[君がいるから]
両手首に爪が食い込む。大きな手のひらは骨みたいに細い少年の腕を片手で押さえつける。爪の跡からは皮膚が裂けじんわりと血がにじみ出していた。 「そう……大人しくしていなさい」 反して優しい声が落ちてきた。少年は耳を塞ぎたかったが腕は動かなかった。 男の唇が少年の胸の突起に落ちる。舌が過敏になったそこに触れると、少年は堪らず背中を浮き上がらせた。 嬌声が漏れる。男は緩やかに口角を上げた。 「いい子だ、いい子だ……真己」 開いた方の手で真己と呼んだ少年の頭をなでる。少し癖のある硬い髪が、男の手によって崩されていく。真己は乾いた眼球だけ動かして男の顔を見た。 「父さ……」 最後まで言い切る前に、獣が襲いかかる。よくある夜の風景だった。 引き出しを開けて、勇也は自分の思い描く物がそこにないことに気付いた。少し奥に手を突っ込んで中をのぞき込む。削られていない鉛筆や鉛筆削りが雑然と転がっているが、やはり探している物はない。どこにしまっただろうかと首を傾げ、そんな物はそもそも部屋の中にないことを思い出した。 英和辞典。勇也が中学生の頃から使っていたそれは、弟が中学に上がると同時に譲渡した。英語がからっきし苦手である勇也が持つより、勇也よりはずっと優秀な弟が使った方がいいと思ったのだ。 しかし英語の授業には予習が必要であることを失念していた。中学の時にも予習が必要だったのだから高校の時にも当然予習するべきだという考えは回らなかった。勇也は真面目だけれど気が利く人間ではない。 入学式や部活動説明などを終え、やっと迎える初めての授業は、明日だ。初日から慌てないようにしっかりやっておこうと意気込んだはいいが、勢いは見事に空回ることになる。 「他の奴ら、持っとるかなぁ……」 後頭部を掻いてぼやく。中学の卒業式を終えてからこちらに来てまだ一ヶ月程度、以前まで住んでいた関西の訛りは消えない。 引き出しを閉じて、イスを引く。絨毯にひっかかってガタガタ揺れた。頭が痛くなりそうな英語の羅列が並ぶ教科書と、まだ真っ白なノートは開いたままに、勇也は立ち上がった。壁際に畳んである布団の横を通り過ぎドアを開ける。ドアに掛けてある「勇也」と書かれたプレートが揺れて音を立てた。 部屋に掛けられたプレートを見ながら、同学年の奴の部屋はどこだったかと探す。一ヶ月経てば同居者の名前と学年くらいは覚えた。すぐ隣の部屋の悠大も、勇也と同じ高校一年だ。ただし、背が高く大人びている悠大が同い年だと気付くまでに勇也は数日を要した。 プレートに悠大と書かれているのを確認して、ドアを叩く。「勇也やけど」大きめの声で言うが、反応はなかった。勇也は顔をしかめた。 夜遊びが激しい悠大の帰りが遅いのはいつものことである。それでも特におとがめなしなのは、この児童養護施設「日暮園」の制度がおおらかだからだ。というかその制度を決めている住み込みの従業員がおおらかなのだ。 勇也が日暮園に来たのも、その従業員の女性が母親の知り合いだったからだ。勇也は四兄弟だったが、みんながバラバラにならないよう取りはからってくれた。長男の勇也は、まだ幼い弟妹たちと離れずに済んでとても感謝していた。 人数は少ないのに年齢層がバラバラだから、決まり事を作っても守りにくいだろうというのがその女性の意見だ。真面目な勇也としてはいささか不服である。チャラチャラとした悠大の様子も好きではなく、頼るのも本意ではなかった。 勇也はそれ以上呼びかけることを諦め、廊下を見渡す。悠大の部屋は一番端にあり、そこから片側にドアが四つ並んでいる。廊下を挟んで左右に部屋があるので、全部で八つの部屋が二階にあった。悠大の部屋の丁度対角線上に、もう一人の高校一年生の部屋がある。 廊下の角にある窓に向かって、勇也は大股で廊下を横切った。勇也の部屋のすぐ隣にある階段からは賑やかな話し声が漏れていた。みんな一階にある談話室に集まっているのだろう。勇也は階段の傍で立ち止まって、聞こえてくる関西弁に耳をすませた。 楽しそうな声。笑っている顔が容易に想像できる。勇也は階下に下りようかと思ったが、初日から予習をサボるわけにもいかず、我慢する。弟妹たちはきっと勇也を見つけたら放してくれないだろうから。 窓にはカーテンが掛かっていた。近付くと心なしか肌寒い。窓の外は薄暗かった。夕飯はまだだが、日暮れ時は過ぎ去ったらしい。深い青が空に流れている。 「真己」というプレートがかかっている。勇也ははじめ「まき」と読むのだと思っていた。女っぽい名前だと思ったら、本当は「なおき」と読むらしい。 ドアを軽く二回ノックする。「誰?」という声が返ってきた。勇也は大きく自分の名前を返す。 「何の用? 俺、これから虎琉ん家に行くからあんま時間ないんだけど」 彼はまくし立てるようにして言う。ドア越しなので相手の声はこもって聞こえた。 「たける?」聞き慣れない名前に勇也は首を傾げた。おそらく真己の友人であろう。追求するものでもないと思い、勇也は用件だけを伝えた。 「英語辞書を借りたい」 数秒だけ沈黙が流れる。勇也がもう一度口を開きかける。 「入って良いよ」 勇也の言葉を制すように、部屋の中の声が答える。勇也はドアノブをひねりながら「失礼します」と頭を下げた。 真己の部屋は広々としていた。部屋の作り自体はみんな同じなのだが、置かれた荷物が少ない。すぐに畳める簡易テーブルと、山積みにされた新しい教科書。ベッドが壁際に置かれていて、その脇に彼は座っていた。それ以外には何もない。 服の類はどうしているのかと思ったら、ベッドの下がタンス代わりになっているらしい。引き出しが半ばほど間で開いていて、そこからティーシャツを取り出していた。泊まりなのか、パジャマを腕に抱えたリュックの中に押し込む。勇也など目に入っていないかのように作業に没頭していた。 今着ているのは黒いラインの入ったグレーのトレーナーだ。襟は大きめに開いていて、長めの髪から襟足がのぞいている。真己の首は細かった。 勇也はこれ以上足を踏み入れて良いものか悩む。真己とはあまり話をしたことはなかった。人見知りが激しく、初日はあからさまに警戒された。その時の印象が今でも消えない。 「辞書は教科書の所にあると思う。勝手に取っていって良い」 勇也の心境を見透かしたように真己が口を開く。眼球すらも勇也の方を向いていない。見ていないのにどうして判ったんだ。心を読まれたような気分になって、勇也は引きつった笑みを浮かべた。 「おーきに」 そそくさと部屋を横切ってテーブルの横に身を屈める。全てベッドに寄せるようにして置いてあるので、必然的に真己との距離は近くなる。勇也は真己の方に意識を向けながら、テーブル下の教科書に手を伸ばす。 もっと真己の方に寄らないと取りにくい。テーブルの足を掴むが、手の届く範囲はたかが知れている。勇也は真己の方に視線をやって、そして完全に振り向いた。 真己はいつの間にかじっと勇也を見ていた。どちらかというと観察されているみたいだ。勇也は息を飲む。 起きあがろうと思ったが、慌てていたのでテーブルに頭をぶつけた。角が後頭部にクリンヒットする。軽快な音が鳴って、テーブルが浮き上がった。 痛みが突き刺さって、じわじわと浸透していく。勇也は頭を抱えてうずくまった。 「テーブルしまおうか?」 「うう〜」 真己の問いに答えたのかただのうめき声なのかは定かでない。真己は前者ととって、テーブルの端に手をかける。勇也に当たらないように、真上に持ち上げた。足は畳まずに、そのまま部屋の隅に下ろす。 勇也は少しだけ顔を上げて、真上に障害物がなくなったことを確認する。最初からテーブルをどかせば良かったのだが、人様の物を勝手に動かす勇也ではない。それと、そこまで頭が回る勇也でもない。ゆっくりと頭を上げて、勇也の横に腰を下ろした真己を見た。 「すまんな」 照れ隠しに笑う。真己が答えるようにして微笑んで、勇也は驚きに口元を引き締めた。 反射的に後退する。教科書につまずいてしりもちをついた。教科書が雪崩のように崩れていく。 冷たいものを感じた。背筋が震える。真己が眉をひそめた。勇也ははっと我に返る。いきなり逃げるような真似をして、傷つけたと思った。 「あの、えっと」 「出ていけ」 真己が優しく呟く。口調と言葉がかけ離れすぎていて、一瞬何を言われたのか判らなかった。言葉とは裏腹に、真己は勇也に近付く。ドアとは反対方向に勇也を追いつめていった。 勇也がまた下がる。背中が壁に付いた。真己が勇也を閉じこめるかのようにして壁に両手を付く。 「俺、何するか判らない」 真己の額が勇也の額に接触する。真己は少し熱かった。 「熱あるのか?」 心配になって、勇也は真己を見つめた。近すぎて焦点が合わない。吐息が顔にかかる。生暖かかった。真己が口角をつり上げる。 「人の心配してる場合じゃないでしょ」 真己の膝が勇也の足の間に割り込む。膝が勇也の足をなでた。膝を通過し、太股へはい上がる。くすぐったくて勇也は身をよじった。真己の腕が邪魔して思うように動けない。勇也は初めて自分が逃げられない状況であることに気付いた。 「ゴメンね、俺もう耐えられそうにないや」 膝が勇也を刺激する。勇也は息を吸い込んだ。 唇が乱暴に塞がれ、呼吸を阻止した。勇也の後頭部が壁に押しつけられる。先ほどぶつけた箇所が痛かった。小さなたんこぶができているかもしれない。 濡れた唇が蠢く。角度を変えてすり寄せられる唇の感触を追うので精一杯だった。何が起こったのかも判らず勇也は生まれる快感を享受する。何もかもが未経験な勇也にとっては、激しすぎるキスはキスだとすらも判らなかった。 ざらりとした感触が勇也の上唇を這う。それは勇也の歯をなぞりながら中に進入してきた。勇也の舌を軽くなでる。口の中に入り込んできた異物に、勇也は軽く歯を立てた。柔らかかった。 真己は勇也の首を少し上に向かせて下あごを引く。歯に押さえつけられていた真己の舌が動きを取り戻す。力無く開いた勇也の口から唾液がこぼれていった。 勇也の服をめくり上げる。勇也の肌が明かりの下に露わになった。幼少の頃から空手をやっていた勇也の体は鍛え上げられていて、硬い腹筋がついている。腹の辺りが寒くなったのに気付いて、勇也は首を動かした。 真己が指で腹をなぞると、キスが激しくなるのと連動して勇也の腹筋が動いているのが判る。真己は舌で勇也の舌を絡め取る。きつく吸うと背中が動いた。 勇也は膝を抱えてうずくまろうとしたが、真己の身体が邪魔でできない。何とか動く手で、勇也は真己の腕を強く払った。 真己は唇を放して笑みを作る。やっと呼吸ができるようになり、勇也は大きく息を吸い込むが、口の中にたまった二人分の唾液が喉に流れ込んできてむせかける。下を向くと粘りけのある透明な液体が流れていった。勇也のジーパンに染みを作る。 「いけない手だね」 呟いて真己は勇也の手首を掴む。上にねじ上げて、もう片方もそうする。片手で押さえつけた。勇也はそれを振りほどこうとするが、真己の力は意外に強く、びくともしない。細い腕のどこにそんな力があるのか判らなかった。 真己は勇也の首に唇を寄せた。首筋に舌を当てながら這う。背筋を震わせる感覚に勇也は思わず声を漏らした。 「う……」 真己の動きが止まり、口を大きく開ける。勇也の肩に真己の歯が食い込んだ。力が込められる。痛みが走る。皮膚が切れる。勇也は首を精一杯ひねって真己を見た。セピア色の髪が揺れている。 がぶり。そんな効果音が聞こえた気がした。口を放して、真己は唇をなめる。口元からのぞいた舌は真っ赤だった。 勇也の肩から赤い血が流れる。まくり上げられた服の裾を赤く濡らした。傷は三日月形に並び赤く染まっている。真己の歯形が鮮明に映し出されていた。真己は流れる血をなめ取る。 「虎琉……」 真己が呟いた名前は、この場にいる誰のものでもなかった。 会話を割るようにして響いたのは、インターホンの音だった。テレビを見ていた何人かが玄関に顔を向ける。「見てくるよ」真っ先に応えたのは、黒髪の少年だった。台所で夕飯の支度をしている女性にも憩えるように大きめの声で言った。 「あずにぃ」 少年は声のした方を向いた。膝にちょこんと座った少女が真上を向いている。彼女が足を揺らすたびにかかとがぽこぽこと少年の足を蹴った。妹の琴音である。 少年は小さな琴音の頭をなでた。まだ三歳である妹の頭は中学校に上がったばかりの少年の手にも小さく感じた。きめ細かい髪が指の間を通る。 「ちょっと行って来るからな」 琴音の脇をしっかり掴んで膝の上から下ろす。だだをこねるように琴音の手が少年のズボンを掴んだ。少年は困ったように小首を傾げて、完全に立てない中腰姿勢のまま琴音を見下ろした。 「恵介、ことのこと見といてくれへん?」 同じような黒髪を持つ、もっと小さな少年に視線をやる。同じくらいの年である少年とテレビを見ていた恵介は、あからさまに嫌そうな顔をした。少年がしかりつけるように恵介をにらむと、渋々「はい」と応える。少年は琴音の背を押して恵介の隣に座らせた。 玄関の方に顔を向ける。雨戸の閉められた窓からは来訪者の姿はうかがえない。インターホンが再び鳴った。「はーい」と応えながら小走りに玄関に向かう。 談話室を出ればすぐに玄関だ。人が集まっている談話室と違い、廊下は少し寒かった。 「どなたですか?」 開ける前に、ドアの前に立つ人影に尋ねる。少年より背が高い。黒っぽい服を着ているので夜の色に紛れてしまいそうだった。 「虎琉です。草壁虎琉」 応えたのはまだ幼さを残す声だった。聞き慣れない名前に少年の手が止まる。ガラスの向こうでシルエットが動いた。 「えっと、真己を迎えに来たんですけど。今日あいつが俺の家に泊まりに来るって聞いていませんか?」 そう言われて、少年は従業員の女性がそんなことを言っていたのを思いだした。疑心はぬぐい去れないが、ひとまずサンダルに足を入れて鍵を開ける。 ガラス戸の向こうにいたのは、中肉中背の少年。年齢の割に多少背は高いかもしれない。虎琉は白いパーカーの上に黒っぽいジーンズのジャケットを着ていた。頭を軽く下げる。 「君は……梓君だったかな? お久しぶり」 名前を言われて驚いたが、よく見れば確かに会ったことのある顔だった。兄弟そろって日暮園に来た日、引っ越しを手伝ってくれた人だった。近所に住んでいるらしく、まだこちらへ来たばかりの自分たちよりもよほど施設の者と親しい。梓は自分で玄関に出たことを後悔した。しかし談話室にいた中では、梓が一番大きかったのだ。 虎琉は梓を見て目を細めた。 「少し大きくなった?」 「そないに早くは大きくなりません」 引っ越してきたのは一月前だ。たった一ヶ月で見た目に判るほど顕著に身長が伸びたらどうかしている。梓は家系的に成長期にはまだ早かった。虎琉は「そうかなぁ」とぼやいた。 「勇介さんは元気?」 それはどっちのことを聞いているんだ。梓は心の中でつっこんだ。完全にごちゃごちゃになっている。兄が勇也で、弟が恵介。梓は真ん中である。 さん付けなので勇也の方だろうと判断し、「元気ですよ」と答えた。恵介の方も元気なのだが。虎琉は嬉しそうに「そう」と頷いた。 「……真己は?」 突き当たりの廊下にある階段の方を見て問う。梓もそちらを見るが、残念ながら死角になって見えない。首を傾げるにとどめた。 「さぁ、まだ下りてきてないです」 何故か今日はあまり二階にいるなと言われて、家にいる者は真己を残すようにして一階に下りてきた。勇也は予習をやると言って二階へ言ったが、止める理由もなかったので梓は止めなかった。 「呼んできますか?」 「いいや」 虎琉は即答した。梓は意外な答えに驚く。虎琉の視線は階段の方を向いたままだ。何かが見えているかのような目つきだった。梓は何かが起こったのではないかと不安になる。 「上がっても良いと思う?」 虎琉が尋ねてくる。梓は言葉に詰まった。勝手に判断が下せるわけもない。だが虎琉を見ていると、つい言ってしまう。 「……いいんじゃないですか?」 無責任に呟くと、虎琉ははじけるように玄関を駆け抜けていった。速い。それでいて足音は極力抑えている。 「忍者みたいだ……」 素直な感想を残しつつ、置いてけぼりにされた梓は、とりあえず脱ぎ捨てられた靴を綺麗にそろえてみた。 |