[友人以上]
指先の体温・後 手袋はいったい何の意味があるのかと思ってしまう。防寒代わりに付けた軍手を無意味に引っ張りながら、俺は相変わらず冷えていたい指を曲げたり伸ばしたりする。感覚の鈍った指の動きは鈍い。痛みだけがいっちょ前に自己主張を続け、俺の手にじんじんとまとわりつく。手袋ごしでは、息を吹きかけても何も伝わってこなかった。 「寒い」 直行の背中に訴えかける。別に寒がりというわけでもない。俺の場合二の腕から下の部分が暖かければ、基本的に薄着でも大丈夫なんだ。逆に夏はそこが涼しければいい。 残念ながら、学ランの下にセーターを着込んでも、肘から下の部分はあまり暖かくならない。袖からは冷たい空気が入り込んでくる。腕を振って歩く気にもなれなくて、俺は両手を汲みながら歩いていた。 ポケットに手を突っ込みたい。そうすれば指先も暖かいし、手首から冷たい空気も入ってこない。そう思いながらも、転んだ幼い記憶を思い浮かべると、自然と手は上に上がってしまう。 近付くコンクリートの地面、腕が動かない恐怖。ぶつかると判っていながらも、俺の手は地面につくことができなかった。ぶつかったときの衝撃、鼻がしらに走る痛み。頭を打ったときの嫌な感覚を思い出して、俺は鼻がしらを撫でた。 直行が振り返った。少し長めの髪が頬にかかる。襟足にかかる髪は暖かそうだった。俺も髪を伸ばそうかと思ったが、似合わないことに気付きすぐに諦めた。スポーツ刈りとまではいかないが、無難に短く切りそろえている。 「俺の家に寄る? 何か温かい飲み物でも出そうか」 俺と直行の家はかなり近いが、中学校からだと直行の家の方が近くにある。直行の作る、暖かいレモン味のドリンクを思い浮かべると、それだけでも暖かくなる気がした。首を横に振って、俺はその考えをうち消す。 「いいよ、大して距離は変わらないだろ」 その程度の理由でお世話になるわけにもいかない。直行の家は共働きだから、いつもどこか慌ただしい。テレビものんびり見ないし、食事も風呂も急ぐ。直行の家に行くよりも、直行をうちにつれてくることの方が好きだった。不服ながら母もとても喜ぶのだ。 だけど今はそのどちらもできない。中三のこの時期、もうあまりのんびりはしていられないのだ。部活ももうなくなったから俺と直行は毎日一緒に帰るようになった。一つ一つが受験に向かっているのだと時間させられる。直行は余裕かも知れないが、俺は焦り始めていた。 お互い受験のことなど直接口には出さない。それでも、どこかに遊びに行こうという発言を意図的に避けているのが判る。最後に出かけたのは初詣か。もちろん俺は合格祈願をした。 高望みはしなかったつもりだ。それでも自信がもてない。俺は自分の指がさらに冷えていくのが判った。 腕を掴まれて、俺ははっと顔を上げた。気がつけば直行がすぐ隣にいた、いつの間にか早足になっていたらしい。 「手、冷たくないか?」 いたわるような言葉がしゃくに障る。直行の中にあざ笑うような余裕を感じて、俺はカッとなった。見当違いな怒りだということは判っている。俺は何とか怒鳴りたい気持ちを抑えて、直行の手を振り払うだけにとどめた。 一人になりたいと思った。だけど一人は寒いんだ。冷えた指先では鉛筆なんて持てない。時間が戻ってほしい。遊ぶのも直行と一緒にいるのも当たり前だった時期に戻ってほしい。 「……直行ってどこの高校行くんだ?」 直行が言葉に詰まった。驚いたような声が隣から聞こえてくる。視線だけで横を見ると、形のいいアーモンド形の瞳が大きく見開かれていた。うっすらと開いた口から白い前歯がのぞく。 「今までそんなこと聞いてこなかったのに」 当たり前だ、個人の進路にとやかく言うつもりはない。そんなものは自分で勝手に決めれば良いんだ。どこへ行こうと俺にそれを止めることはできないし、止めたって意味がない。 直行とはむしろ離ればなれになりたいくらいだった。わざわざ遠めの学校を選んだのはそのためだ。うちの中学から同じ高校へ行く生徒は少ない。俺はどこかで直行とは進路が別れると確信していた。だからわざわざ確認することもなかった。一緒の高校でなければ、どこだって同じだ。 あるいは、幼馴染みという関係に安心しきっていたのかも知れない。どこへ行こうと直行が引っ越してしまうわけではない。直行は直行のままだ。 だけど俺は、やっぱり寂しかったんだと思う。指先の冷たさが、それを訴えている。気に入らないけど直行は俺の一番古い友達だ。自分から言うのははばかられるが、「親友」と言っても良いのだろう。 直行は口を閉じたまま視線を逸らした。手で口元を覆う。その奥に隠されている言葉の重みを、本能的に感じ取った。 「……遠くへ行くのか? 私立とか?」 直行の家は共働きのせいか割と裕福だから、それもあり得る。俺はいつの間にか開いていた大きな溝に愕然とする。自分で掘り進めたくせに、思わぬ深さに驚いた。 直行はなおも躊躇する。俺の方に視線を向けた。 「私立、受けるよ」 続けて言った校名は、かなり有名なところだった。偏差値が高すぎて俺ではとても受験できない。「そっか」俺は相づちを打つことしかできなかった。 制服のデザインも良いという噂だし、直行ならきっと似合うことだろう。近所だから見られる機会もあるかも知れない。でも登校時間が違うから会えないかも知れない。思考だけがどんどん先行していく。 「俺は、公立……受けるよ」 言葉をつなぎ合わせてみるものの、動揺しているのは明らかだった。声が震えて語尾がかすむ。震えているのは寒いせいだって、ごまかせるだろうか。言葉が出なくて、両手に息を吹きかけるので精一杯だった。 どうしてこんなにショックを受けているのだろう。自分でもよく判らない。ただ目元が異常に熱くて、視界が歪んできた。目の奥から訳の分からない感情がせり出してくる。 寂しくなんかないぞ。悲しくなんかないぞ。むしろ嬉しいくらいだ。がっかりなんかしていない。自分に言い聞かせてみても、きかん坊の涙は引っ込まない。判らなくて、だんだんイライラしてきた。 「知ってる、工業団地の近くにある所だろう?」 「なんで知ってるんだよ!」 八つ当たり気味に叫んだ。直行は顔をしかめるどころか笑っていた。どちらかといえば苦笑に近い。 「怒らないでくれよ?」 いや、別に怒っているわけではないけれど。申し訳ないとは思ったが訂正する気にはなれなかった。 怒鳴ったら少し気が楽になって、俺は目尻に浮かんだ涙を拭った。軍手のざらざらとした繊維が涙を吸い取っていく。寒さのせいか涙のせいか、鼻水が垂れてきた。 直行の歩調がゆるまった。また言い渋る。俺は自嘲気味に息をついた。 「怒らねーよ」 直行が口角をつり上げる。気乗りしないのは相変わらずのようだが、言う気にはなってくれたようだ。直行は道の先を見据えたまま口を開く。 「俺もそこ受けるんだわ」 俺は立ち止まった。ついでに先ほどの笑みもそのまま凍り付いた。直行も立ち止まって、おそるおそるこちらを見る。視線だけは泳いでいる。気まずいことがあるとき、目を合わせないのは直行の癖だ。 俺は肩を下げてリュックを下ろした。問題集が入っているおかげでずっしりしている。リュックを手にしたまま周囲を見渡す。見慣れた住宅地を横断するようにして伸びる道が、今俺たちの歩いている道路だ。道幅は、やっと車がすれ違える程度。 はるか後方に自転車が見えるだけで、周りに人がいないことを確認すると、俺はリュックを持ち上げる。勢いを付けて思いっきりぶん回した。 「うわっ!」 悲鳴を上げて直行が屈み込む。その頭上をリュックが通り過ぎていった。勢い余ってカバンから飛び出した筆箱が、直行の横を通り過ぎ、近所の塀に当たって、落ちる。 「ちょっ……! 避けなかったら当たって」 直行はそこで閉口する。俺はにっこりと笑った。 「もういっぺん言ってみろ、コラ」 直行なら判るだろう。俺がどれだけ怒っているか。心配した分だけ余計に腹が立った。少しでも寂しく思った俺が馬鹿みたいじゃないか。 いつもそうだ。直行は俺が知らない内に一番傍にいる。いつの間にか先回りして、待ち伏せしている。俺自身のことを俺よりも早く察知して行動してしまうのだ。俺が進路を決めるのにどれだけ悩んだと思っているのだろう。俺の最終的な決断を、いつから先読みしていたのだろう。 今回だって、俺が寂しくなるタイミングを見計らうようにして種明かしをした……。見透かされているみたいで吐き気がする。収まらないイライラを低い声に変えて、俺はあごを動かす。 「取ってこい」 直行ははじけるように飛び出した。クラウチングスタートのように素早い走り出しに思わず見惚れる。少し屈んで俺の筆箱を拾い、大股の一歩で俺の横に並んだ。筆箱を俺の手に押しつける。強い力で手を握られた。 直行は直立不動で目の前に立ちはだかっている。視線は真っ直ぐ俺の方を向いている。覚悟を決めたときの目だった。覚悟を決めたら、直行は誰よりも真っ直ぐ前を見る。 担任に反対されなかったはずもない。直行ならもっと良い学校を狙える。大学受験と違って、高校受験は受けられる学校数に限度がある。反対されるのも、俺が怒るのも、全部承知の上で、直行は決めたんだ。 俺はリュックの中に筆箱を押し込んで背負い直す。直行を押しのけて歩き出した。直行がすぐに追いかけてくる。 「本当にゴメン」 何で謝るんだ。俺は鼻から強く息を吐いた。 「悩んで、決めたんだろ。俺とかぶったのは仕方がない」 直行が高校を選んだ理由も何も知らない。ただ直行が考えてそれで決めたのなら、言えることは何もない。 「違うんだ」 一オクターブ高い、すがるような直行の声に、違和感を覚えた。細くなった喉の奥から無理矢理出されたような声は、泣き声にも似ていた。俺ですら見慣れない、直行の姿。俺は息を飲んだ。 「お前と一緒の高校に行きたかったんだ」 直行が俺の肩を掴む。痛い。頭の中が霧に飲み込まれたかのように真っ白になる。 自分の意志ですらないのか。大切な判断を放り出してしまうのか。他人に任せて、責任も他人に押しつけるのなんて最悪だ。まさか直行がそれをするなんて思いもしなかったから、俺は信じられなくて泣きそうだった。 確かに俺に判断を任せてくることはあった。でも実行するのはいつも直行だった。自分で責任を持って行動し、失敗しても不平不満を漏らさなかった。俺は直行を信頼していたのだ。 「離れたくない」 直行は俺の肩を引き寄せた。制服越しでは、直行の暖かさは全然伝わってこなかった。着ぶくれした制服の感触ばかりが肌に押しつけられる。 ――俺には怒る権利があったと思う。友人として、幼馴染みとして。それなのに言葉が湧いてこなかった。 離れなくても良いんだ。そう思ったら、気が抜けた。 俺は直行の制服に鼻を押しつける。教室の中にいたせいか、石油ストーブの臭いが染みついていた。俺の涙が染みついて、制服がほんの少し黒ずんだ。 泣き出したら止まらなかった。俺は別に泣きたく何かないのに。ずっと我慢し続けたものがせき止められなくなった。 ここ数ヶ月間、見えない感情にむしばまれていた。見慣れた奴らと離れていく不満、新たな生活への不安、受験の恐怖が全部ストレスになって、勉強に行き詰まるたびに俺を削っていった。勉強をしている最中にも怖くなった。本当に間に合うのか、合格するのか、考えたってどうしようもないことを考えていた。 不安を抱えたままでは何をしたって上手くいかない。自信を持った方が効率はいいと気付いていたけれど、直行がいなくなると思うと俺はとたんに気弱になった。心細くて、何のために頑張って良いか判らなくなった。 体の中からどんどん何かがあふれ出してきて、涙になった。直行は俺から体を離したけれど、もう一度抱きしめた。俺の背中を優しく叩いてくれる。 俺の中のダムは決壊した。それでいいんだ。ダムの代わりに、今は、直行が受け止めてくれるから。 泣いた直後の濡れた肌が、余計に体温を奪っていく。赤くなった頬を軍手で押さえながら、直行の背中にぴったりと張り付いていた。ほてった顔を見られるのは忍びない。 「受験って恐ろしいなー」 泣いた事実を誤魔化すように、呟く。 「何もかもが不安になる。もうちょっと早くに直行も同じ高校だって判ってたら、勉強とか聞いたのに……」 「そうしたら猛反対していたでしょうが、君は」 「そうだけど」 否定はしない。直行と違う高校に行きたかったのは事実だし、高校を選ぶ上での条件の中には「直行がいないこと」が含まれていた。 結局は結果オーライというやつである。そもそも人間というのは、どんな環境にも適応できる能力が備わっているのだ。直行がいてもいなくても、俺は何の支障もなく生活していけるだろう。どっちに転んでも、たぶん俺はいつか「これで良かったんだ」と思うに違いない。 「本当、どっちが前にいるか判らないな」 直行の黒い背中を眺めて呟く。三年間着込んだ制服は、生地の表面が白くてかっていた。直行が身をよじって振り返る。 「何が?」 「直行はいつも俺の後をつけ回してると思っていたのに、気付くと俺の前にいる」 必死でまこうとしているのに、いつの間にか先回りしているのだ。おかげで何度空回りしたことか。直行にも自覚はあるのか、苦笑混じりに笑う。 「俺はいつも追いかける立場さ」 意外にも、答えはきっぱりしていた。 「置いて行かれないように、追いかけるので精一杯。それなのに容赦なく置いていこうとするから酷いよな」 「置いていこうとしてるの判ってて、それでもなお追いかけてくるのはストーカーって言うんだぜ」 「うわ、毒舌」 直行が大げさに叫ぶ。本気で言っていないのは雰囲気で判る。問題集に出てくる登場人物の心理はさっぱり解けないけれど、もし直行の心情が問題に出てきたら絶対に解ける自信がある。 直行が少しずつ接近してきて、腕がぶつかった。歩きにくいので少し離れる。また近付いてきた。作為的にやっている。あっという間に塀の傍まで追いやられ、俺は逃げ場をなくした。 文句の一つでも言ってやろうかと思案している隙に、軍手が奪い取られる。中指を支点にして思いっきり引っ張られた。ざらざらとした繊維が手の甲を撫でていく。アカギレにひっかかって痛かった。 付けていても意味がない、と思っていた軍手だが、前言撤回しよう。外したとたんに外気が俺の手を捕まえに来た。手のひらに進入した冷たさは一気に上へと駆け上がり、俺の背を震わせた。 軍手の代わりに暖かいものが覆い被さる。少ししっとりとして、ごつごつしてるけど大きい。直行の手のひらがそこにあった。 「こっちの方が暖かくない?」 指の一本一本が俺の指の隙間に入り込み、絡め取る。無機質な軍手の感触と違って、心地よい。手を振って歩くと、何だかおかしくなってきた。 「……そうだな」 ずっとずっと暖かい。直行の優しさとか、力強さまで、流れ込んでくる気がした。 男子中学生が手をつないで帰るなんて、ばかばかしい。そのばかばかしさが、俺をすごく癒してくれた。俺は陽気に直行の腕を振り回した。 置いていかれないように、知らない内に置いていかないように、手をつないで歩こう。そうすれば何も怖くない。俺の指先はすっかり暖かくなっていた。 END? 二人が中学生の時の話。手をつながせようとしただけなのに、気付けば受験の話になっていました。高校受験のシステムはさっぱり覚えていません。それくらい時が経ったからこそ、やっと高校受験の話が書けるようになったと思います。 |