[友人以上]
指先の体温・前


 俺が先か直行が先かと考えてみると、実のところよく判らない。小さい頃は俺がよく直行を連れ回していたような気がするし、頼りになる直行の後にいつもくっついていたようにも思える。
 直行は優秀な子供だったが、裏を返せばとても受け身だった。大人の意を汲んでから行動し、大人の言うことをよく聞いた。自分から行動することを控えていた。俺たちとはどこか一線置いた場所に、あいつは立っていたのだ。
 俺といえば親の心配も省みず、やんちゃな仲間と思う存分暴れ回っていた。木から落っこちて服を引き裂いたり、河に落ちて全身ずぶ濡れになったりと、ずいぶん親を困らせた。母親に怒られた記憶は今でも鮮明に残っている。
 それでも許されたのは直行のおかげだったと思う。どうしてそうなったのか、次から何を気を付ければいいのかを提示し、親も子供たちも説得してのけた。子供でもない、だからといって大人でもない直行だからこそ、橋渡し役ができたのだと思う。
 常に親の顔色をうかがい、自分からは動かなかった直行を引っ張っていたのは、俺だった。だけど俺たちをまとめて誘導していたのは、直行だった。
 現在はずっと、俺は直行の背中を見続けている。あいつの背中ははるか遠く、見失いそうなほど小さくなっていた。

 ポケットに手を入れたまま歩いてはいけない。転んだときに手が付けないからだ。小学校の頃、冬になるとよく先生に言われた言葉だ。
 優等生だった直行へのささやかな反抗として、俺は先生の言いつけをいくつか破った。ポケットのこともそうだ。何より指先がよく冷える俺としては、ポケットの中は、とても暖かくて魅力的だった。
 そんなある日、一度ポケットに手を入れたまま見事に転んだ。果たして、鼻の頭に顔を縦断する傷を負った。鼻の骨が折れるかと思った。幸い擦り傷で済んだが、顔の中央を占める傷はかなり間抜けで、恥ずかしかった覚えがある。
 それ以来だ。俺がポケットの中に手を突っ込まなくなったのは。
 手のひらの温もりを求めて、俺は強く手を握りしめた。手を洗った直後の指先に痛みが走る。冷たさが指の一本一本にしみて感覚を奪い取る。いっそのこと鈍い痛みも消えてしまえばいいのに、俺の神経はしぶとく生きていた。
 息を吹きかけてみる。白い息が指の間を通り抜けていく。校舎の中は外と大して気温が変わらない。風が吹き付けないだけまだましだが、渡り廊下に通じるドアからはじわじわと外気が進入し、廊下を満たす。じっくりと冷やされた指は暖かさも忘れてしまっていた。鈍い痺れが走っただけで、痛みは消えなかった。
 足早に隣のクラスを通過し、自分のクラスに向かう。間休みのせいか、廊下を歩いている者はほとんどいない。すれ違う生徒は、同じように皆早足だった。
 白いドアはきっちりと閉められていた。曇りガラスに、教室内の景色がぼんやりと映る。形を全部崩して、色だけになった人間が、ちらほら動いていた。
 ドアを開けると、熱気と共に、ほこり臭いようなにおいが我先にと出てくる。俺は思わずドアを閉じたくなった。空気がかなり悪い。みんな寒さを嫌って教室に居座っているから、空気の出入りも少ないし、吐息や石油ストーブの出すにおいはこもったままだ。
「寒いな、早く閉めろよ」
 廊下側に座っていたクラスメイトが会話を中断して言う。俺の返事を待つこともなく、手にした過去問題集を読み始める。彼の周りにいたクラスメイトが、口々に答えを言い合った。
 冬休みが終わってから、教室の空気は確実に変わった。今まではのんきに構えていた者も問題集を手に取り、勉強し始める。現在は高校受験まで一ヶ月を切った。推薦の奴はもう試験を終えた者もいる。授業時間は五十分から四十五分に短縮され、家庭学習の時間に当てられた。
 ますます教室の中に入りたくなくなったが、仕方なく俺は淀んだ空気の中に飛び込む。顔面に空気の層が当たった。後ろ手でドアを閉めた。
 教室の窓側、俺の姿を見つけて、直行が手を上げる。俺は返事をする代わりに、直行の席の横に立つ。直行の周りには俺がいない間に女子が群がっていたので、俺は一歩引いた所に待機した。さっと彼女らを一瞥してみるが、見事なまでにハーレム状態だ。男が一人もいない。
「ギリギリ開始一分前だよ」
 女子の頭の間から、直行が顔をのぞかせる。教室の時計を見ると、帰りの会が始まる時刻丁度を示していた。少し進んでいるので、確かに一分前くらいなのだろう。どうせ担任が来るのはいつも遅いので、まだ席に着かなくても大丈夫そうだ。
 女子の一人が俺の方にちらりと視線を向けた。鋭い視線から強い意志を感じる。「直行君との会話を邪魔しないでよ!」直接脳内に訴えが響いてくるような気がした。つられて数人がこちらを見た。思わず気圧される。
 中学を卒業したら話す機会もなくなってしまうので、気持ちは判らなくもない。直行は誰にも進路を言っていないらしく、なおさら女子は焦っているようだった。俺だって直行の進路を聞いたことはない。どうせ俺では手の届かないような高校に行くのだろう。
 俺は不自然な笑みを浮かべた。口の端がひくひくけいれんするのは仕方がない。
「じゃあ、俺はそろそろ席に着くわ」
 直行の反応も見ずに、後ろの自分の席に戻る。とはいえ、直行の真後ろなのはどういう因縁なのだろうか。なるべく緩慢な動きでイスを引き、イスと床がこすれる音を聞きながら席に着いたものの、すぐにやることがなくなって動きが停止する。直行ががこちらをちらりと見た。
「チャイムが鳴るから、もうみんなも戻った方が良いよ」
 後ろからは見えないが、直行はにっこりと笑っているに違いない。大人も黙らせる完璧な笑みだ。魅了の効果を発揮する。女子に対する効果は特に抜群で、渋る者もあったが、チャイムが鳴るとすぐに席に戻っていった。その代わり俺がにらまれる……俺ではなく直行に文句を言って欲しい。
 老若男女かまわず魅了するなんて光源氏かお前は。言う代わりに奥歯をかみしめて顔を歪める。
 チャイムに吸い取られていくかのように会話が減っていく。だんだんと席に着いていく音へ変わっていった。頬杖をついて、人の動きを視線だけで眺める。指先はなかなか暖まらず、ヒンヤリとした感触を頬に残した。
 チャイムが鳴り終わる頃にはわずかな会話だけが残された。その中でひときわ大きい音が鳴って、意識を引きつけられる。直行がイスを引いた音だった。背もたれに腕を載せて俺の方を向いた。
 直行の手が伸びてくる。俺の手を覆うようにして頬に触れた。俺はとっさにその手を払いのける。直行が笑った。
「手が冷たい」
 直行の手は温かかった。俺の手には熱く感じられるほどだ。頬で感じる暖かさは普通なので、よほど俺の手が冷たいのだろう。
「トイレ行ってきたから」
 答えると、直行は俺の手首を掴んだ。指先を手のひらに包み込んで、直行は「暖かい?」と首を傾げる。俺は無言で頷く。
 痛みがどんどん逃げていく。直行の体温は心地よかった。俺の中にじんわりと直行の熱が伝わってくる。身体までぽかぽかしてくる気がした。
 ぼーっとしていると、反対の手も掴まった。指先だけ掴まれているので、何だか変な情景である。
「手の甲、がさがさ」
 小指で甲を撫でて、直行は呟く。
「昔よりは良くなったね」
「アカギレは大きくなると治るらしいからな」
 小さい頃はもっとひどかった。ハンカチを持ち歩かなかったものだから、荒れ放題だった。亀裂が入り、血が出てきて、水に触れるだけでとてもしみた。
 心配した直行は俺にハンカチを持つように言った。それが嫌でむしろ絶対に持つまいと意地を張った。そうしたら何と、直行は俺の後をずっとついてきて、手を洗うとハンカチを差し出すようになった。一番ひどいときはトイレの中までついてきた。同い年のくせに、直行は過保護だ。
 今ではハンカチは欠かさず持ってきている。直行の尾行からも解放された。直行は全部判っていて、冗談交じりに「ちゃんと手は拭いた?」などと聞いてくる。俺は口をへの時に曲げた。
「拭いたよ」
 まるで母親が傍にいるみたいだ。いや、小さい頃から俺の世話を直行に任せていた母の方が、よほど放任主義だ。握られている手は、まるで捕らえられているみたいだ。
 先生が入ってくると、空気の振動が消え去った。周りはとたんに静かになる。ドアの方を見なくても状況がありありと判った。
 直行が前を向くと同時に手がさっと放れる。教室の空気は生暖かいはずなのに、直行の熱がない指先は寒々としていた。
 帰りの会が始まる。号令係の声を聞きながら、俺は手で頬を覆った。そこにはまだ直行の熱が残っているような気がした。



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