[Night Light]
眼前は白い霧で覆われていた。霧の向こうの景色がかすかに見えるが、輪郭がぼんやりしていて視力の良い勇也にもはっきりとは見えない。視力の悪い奴はいつも世界がこんな風に見えているのかなと思いながら、温かいお湯を両手ですくい、顔にかけた。 ざぶん、とこぼれ落ちたお湯が音を立てる。長身をこぢんまりと折り畳みながら肩まで湯に浸かり、悠大が勇也を横目でうかがう。 「なんか、親父くさい。その動作」 「別にええやんか。ちゃんと湯船入る前に顔洗ったで」 「そういう問題じゃ……」 あごの辺りまできっちり浸かって、勇也が気持ちよさそうな声を上げる。なんだか真剣に指摘するのが馬鹿らしくなって、後半部分は飲み込んだ。 風呂好きなのも親父くさい。もっとも、勤労学生である勇也が安らげるのは、風呂の時間と寝る時間だけなのかもしれないが。そこら辺の苦労は悠大には判らない。悠大はバイトなどしたことがないし、勇也と違って、夜遊びで帰宅が遅いのだから。 女性の好きなように笑って適当に話を合わせておけば、大概のことは上手くいく。携帯電話だって、彼女にしょっちゅう買い換えてもらっているあげく、料金も彼女持ちだ。その「彼女」とは不特定多数である。律儀な悠大はつき合った女性の顔と名前と電話番号とメールアドレス、全てを把握しているが、その数は数えていたらきりがない。 真面目な勇也はそれを非難するが、悠大はそれも一つの方法論だと思っている。少なくとも、お互い好き合ってやっていることだ。嫌いな女性と仕方なくつき合った覚えなどない……愛嬌を振りまくぐらいはしているが。 全体的に勇也は古風だ。悠大がピアスをつけているだけで口うるさく説教してくる。雪夜もやはりピアスをしているが、勇也の説教を同じように口うるさく感じていた。 何が悲しくて同い年の……誕生日でいえば年下の男から、ピアスごときで説教されなければならないのか。悠大の身なりについて勇也がうるさく言ってきて、喧嘩したあげく勇也が飛び出していったのはつい先日のことだ。それ以来口論がヒートアップすることはなくなったのだが、代わりに冷戦状態が続いている……と悠大は思っている。単純馬鹿の勇也はもうすっかり悠大と仲直りした気持ちでいるかもしれないが。 「そういえば」 勇也がぽつりと呟いた。風呂の中でその声は大きく反響する。三人は一度に入れる大きさのある風呂だが、密室の中では小さな音でも大げさに聞こえた。みんなが寝静まった後ともあり、二人は隠れるようにして風呂に入らなければならない。 「今日、何や機嫌悪うなかったか?」 水面から突き出た首から上だけを悠大の方へ向ける。ぬるま湯とはいえ、もう五分は浸かっているので、頬は上気していた。湿気に塗れた黒い瞳は、いつもより大きく見える。純朴な動物を目の前にしているようで、なにやら嘘がつきがたかった。悠大は呻いて言葉を詰まらせる。 目の前のことしか見えないくせに、たまにめざとく細かいことに気づいたりする。いっそ放って置いてくれと思いながら、悠大は湯の中で勇也に背を向けた。悠大が動いた分、悠大の体を中心に波紋ができる。波が頬に当たって、勇也は少しだけ体を浮かせた。 「いつもより帰ってくるのが早かったし、俺に遅く帰れとか言うたし。あと、雪夜も本当に早く帰ってきたとかよう判らんこと言っとったな」 「勇也君には関係ないねー」 軽くあしらってみるが、勇也は納得がいかなかったらしく、頬を膨らませて沈んでいく。黒い髪の毛が水の中でふよふよと泳いで、海草みたいになった。鼻の下まで湯に浸かって、ごぽごぽと口から空気を吐き出す。 その音を聞いて悠大が肩越しに振り返った。ガキかお前は。ついでに、汚い。言うのもかったるくて、代わりにお湯をすくい上げて、勇也の頭にかけてやった。とっさに目をつむったものの多少入ったらしく、慌てて水面から顔を出し目をこする。 「何すんねん!」 勇也が膝で立つと、上体がお湯から出る。水面が飛び跳ね、雫が舞った。長い腕で目元をかばい、悠大はにやりと笑う。 「あまり大きな声を出すと、琴音ちゃんが起きちまうぜ?」 琴音という名を出されて、勇也は硬直した。琴音は勇也の末の妹で、まだ小学生にもなっていない。そのため朝早く夜遅い勇也は休日以外ほとんど顔を合わせないのだが、かえって娘のように溺愛している。寝室まで距離は離れているが、風呂場の音というものは以外と大きく聞こえるものである。 可愛い小さな妹を掛け合いに出されたら黙るしかない。勇也は黙って湯船に浸かり直す。そのまま疑問もすっぽり忘れてしまったらしく、勇也はうとうとと頭を下げ始めた。力無く縁に背を預けている。本当に眠りやしないかとはらはらしながら眺めつつ、悠大はほっとしていた。 言えるわけがない。口に出すには恥ずかしすぎる理由だった。 雪夜と悠大は学年こそ違うが、長年施設の中で育ったため親友同士だ。昼休みには屋上で共に弁当を食べたりする。その時に雪夜から、勇也は必ず弟妹に「いってらっしゃい」見送られながら家を出る、という話を聞いた。 朝練がある日、勇也と一緒に朝食を取る雪夜は、その光景をたびたび目にするらしい。見送られる勇也はえらく嬉しそうにしていたので、印象に残ったという。そう話す雪夜もなんだか嬉しそうだった。 それだけでもムカムカしていたのに、雪夜はさらに「今日帰ってきたら、おかえりも言ってやろうかな」などと続ける。 早い話が焼き餅だ。悠大は勇也に焼き餅を焼いた。親友、あるいはそれ以上に親しい仲である雪夜を、勇也に取られてしまう。そう思ってしまい、「絶対に勇也より俺の方が早く帰ってきてやるから、勇也じゃなくて俺に言え」と言ってしまったのである。 考えてみれば妙な話だ。悠大は別に「おかえり」だなんて言ってもらいたくもない。頼まなくても言ってもらえる。だけどあの時は腹が立っていた。何となく引き下がれなくて、適当な言い訳をして彼女の元からいつもより早く舞い戻ってきた。 柄になくムキになってしまったのだ。ガキくさいことこの上ない。思い出せば自己嫌悪がつきまとう。できることならばこの件は二度と掘り返したくはない。 忘れてくれるのが一番ありがたかった。果たして、デリカシーのない勇也が何処まで気を利かせて忘れてくれるかが問題だが。英単語と同じくらい、右から左へ流れていってくれないものかと、物覚えの悪い勇也の頭を見る。 勇也は湯船の縁に頭を載せて、静かな寝息を立て始めていた。悠大は呆れてため息をつく。いつもより遅い帰宅だとは思っていたが、相当疲れていたらしい。 「勇也、寝るな。起きろ!」 頬を叩いてみるが、うんともすんとも言わない。鼻をつまんでみるが、一分近く経過しても反応がなかったのでやめた。本気で眠っているらしい。 まさか、これを部屋まで運ばなければならないのか。勇也を運べるのはこの状況において悠大しかいないのだが、げんなりしてくる。いくら勇也の身長は悠大より低いとはいえ、眠っている男がそれほど軽いとは思えない。しかも筋肉の分、体重だけを見れば悠大と勇也はそれほど変わらないのではないだろうか。 勘弁してくれよ、とこぼしても、聞いてくれる人は誰もいない。いっそこのまま風呂場に放置していこうかとも思ったが、それはそれで後味が悪い。もう一度頬を叩いて見るが、張りのある脂肪の少ない頬がいい音を鳴らすだけだった。 かすかに勇也が身じろぐ。起きたのかと思いきや、目も開けずに悠大の腕をひっつかんでまた寝入る。どうやら寝心地が悪かっただけのようだ。しかも捕まれた腕はなかなかはがれない。眠るだけでなく、悠大の動きまで拘束してしまった。悠大は泣きたい気持ちになる。 悠大の思いなど知るはずもなく、勇也は口元を緩ませた。何か夢を見ているらしい。へらへらした顔を見ていると、とてもいらいらしてくる。さっさと起きろよ馬鹿、と悠大は聞こえるはずもない愚痴を言った。 「ただ……いま」 幸せそうに呟かれては、それ以上何も言えなくなる。何の夢を見ているというのだろうか。どうしてこんなに幸せそうな顔をするのだろうか。「ただいま」なんて、いつもどうでもよく言っている言葉に、何をそこまで幸せな思いをのせるのか。 うっすらと開いた唇をなぞる。冬の寒気に乾いた唇は割れていた。今は湿気で濡れているものの、皮がむけた部分は白くなっている。 気まぐれ。ほんの気まぐれだ。悠大はその唇にそっと自分の唇を重ねてみる。なめてみるとざらっとした。あまり柔らかくはない。唇を塞いだまま、勇也の鼻をつまむ。息が吸えなくなって、勇也は苦しそうに首を動かした。眠っているのであまり力は強くない。 本当に起きてしまう前に身を離した。勇也は大きく息を吸い込む。どうせ聞こえているわけはないのだと思い、悠大は勇也の耳元で「おかえり」と呟き返した。 湿気を吸い込んだせいか、勇也がむせた。そしてお前は眠り姫かとでも言いたくなるようなタイミングで目を開く。現状が理解できないのか、天井を見上げて瞬いた。視界の端に悠大を見つけ、勇也はとろんとした目つきで口を開いた。 「あれ……ここ玄関やあらへんの?」 本当にどんな夢を見ていたのだろうか。玄関で、どんな幸せな夢が見られるのか。呆れて思わず、「じゃあお前は今まで何をしていたんだ」と聞いた。 「だって今、悠大が、おかえりって」 悠大は舌打ちした。本当、いらない所でばかり鋭い奴だ。 「俺はそんなこと言ってないね。寝ぼけてるんじゃないのか?」 平生を装ってしらを切る。勇也には嘘を見抜けるだけの洞察力などありはしないのだ。何でもかんでも鵜呑みに信じてしまうのが悪い癖だ。人を疑うことを知らない。思った通り、勇也は今まで実際寝ていたこともあって、全てを夢のせいにしてしまった。そうか、夢かと納得しながら、頷いている。 ふやけた指を見て、悠大はずいぶん長湯してしまったと思った。勇也にも「出るぞ」と声をかけて、湯船からはい出る。温いからのぼせるということはないが、あまり長く入っていると風邪を引きそうだった。勇也など途中で寝ているから、気をつけなければいけない。いや、頑丈で馬鹿な勇也よりも、軟弱な悠大が気をつけるべきか……。 何となく、雪夜が勇也に「おかえり」と言った理由が判った気がした。たった一言でこんなに幸せそうな顔をしてくれるならお安いご用だ。言ってやらなくもない、という気分にさせてくる。勇也は鼻歌混じり(曲名は不明。ていうか音痴)に 風呂場を出ていく。あからさまに上機嫌だ。 不思議なことに、悠大も鼻歌を歌いたくなってきた。先ほど、今日は不機嫌だったなと言われたばかりなのに、不思議なものだ。 頭の中にふと浮かんだ曲を口ずさむと、勇也が「上手いなぁ」と感嘆する。「お前が下手なんだよ」と返してやると、口をへの字に曲げて荒っぽくバスタオルで体を拭き始める。濡れて頭に張り付き、別人のようになっていた勇也の髪は、拭くとすぐにあちこちにはねていく。それが面白くて、悠大は勇也の頭をバスタオルでがしがしと拭いた。いきなりのことに勇也は驚いて、悠大を怒鳴り散らす。そしてお互いに静かになければいけないことを思い出して口を閉じる。小さく笑い合った。 悠大は風呂場のドアを閉じて、電気を消した。脱衣所からは、テンポ良く会話が聞こえ、しばらく途切れることはなかった。 FIN. もとは健全な小説だったのですが、いろいろな理由で表サイトに載せられなくなったのでこちらに掲載。キスシーンを無理矢理追加しました。せっかくの入浴シーンなので、色々やりたかったのですが。 悠大、勇也、雪夜は友人キャラクターです。悠大×雪夜かつ勇也→雪夜前提の悠大×勇也が大好きです! 悠大と勇也はComicにある「あったかい」に出てくる二人と同一人物です。 |