを描いてつながる肩。脂肪の代わりに筋肉がついた肩胛骨はくっきりと浮き出ていて、美しい凹凸を描いていた。
 向こう側を向いているが、体格的に明らかに男だった。下半身の方は……見たくない。引き締まった尻や足はむき出しだった。つまり、全裸。
 何なんだこれは。俺は夢を見ているのだろうか。夢だと信じたくて、周囲を見渡す。部屋の中には、タンスが一つに窓が一つ、布団も一つで人間も一人。タンスの前には昨日脱ぎ捨てた服がそのまま散らばっていた。今着ているのは、寝間着代わりにしている学生時代のジャージ。
 枕元に置いてある目覚ましは六時。今から起きれば今日の出勤時間には余裕だった。これが本当の時刻ならば。
 赤い目覚ましの針を見つめていると、唐突に電子音が鳴り響いた。同じ音が連続して四回鳴り、一拍間を置いて再び四回鳴る。単調でありきたりな音に圧されるようにして俺はしりもちをついた。そういえば六時に目覚ましをかけたんだった。
 スイッチを切ろうと思って、時計に手を伸ばす。触れようとしたところで、音が途切れた。正確には、違う音がかき消したのだ。
「うるさい」
 呟いたのは俺ではない。もっと低い声だった。それに被さるように、何かがはじけるような音。同時に鈍い振動が指先に伝わる。時計が急速に遠ざかっていった。回転しながら緩やかな弧を描き、床にぶつかる。
 プラスチックのフタが分離した。中から赤いアルカリ電池が飛び出す。エネルギー源を失った時計の音は当然消えたが、勢いは壁にぶつかるまで止まらなかった。鈍い音がして、こちら側に跳ね返る。床を転がってようやく止まった。
 目の前で起こった超現象を信じきれずに俺は硬直する。そして、ああこれは夢なんだと思った。
「飯くれよ飯。腹減った」
 耳元で声が響いて、俺は背筋を震わせた。低い声が耳から直接脳内に甘いエキスを注ぎ込む。俺の肩に銀色の糸が現れる。頬に触れるシルクの感触。振り返ろうとしたが、俺の身体に何かが巻き付く。胸と腹の辺りを何かが押さえつけている。目に飛び込んできた物が人間の腕だと理解した瞬間、俺は脳内で悲鳴を上げた。
 夢じゃない。腕の感触は確かに現実だった。裸の男は俺を後ろから抱きしめる形で捕らえている。「放せ」という言葉は口の中で消えた。
 男は俺の頬をなめる。ざらりとした舌の感触が唇の横を通り過ぎる。もう少しでキスするところだった。そのきわどさが余計に心臓の鼓動を大きくする。
 味わうように舌が動く。食われる。下世話な意味ではなく、言葉通りに、生命の危機を覚えた。
「離れろ!」
 怒鳴りつけると、男は驚くほど素直に身を離した。ふさふさした物が頬を撫でていく。俺は体が自由になると同時に振り返った。
 やっぱり夢なのかと思い直してしまった。少しつり目がちの瞳に埋め込まれた美しい青、長いまつげ。くっきりとした二重がなおのこと形のいい瞳を引き締めている。すらりと高い鼻は少し日本人離れしていた。綺麗な形をした唇の端は引き締められている。
 最高のパーツを収める輪郭もやはり最高で、俺は彼の容姿の欠点を見つけることができなかった。強いて言えば、綺麗すぎることが欠点だ。本当に人間なのかと疑う容姿。腰まで伸びる長髪と美しい銀髪が、余計に彼をファンタスティックなものにしていた。
 夢だと思った決定打は、彼の耳。通常顔の横についている、髪に隠れてしまう程度の小さな耳は、そこにはなかった。代わりにふさふさの毛に覆われた、上の方に伸びる三角形の耳がついている。形態は俗に言う「猫耳」に近かった。
 夢でなければ何だというのだ。可憐な美少女ならまだしも、成熟した男子が猫耳など……。男のロマンがガラガラと崩れていく音がする。しかも微妙に似合っているから手に負えない。
 彼は半ば目を閉じた状態でわずかにうつむく。それが妙に悲しげに見えて、俺はぎくりとした。
 彼の唇が薄く開く。何かを呟いた。しかし聞き取れなくて、耳を近づける。今度はハッキリと呟く。
「飯……」
 そして糸が切れたかのように、上半身が力を失う。身体がゆっくりと傾いた。慣性に従い、髪の毛が後ろに流れる。倒れる前に、俺は慌てて抱き留める。想像していただけの重みは感じなかった。
 おかしい、軽すぎる。そして、ふさふさしている。俺は視線を下に落とした。腕の中には、グレーの毛並みが収まっている。彼の青い目は閉ざされていた。
 小さな鼻の穴を開いたり閉じたりして、静かに呼吸している。丸まったからだが上下に動いていた。彼の動きが腕の中によく伝わってくる。灰色の猫が気持ちよさそうに眠っていた。
 俺はようやく、昨日猫を預かったのだと思い出した。名前は確かレイだ。うっかりレイをケージの中に戻し忘れて、疲れのあまりそのまま一緒の布団で寝てしまったのだ。おそらく、レイと一緒に寝たから、寝ぼけて変な夢を見てしまったのだろう。起きているように見えて、あれはリアルな夢だったに違いない。
 崩壊した目覚まし時計は、崩壊したまま床の上に横たわっていた。代わりに壁に掛かっている時計を見る。正確に時を刻んでいる時計は、七時を指し示していた。

 加賀谷さんが失踪したらしい。
 俺に猫を預けたあの女性だ。彼女が家族と共に失踪したという話を聞いたのは、その日の午後になってからだった。
 俺は愕然とした。俺と白崎の会話を聞いて、パートのおばさんが振り返る。何か言いたげに口を開きかけるが、悲しげに眉をひそめて、通り過ぎていく。休憩室を出て、職場の方へと戻っていった。
 白崎が言うには、加賀谷さんの家事情を知らなかったのは、俺くらいだったらしい。彼女にまつわる良くない噂は、もうずっと前から流れていた。
「親が会社起こして失敗して、借金大量に作ったらしいよ」
 タバコを吹かしながら白崎は言った。タバコを吸わない俺に気を遣って、彼は開け放たれた窓の外に向かって話している。
 外は住んだ青い色をしていて、雑然とした住宅地がその下に立ち並んでいた。住宅地との間には家一軒くらいは建つかもしれない、小さな空き地がある。フェンスで区切られた土地の中には草も生えておらず、茶色の地面をむき出しにしている。「ここは市の所有地です」という看板がぽつんとかけてあった。
 長身と端整な顔立ちのせいだろうか、タバコを片手に窓に寄りかかる白崎は絵になっていた。作業着と軍手と、黒い長靴も着こなしてしまうのが恐ろしい。軍手は持ち込みだが、他は会社から借りているもので、みんな同じデザインであるはずなのに。
 中肉中背の俺は別の意味で作業着がよく似合っている。つまり、顔立ち、格好、共にダサイ。背は平均以上にあるのだが、一八〇ある白崎と並ぶとどうにも見劣りした。
 大学生といっても彼はもう四年なので、俺と一歳しか変わらない。だから言葉もタメ口だし、職場では仲が良かった。アルバイトの初日から堂々と遅れてきて、それなのに誰よりもしっかりと仕事をこなす奇妙な態度が、気に入っていた。
 俺たちの仕事は「お花屋さん」だ。正確に言うと、花を出荷する工場でバイトしている。農家からトラックいっぱいに摘まれてきた花から傷物を選別し、綺麗な物だけを花屋に送る。
 加賀谷さんは今日、金曜日に出勤してくるはずで、俺はそれをあてにしていた。午後になれば彼女が来て猫のことが聞けるだろうと、のんきに構えていた。
 彼女が出勤していないと気づいたのは、いつもは遅刻しない加賀谷さんが、三十分時間を過ぎても来なかったからだ。そこで店員の人に聞いてみたら、昨日辞めたというからびっくりだ。後から来た、加賀谷さんと同じ大学の白崎に聞くと、大学までやめているという。
 夜逃げ、失踪。誰も加賀谷さん本人に確認したわけではないが、暗黙の了解として人々の間に伝わっていた。俺は加賀谷さんの姿を失踪直前の姿を見たというわけだ。
 理由を聞くのも忘れ呆然としていたら、白崎が先ほどの台詞を吐いた。
 借金といえば、家のローンくらいしか思い当たらない生活をしてきた俺だ。まさか知人がそんな大変な目に遭っているとは思いもよらず、俺はあのときのんきに対応するんじゃなかったと思った。
「柳葉? 何ボーっとしてんの」
 携帯灰皿にタバコを押しつけ、白崎が振り返る。近付くとわずかにタバコのにおいが鼻についた。
「加賀谷さんのこと心配?」
 少し身を屈めて俺の顔をのぞき込む。夢の中で見たあの男が「綺麗」ならば、白崎は「格好いい」。ごついわけではないが、しっかりとした体格に似つかわしい、精悍な顔つきをしている。この顔を生かしてサービス業に就かないことが不思議でならない。
「そんなんじゃないけど……」
 俺は白崎の視線から逃れるために顔を背けた。白崎の強い視線を受けると、見透かされているような気分になる。白崎はいつも人を観察するかのように、穴が開くほど見る。多分それが奴の癖なのだ。指摘したことはないから、奴自身は気付いていないのかもしれない。
 今いくら俺が心配したって、それは無意味でしかない。単なる同情だ。同情をもらったって彼女は何の得もしない。誰のためにもならないのだ。
 白崎は俺の肩をぽんと叩く。タバコを吸うために軍手を外していた。その手は大きく、うらやましいほど長い指をしている。
「気にすんなよ。今はお前、人に気遣えるほど良い身分じゃないだろ」
 俺のことを気遣ってくれているのはよく判った。白崎は加賀屋さんについて楽観的な意見を言うことはしない。彼もまたそんなものは無意味だと判っているのだ。現実だけを的確に教えてくれる。適切な助言に、俺はうなずいた。
 そうだ、心配している暇はない。俺だって家賃に光熱費に食費に、毎日を生きる為に精一杯なんだ。他人の不幸を哀れんでいる余裕があったら、手を動かさなければない。俺と白崎が話している間にも、やるべき仕事は増え続けている。
 それに俺の手には、加賀谷さんから預かった猫の命が託されている。せめてレイだけは助けてやろう。俺はそう思って、軍手を引っ張ってしっかりとはめ直す。
「よし、じゃあ仕事やるか!」
 少し高い位置にある白崎の肩を強く叩く。広い背中は、ばんっと良い音がした。白崎が口の端を上げて、同じように俺の肩を叩く。
 今朝の夢のことが気になったが、白崎がすぐに仕事に戻ってしまったので、俺は聞く機会を失った。どうせ夢は夢だ。俺は気持ちを切り替えて、色あせた青色のつなぎに覆われた白崎の背中を追う。



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