[Night Light]
夜、というのは、どうしてこんなにも寒いのだろう。運転を右手に任せて、勇也は左手でジャンパーを一番上まで閉める。 向かい風は否応なしに顔面に当たっては後ろへと流れていく。突起した鼻頭が冷たくて痛い。寒さを実感したとたん、身震いをする。少しだけ自転車がふらつき、勇也はハンドルを両手でしっかりと握りしめた。目の前の坂道を一気に上る。 街頭も少ない山道は真っ暗である。家も少なく、左手には森ばかりが広がる。施設の方へと向かえば住宅地に入るのだが、急な坂道の遮られ、町の灯りは見えてこない。熊でも出てきそうな雰囲気だ。 明かりがないだけで世界はこんなにも豹変してしまう。大して寒くもなく、動いた体は熱いくらいなのに、身震いする。明かりが欲しい。それは、自然に逆らい夜の世界を謳歌する人間のエゴなのだが、それでも望んでしまう。 施設に帰ったとしても明かりがついているか判らない。バイトが思いの外長引いてしまった。施設に帰る頃には十一時を過ぎてしまうだろう。就寝時間はとうに過ぎている。少なくとも彼の弟妹は確実に寝ているだろう。一番上の弟はすでに中学二年だが、まじめな性格なので就寝時間をきっちり守っている。 勇也がいるのは児童養護施設なのだが、普通の施設とは少し異なっている。少人数制の分園であるため、大舎制の施設のような規律があまりない。そのため就寝時間といっても、「睡眠八時間以上とれる時間に寝ること」という最低基準しか定まっていない。高校生に至っては「六時間くらい寝ていれば良いんじゃない?」という曖昧な基準だ。現に勇也も六時間しか寝ていない。部活にバイトに忙しい勇也には、睡眠時間がそれしかとれないのだ。 こういうときスポーツ推薦は困る。部活を休むわけにはいかない。部活を休む気など毛頭ないが、さすがにバイトでへとへとになった日は朝練に行くのが憂鬱になる。ペダルが重く感じられ、だんだんとペダルをこぐ力が弱まっていく。 坂を上りきった頃にはすっかり気が滅入ってしまった。眠い。この場で寝てしまいたい。帰るのさえおっくうになって、道ばたに止まった。 家に帰っても「おかえり」を言ってくれる人はいない。中学生はもう皆寝入っているし、高校生も、なかなか薄情なやつばかりだ。 高校生唯一の女児である沙羅はさっさと寝てしまうし、逆に勇也と同い年の悠大は勇也が寝る時間にもまだ帰ってこない。雪夜などは勇也が帰ってきても無視だ。雪夜、と思い出して勇也はうんざりした。 雪夜とは何となく気が合わない。何事にも執着心がなく、冷めた性格である雪夜は、熱血漢の勇也とはまるで行動がかち合わない。全て勇也が空回りするのである。勇也が空回るのを見て悠大はからかう。雪夜は無視する。我関せずだ。勇也が一生懸命やっていることなど何の意味もない、と暗に言うかのように。 考えていたらなおさら憂鬱になってきた。施設まであと数百メートルなのに……最大の難関である上り坂はたった今越えたところなのに、道のりはやたら長く見える。寄り道をして帰ろうか、とも思うが、元来真面目な性格の勇也はそれもできない。仕方なく、自転車を再びこぎ出して、闇を裂いて進む。 曇った夜の空は白っぽく見える。星の瞬きは見えないのに、かえって明るい。勇也のバイト先がある駅の方は、都市の明かりを反射してなおのこと曇り空は明るくなる。大地が闇に覆われているのに対し、空は浮ついていた。 変わり映えのない景色は夜の中で色を失っていく。また一つ右手に連なる家々から明かりが消えていった。 施設のある住宅街が、視界の端に伺えるようになる。まだ明かりを残している家が何軒か見え、闇夜に沈みきっていない住宅地に安堵する。森が途切れ家が代わりに連なり始めると、世界はほんの少しだけ明かりを取り戻した。 勇也の瞳が、かすかな違和感をとらえた。前方に黒い影のような物が見える。少し近づくと明かりに照らされた人影だということが判った。だんだんと影は大きくなるので、向こうは徒歩らしい。どうやら勇也と同じ方向に向かって歩いているようだ。 こんな時間に珍しいこともあるものだ。住宅地とはいえ、駅からは何キロか離れており、さして賑やかな場所ではない。店の類は少なく、夜に出歩いても行き場所などないのだ。道を行くのはここら辺に住んでいる、これから出かけるか今帰ってきた人間くらいだ。今の時間帯ではどちらもおかしい。勇也は少しペースを落として、その人影に近づく。 その人影が街頭の下を横切る。勇也は一瞬ぎょっとした。塀の高さと比較すると、その人物はかなり背が高いことが判る。たぶん一八〇以上はあるだろう。ミントグリーンの髪は日本でなくても異質だ。 それは勇也がよく知っている人物とちょうど同じ特徴だった。緑頭の背高のっぽ。かなり端正な顔立ちをしていて、スタイルも抜群に良い彼をそう称すると、大半の女性は怒る。とはいえ、勇也にはそれ以外上手い表現方法が見つからないので、勇也の中では「緑頭の背高のっぽ」が定着している。 一瞬声をかけるか否か迷ったが、どうせ行き先は同じだ。一メートルほどまで近づいて、自転車を降りる。「悠大」と、彼の名を呼ぶと、背の高いその人物はゆっくりと振り向いた。 形のいい高い鼻に、ちょっと薄情そうな薄めの唇。切れ長の瞳は疎ましげに半ば伏せられている。勇也の顔を認識すると悠大はあからさまに作ったような笑顔に切り替わった。 「今帰りかい?」 勇也が頷くと「遅いね」と続けられた。お前だけには言われたくないと抗議したかったが、今日は疲れていて反論する元気もない。バイトが長引いたということだけぽつりと呟く。それに悠大の場合、彼のいつもの帰宅時間を考えれば少し早いくらいだった。 勇也は自転車を押して悠大の隣に並んだ。人間さえ通らない道に車が通るはずもない。あまり広くない道路だが、二人は堂々と真ん中を歩いていた。それに万が一車が来ても、闇に近い中では車の明かりなどすぐに判る。 同い年ではあるが、性格の相違から二人は普段から会話が多くはない。悠大はどちらかと言えば雪夜と仲が良いのだ。話題もなく、黙々と施設までの道のりを歩く。長い数百メートルだ。もはや昼間ならば施設が見えるくらいの距離であろうが、闇のせいか今はひたすら長く感じられた。 ならば一緒に帰らなければいいのだが、見つけてしまったからにはかまわずにはいられないのが勇也の性格である。良くも悪くも、無視できないのだ。この上ないやりづらさを感じながら、お互い肩を並べているのは、奇妙であり、何より居たたまれなかった。 「今日は、どこいたん?」 あまりの気まずさに思わず口を開いた。勇也は敗北感を感じた。聞かなくても判る。野暮なことを聞いて、勇也はすぐに今の言葉を訂正したかった。悠大は一瞬勇也の方に視線を投げかけただけで、顔も見ずに「彼女の所」と答える。 そのまま会話をつなげたかったが、あいにく言葉が出なかった。元々口が達者ではない勇也にとって、無理に言葉をひねり出すことは不可能だった。話題提示だけでいっぱいいっぱいである。 帰りたい。そう切実に思った。救いなのは、帰る場所がすぐ近くにあるということだ。あとほんの数分耐えしのげば、温かい風呂に入って、寝るだけだ。ほんの数分。それがやたらと長い。 第一悠大は今日だって朝帰りだったはずだ。どうして今日に限って悠大が早く帰ってきたのか。帰ってこなければ帰ってこなかったで「なんとふしだらな」と勇也は憤慨するのだが、帰ってきてもどう接して良いのか判らないのが困りものである。釈然としなくて、思わず本音が口を出る。 「何で今日は早いねん」 勇也の言葉に不満の色が混じっていることに気づいてか、悠大はかすかに目を鋭くして勇也をにらみつけた。口元は笑っているもののあからさまに不機嫌だ。冷たい視線に、勇也は思わず身震いする。 慌てて自分に、これは寒さのせいだと言い訳する。背だけ高くてスポーツは人並みである悠大ににらまれた程度で怖じ気づいたとあっては情けない。幼い頃から空手を続けていて、有段者である勇也には、プライドがある。 悠大は何も答えずに足を速めた。急なスピードの変化についていけず、勇也は一瞬足を止める。悠大は長い足をずんずん前につきだして遠ざかっていく。それほど速く歩いているわけではないが、一歩が大きいから、あっという間に離されてしまった。 訳がわからなかった。とりあえず勇也は反射的に、小走りになって追いかける。自転車のペダルに足をぶつけて顔をしかめた。何の支障もないが、アザくらいにはなるかもしれない。 悠大の隣に並んでも、勇也はまだ小走りに近い状態でないとおいていかれそうだった。苛立たしく「何やねん」と問う。少し声のボリュームが大きくなってしまったのが自分でも判って、勇也は唇をぎゅっと結んだ。 悠大は突然立ち止まった。勇也は悠大の姿が消えたように見えた。驚きのあまり立ち止まって、左右を見渡す。後ろを振り返ると、ようやく不機嫌そうに眉間にしわを寄せた悠大を見つけた。 「お前、ちょっと今日はゆっくり帰ってこい」 勇也をにらみつけるような形で、悠大は言い放つ。言葉の意味が判らなくて、勇也は思わず首を傾げた。悠大は小さく舌打ちをした。そして、「いいから俺より遅く帰れ」と続けて、再び勇也を追い越していった。 いつもの悠大らしくない。目上の相手にもひょうひょうとした態度を崩さない悠大が、いやに感情的だ。それに、大人でさえも口で言いくるめてしまう口達者な人間が、今日は言葉が足りない。 様子が変なのはうかがえたが、勇也にはその原因がわからない。とりあえず言われたとおりに、悠大の後ろをついて歩く。帰る場所は一緒なのに、二人の間に開く微妙な距離。何となく寂しい気がした。確かに、勇也は未だ住人たちとうち解けきれていない。勇也とその弟妹は、施設に入った時期が一番遅い。しかし、あからさまに距離を見せつけられると、ぽっかりと胸に穴が開いたような気分だった。 悠大は肩越しに勇也を振り返った。あきれたように目を細める。つんとつり上がった眉毛がほんの少し穏やかになった。歩く速度をやや遅めて、距離を少しだけ縮めてやる。それに気づいた勇也がぱっと顔を上げて目をぱちぱちさせる。勇也の姿を横目にとらえ、悠大はついに口元を緩ませてしまった。 まるで主人と犬のようだ、と思われたことは、勇也は露とも知らない。悠大の機嫌が多少直ったのかと思い、安堵の息をつく。実際は、間抜けな勇也の姿を見て、腹を立てている自分が阿呆らしくなっただけだ。 いつの間にかまた二人は並んでいて、同時に施設の門をくぐった。勇也はそのまま門の左側に行き、塀の横に自転車を止める。施設の窓は雨戸できっちり塞がれていたが、談話室から明かりがかすかに漏れていた。誰かが起きているということに驚く。たいてい、十一時には全員寝付いてしまうのに。 背後で悠大がドアの鍵を開ける音がした。施設は小学生たちが寝てしまう九時には鍵をかけられるが、帰宅の遅い勇也と悠大には特別鍵が渡されている。その鍵を使わずに施設に入るのは久しぶりのことかもしれない。悠大が開けっぱなしにしたドアをくぐりながら、勇也はかすかな新鮮味を覚えた。 「ただいま」 靴を脱いでいると、悠大が抑揚のない声でぽつりと言うのが聞こえた。悠大からその言葉を聞くのも珍しくて、なんだか違和感を覚えてしまう。返事は帰ってこないと思ったのだが、「ゆう」と驚いたような声が耳に入ってくる。勇也も悠大も同じ「ゆう」なので、勇也は一瞬どきりとする。しかし施設で「ゆう」と呼ぶのも呼ばれるのも、一人しかいない。 「本当に勇也より早く帰ってきたのか」 続けられたその言葉に返事をしたのは、悠大だった。玄関からは談話室にいる人物がうかがえないが、声だけでも察しがつく。勇也と悠大が玄関にいるのだから、男の声という点だけで二人に絞れる。しかも悠大を「ゆう」と呼ぶのは彼しかいない。雪夜だ。 「おかえり」 つぶやき程度の声だったが、その言葉はやけに大きく勇也のもとに届いた。勇也が欲してももらえない言葉。雪夜の口から一度も聞いたことのなかった言葉。悠大には言うのかと思うと、悲しくなってくる。 勇也は、そういう些細な言葉に飢えている。いなくなった両親の穴を埋めるようにして、中学生の頃から近所の店に頼み込んでバイトをしていた。その頃から帰りは遅くなり、「おかえり」を言ってくれる人はいなくなった。「いってらっしゃい」は施設に入ってからやっと言ってもらえるようになった。それでも、「おかえり」と言ってくれる人は未だ少ない。 ショックで勇也はしばらく立ち上がれなかった。玄関に腰掛けたまま硬直している。悠大と雪夜が話している声が聞こえる。会話に笑いが入り交じると余計にわびしくなる。明かりの中に入っても、自分の所だけ光が行き届いていないような、孤独感を感じた。 靴を脱ぎ捨てて足を抱え込む。悠大の靴と勇也の靴が並んでいたが、悠大の靴が小ぎれいなのに対し、勇也の靴はでかくてぼろぼろだった。靴までも惨めだ。 勇也は靴を隠してしまいたくて、靴入れの戸を開ける。施設の人間の靴は全部そこにしまわれている。靴のサイズの順番に並んでいて、勇也の靴はいつも一番端っこに収納される。ついでに悠大の靴も隣に入れる。結局、収納しても惨めさはあまり変わらなかった。 会話が途切れて、誰かが二階に上がっていくのが聞こえた。足音だけでは誰なのか判然としない。階段は玄関からでも振り返れば見えるのだろうが、頭を動かす気力もなかった。 だから、背後に人影が近づいていたことにも気づかなかった。「勇也」と名前を呼ばれて、勇也は心臓と背中がひっくり返るのではないかというほど跳ね上がった。その反応に、声をかけた方も思わず後ずさる。勇也はしばらく一気に脈打ち始めた心臓を押さえて、呻いた。相当驚いたらしい。 「玄関で何やってんだよ。帰ってきたんならさっさと入れ」 見上げると、背後には雪夜が立っていた。いつもは見下ろしてばかりの小柄な雪夜を見上げるのは、不思議な感じだ。 勇也の顔をのぞき込むようにして、雪夜が体を斜めに傾ける。雪夜のさらさらとした長めの髪が、彼の顔にかかった。蛍光灯に照らされて、透き通った髪はきれいな青色に光る。朝と夜の間に少しだけ見えるような絶妙な青。とてもきれいで、勇也は一瞬見惚れた。 返事がないので、雪夜は顔をしかめる。勇也ははっとして頷く。雪夜は不満げに背を向けて、談話室の方へ消えていく。 追いかけなければいけないような気がして、勇也も慌てて談話室に入った。雪夜は暇つぶしに読んでいたのであろう本を談話室の本棚に戻していた。背表紙からして推理小説の類だろう。 かける言葉がなくて、勇也は後頭部に手をやる。どうして今日は雪夜までいるのか。思わず、今日が何の日だったか考えてしまう。何の変哲もない金曜日だ。十三日でもない。強いて言えば、朝練があった。雪夜も朝練がある日で、今日は一緒に朝食を取った。――だからといってそれは特別珍しいことではない。 特に言うこともなくて、何となく「ただいま」と言ってみた。我ながら奇妙なタイミングだと勇也は思う。雪夜は勇也の方を振り返ることもなく談話室を出ていこうとする。やはり返事など返してくれないか。ほんの少し落胆しつつ、勇也はきっちり閉ざされた窓の方に目を向けた。 「おかえり」 幻聴かと思った。息を飲む。目を見開いてはじけるように雪夜を振り向いたが、雪夜は勇也に背を向けるばかりだった。その表情はうかがえない。 やはり気のせいだと思った矢先、雪夜がかすかに視線を投げかける。何かを訴えかけるようににらむが、何も言わずにそらした。不満げな色。一体何が不満なのか。 そもそも、どうして談話室で誰かを待つように本を読んでいたのか。悠大に言った言葉の意味は何だったのか。悠大の機嫌が悪かったのは何なのか。そして今、どうして雪夜は機嫌を損ねているのか。勇也は思考回路がショートしてしまいそうだった。 聞き間違いなどではない。直感的にそれだけは悟った。何となく、口が開いた。 「ありがとう」 大きめの声で言ってから、談話室の向かいの部屋で住み込みの従業員である佐伯が寝ていることを思い出した。勇也の母親の知り合いだったらしい佐伯には、施設でとても世話になっていた。 勇也が慌てて口を塞ぐのを見て、雪夜は吹き出した。慌てている勇也の姿は傍目にも慌てているのが判って面白い。雪夜の顔を見て、勇也は情けない顔をした。 「何で笑うん」 「勇也の動きが面白くて」 雪夜が正直に言うと、勇也は首を傾げて自分の体をまじまじと見る。「何がおかしいねん」とぶつぶつ漏らす。それがまたよく判らない笑いを誘った。 「あと、おかえりって言われたらさ」 二つ目の回答に、勇也は顔を上げた。雪夜は普段はほとんど動かさない唇を穏やかにつり上げた。苦笑に近い笑み。だけど、雪夜がやると様になる。 悠大も整った格好良い顔立ちをしているが、雪夜はきれいな顔立ちをしている。つり目がちの瞳は大きく、長いまつげがそれを彩る。形のいい鼻に柔らかそうな頬は、ニキビ一つなく滑らかだ。ただ、真っ白な肌は低血圧のせいか赤みが足りない。しかし微笑む姿はさながら天使のようだ。 勇也はびっくりした。無表情の雪夜しか頭にインプットされていなかったので、想定外の笑顔は、たとえ苦笑でも勇也にとっては衝撃的だったのだ。こんな顔もするのかと思わず感心してしまう。幻想的な空間に迷い込んでしまったみたいだ。 「普通、ありがとうなんて返さねーよ」 思い出してまたおかしくなったのか、雪夜は笑みを深くする。 ありがとうと言ったのは、嬉しかったからだ。嬉しかったから礼を言うのは別におかしいことではないと思う。勇也はやっぱりおかしい理由が判らなくて首を傾げた。 勇也は他人の気持ちに鈍感だ。だから気がつかなかった。雪夜がおかしくて笑っているのではなく、嬉しくて笑っているのだということに。たった一言に喜んで、礼を言ってしまうような、そんな勇也の態度が嬉しかったのだ。 お互い言葉を交わす方ではないから、いつまで経っても交差しない想い。それでも、何となく相手の喜怒哀楽くらいは判るようになってきた。まだまだ距離は遠い。でも確実に近づいている。逆に、何も言わなくても多少の意志が伝わるこの状態が、お互い嫌いではなかった。 雪夜は寝間着代わりのジャージの上に羽織ったカーディガンを押さえて、小さく身震いする。みんなが寝静まったあとの談話室は、暖房が切られていて、徐々に夜の寒さに浸食されつつあった。 帰宅直後の勇也にとっては、家の中は十分暖かい。迎えの言葉に、ぼんやりとした光があって、冷たい外気を防いでくれる室内。帰り着く場所は、とても暖かかった。 雪夜は「おやすみ」と残し二階へ上がっていく。かじかんだ手をぎゅっと握りしめていた。勇也は風邪を引くなということだけをその背中に投げかける。雪夜は片手を挙げてそれに応えた。小さな背中は、階段の踊り場を曲がって、見えなくなった。 家の中、というのは、どうしてこんなにも暖かいのだろう。勇也はほてった両手を握りしめる。肩のカバンを床に下ろし、背中のリュックを無造作に談話室のソファーの上に放り投げた。 ジッパーを下ろし、勇也はジャンパーを勢いよく脱ぎ捨てた。 |