[預かり物]
1.やんちゃ坊主との対面


 廊下のひび割れた壁を見ると、どっと疲れが増す。いかにも寂れたアパートは、疲れ切った俺の姿を目にしているかのようだった。二階建てで、築二十五年といったところか。年の頃も俺と近い。
 玄関を入ったとたんに兼用のダイニングとキッチンがある。玄関のドアから入り込む街灯の光が、銀色の流し台を鈍く照らす。リビングはない。他には部屋が一つあるだけの、至極狭い一室だ。
 俺の職業はフリーアルバイターだから、こういう安アパートしか借りられない。大学を卒業したは良いが、就職口もなく、何とかバイトで食いつないでいる俺にしてみれば、この安アパートに住めること自体が幸いだった。
 故郷を捨てて関東の大学に入学してから早5年。今更実家に帰ることは出来ない。そんな意地もあって、俺は今日も今日とてバイトに出ていた。
「はぁ〜……」
 労働の割に賃金の安い仕事を終え、ようやく家に帰ってきても、迎える者がいないのは当然で。第一に視界に飛び込んできたのは、天井から中程まで下りる大きな亀裂だった。
 観念して、ドアを閉じた。無人の室内と屋外には大した温度差はない。後ろ手で鍵とチェーンをかける。背中を丸めて靴を脱ぎ捨てた。どうせ誰もいないから整える気にもならない。
 一人、というのが誇張されて、妙に寂しい気分になった。余計に疲れる。俺はわいわい騒ぐのが好きなんだ。ルームシェアでもすれば良かったと後悔するも、遠い田舎から同じ場所に出てくる友人はいなかった。
 小さな玄関に使い古されたスニーカーを取り残し、電気を付ける。明かりが点くと、シミだらけの白い壁が浮かぶ。ヤニで黄ばんでいるのは、俺のせいではない。タバコは吸わないからだ(吸う金がないのだが)。おそらく前の住人が残していった汚れだろう。
 汚いけれど掃除するヒマも金もない。なるべく見ないようにして、正面のダイニング兼キッチンを通り、自室に入った。
 布団はすでに敷いてある。家では寝るだけなので、敷きっぱなしだ。梅雨の時期は湿気に耐えかねて、さすがに畳んだり晴れた日に干しておいたりするのだが。
 俺は布団に寝転がり、一息つく。やっと一日が終わった……。感慨深く天井を見つめた。バイトずくめの毎日である。同じ事の繰り返しで、神経がどうにかなってしまいそうだった。疲れきった目を覆い、寝返りを打った。
 服を着替えなければ。理性が命令する。私服のまま寝ると無駄に疲れて十分に休めない。眠気がやってくる前に起きあがると……同時に、チャイムが鳴った。
「誰だ?」
 眉をひそめる。俺の家では九時以降の訪問と電話は失礼だと教えられたので、九時をとっくに過ぎた現在にチャイムが鳴る理由が判らなかった。
 知人は最近押し掛けてこない。俺も相手も忙しいし、来たって家に上げるだけのスペースもない。こんな時間に勧誘か何かだろうか。短い廊下を歩きながら考え、ドアののぞき穴をのぞき込んだ。
 湾曲したレンズの中には、意外にも若い女性が立っていた。黒くて長い髪にピンク色のカーディガンを羽織っている。同じ所でバイトをしている女性だった。現に先ほどまで共に仕事をしていた。だからか、こんな遅くに訪ねてきたのは。
 寝転がったせいでシャツの裾にしわがついている。それを手で叩いて整え、すぐさま鍵を開ける。着替える前で良かった。
「どうしました?」
 ドアの隙間から顔を出すと、その女性はハッと顔を上げた。
「夜分遅くごめんなさい、柳葉さん」
 高くて澄んだ彼女の声は聞きやすかった。大人しい性格でなければ受付係として重宝されただろう。あまりにも申し訳なさそうに繰り返すので、「いえいえ」と答える。
 彼女は何を思っているのか顔を歪めていた。何だか辛そうな雰囲気がひしひしと伝わってくる。俺は思わず息を飲んだ。
 とりあえず上がるように進め、チェーンを外す。彼女は顔の前で手を振り、急いでいるので玄関先で良いと言った。それにそうだ、一人暮らしの男の家に簡単に入っちゃいけないよな。俺が浅はかだった。
「お願いがあって来ました」
 彼女は唐突に口を開いた。覚悟ができていなかった俺は聞き返した。彼女は答えず、話を続ける。
「この子を預かって欲しいんです」
 がしゃんと音がする。視線を下に落とすと、彼女はケージを持っていた。あの、ペットを入れるやつ。俺も実家では猫を飼っていたから見たことがある。
 ピンク色の柵に似合わず、中ではまだ若い猫が暴れ回っていた。白に近いグレーの猫だった。毛並みは綺麗だが、何の種類なのかはよく判らない。
「柳葉さん、確か猫を飼ったことがあるとおっしゃってたから」
 彼女の言葉に、顔を上げる。おいおい、それはまさか。
「この子を預かって欲しいんです」
 彼女は、もう一度繰り返した。
 俺は目を覆う。ああ、確かに飼ったことがあるよ。猫は嫌いじゃない。だけど俺は一人暮らしで金がないんだ。生き物を飼う余裕はハッキリ言ってあるわけがない。
 しかし、指の隙間から彼女を見ると、そんなこと言えるような雰囲気じゃなかった。今までここまでせっぱ詰まった人間の顔は見たことがない。もう後がない、と言うような顔をしていた。
 多分、今までにたくさん断られてきたのだろう。大して面識もない俺の所に来るくらいだから。きっと、彼女だって俺の生活ぶりを理解しているはずだ。それでも来たのだから、俺まで断ってしまうのははばかられる。
 お人好しなのかな、俺。
「――判った」
 気づいた頃にはうなずいていて、手には猫の入ったケージを握りしめていた。その手をさらに女性の両手で覆われて。
「ありがとうございます!」
 満面の笑みで言われては、文句は言えなかった。

 彼女は猫を飼う為の道具が一式入っているという紙袋を俺に渡し、何度もお辞儀をした。「これから、ちょっと遠くへ行くので」彼女が話した事情は、それだけだった。
 行き先を聞いたら彼女はとたんに口ごもった。帰ってくる日も決まっていないらしい。俺は再び理由を問いかけそうになったが、慌てて口を閉じた。
 猫の方は、預かり手が見つからなかったら処分することになっていたと彼女は言った。主人の言葉に反応してか、ケージの中の猫が鳴く。
 ――捨てるわけにはいかないから。切ないペットの運命だ。
 用が済むと、彼女は速やかに別れを告げた。慌ただしく階段を下りる音が、ちょっとやかましく響く。よほど急いでいたのだろう。スカート姿にも関わらず、彼女は駆け足でアパートの前の道を抜けていった。
 俺は彼女の後ろ姿をひらひら手を振りながら見送って、ちらりとケージの中を見る。ビー玉みたいに青くて丸い目が俺を見ていた。
 ……これからどうしよう。俺の頭の中には、でかでかとその文字が浮かんでいた。猫を飼っていたと言っても、世話をしていたのはほとんど親だ。寝床やトイレの掃除くらいは自分でやったが、エサとかは全然判らない。
 そもそもこいつの名前は何なんだ。中の猫が目を回さないように、ゆっくりとケージを回す。入り口の所にプレートがあった。
 文字を読もうとして顔を近づけると、猫がさっと飛びかかってきた。もちろんケージの中では何の意味もないのだが、俺はびっくりしてケージを顔から遠ざける。ケージが大きく揺れて、猫はケージの底に鋭い爪を立てた。プラスチックを削る甲高い音が鳴る。耳の奥にしつこくからみついてくる音に、ぞわぞわした。よく判らないけれど不快だ。
「ご、ごめん」
 片手を添えて、ケージの揺れを押さえる。揺れが収まると、猫は俺の方に向き直った。毛を逆立てて低い音を出す。怒っているのは明白で、ケージ越しなのに俺は怖くなった。俺は引きつった笑みを浮かべながら、こっそりプレートに視線を移す。
 アール、エー、ワイ。「レイ」と書いてあった。
 俺はとりあえずケージを持って部屋の中に戻る。レイが暴れるのでケージは揺れまくった。運びにくい。部屋の中に持っていくのは諦め、玄関に置く。先に鍵とチェーンをかけた。今度こそ今日は誰も来ないだろう。
 レイに向き直ると、レイは不思議なほど大人しく丸まっていた。細身の身体を曲げて、しっぽを揺らす。さすがに疲れたのだろうか。あれだけ暴れていれば無理もない。俺はほっとする。
 ケージの入り口を開けてみる。レイがパッと入り口を見た。とても俊敏な動きだった。待ってましたとのごとくにケージを飛び出す。
 疲れている? どこがだ! 俺はレイが外に出してもらうために猫をかぶっていたのだと気付いた。俺はまんまとだまされたのだ。猫にだまされるなんて悔しい。
 レイは一目散に俺に駆け寄ってくる。まさに猫まっしぐらだ。後ろ足と前足を交互に前へ突き出し、跳ねるようにして跳ぶ。レイのジャンプ力はなかなかのもので、立ち上がった俺の懐に潜り込んできた。
 レイの鋭い歯がむき出しになる。間近で見ると結構怖い。口が大きく開けられ……俺の指にかぶりついてくる。
 肉を裂いて歯が突き刺さる感触。その後に痛みが襲いかかってきた。指の神経を伝い、手首や腕の方にも痛みが響いてくる。
「いってぇ〜〜!」
 思わず振り払い、レイが宙に舞う。レイの体は思いの外軽くて、天井近くまで投げ出されてしまった。
 レイの身体がゆっくりと落ちていく。見開いた俺の瞳に、回転しながら地面に近づくレイが映りこむ。飛び出しかけた俺を後目に、奴は綺麗に着地してみせた。安心半分、力が抜ける。
 まったく、こいつは雄だったのか。しかも、発情期だ。発情期の雄は、雌がいないと、こうして人間にかみついてくることがあるらしい。俺の家の猫も雄で、発情期にはやはり噛まれた。
 くそぉ、やっぱり後先考えずに預かるんじゃなかった。俺は頭を抱えて呻った。とりあえず明日、預け主に助けを求めよう。確か明日も彼女はバイトに来るはずだ。俺の場合はほぼ毎日バイトに行っているのだが。食っているエサとか、思えば何も判らなかった。
 とりあえず今日は寝てしまいたい。
「レイ」
 寝るぞ、と呼びかけると、レイは俺の足下にすがりついてきた。また噛まれるのかと思って、反射的に半歩下がる。レイのしっぽを踏みそうになって、よろけた。
 レイが爪を立ててズボンを引く。爪の感触が布越しに伝わった。軽くぶら下がってきて、重みでズボンが少しずり落ちる。ベルトのおかげでそれ以上は動かなかった。
 このままでは動くに動けない。俺は屈んでレイの爪を一本一本取る。血の出ている指をかばうようにして、右手だけを動かすが、思うようにいかない。仕方なく人差し指だけかばって左手を差し出す。人差し指の半ばから血の玉が吹き出し、はじけて流れた。とたん、レイがパッと離れる。
 一体何が起こったのか判らなかった。とにかくレイの動きは俊敏で、気がついたら噛まれた左手は再びレイの口の中にあった。わずかな痛みが指の間接に響く……が、すぐに噛まれているわけではないと気付いた。
 レイが傷をなめている。血を吸い取るようにして吸い付き、飲み込む。小さな舌が肌を撫でた。
 もしかしたら傷つけたことを後悔しているのかもしれない。猫がそんなことを考えるのかは知らないが、そう思うと、結構可愛い奴だと思えた。
「もう良いよ、レイ」
 そう言いつつも嬉しいので、レイが傷口をなめるのを眺めている。そう小さいわけではないと思うが、指をしゃぶるレイは、ほ乳瓶を吸う赤子のように幼く見えた。



モドル   Next→