[本音記念日]
思えば、体育着は泥だらけで、しりもちも付いてしまったから、下着までぐっしょりだった。 このままで帰るのはまずいだろうと言うことで、僕は一度優司の家に寄った。 優司の家は、共働きの上に二人とも重役なので、なかなか大きい。 代わりに、両親はほとんど家にいないそうだ。 確かに、中学時代授業参観で優司の親を見たことは一度もない。 しかも優司が高校に上がったことを良いことに、出張や単身赴任などでほとんど帰ってこなくなったそうだ。 それを良いことに、僕は頻繁に優司の家に遊びに来るのだが。 そのれは優司から誘われたためであって、やっぱり優司も淋しいのだと思う。 洋風な煉瓦の塀に沿って歩き、しばらくすると入口が見える。 車が並んで出入りできそうなくらいに大きい。 黒い大きな柵がその入口を塞いでおり、優司はポケットから小さな鍵を取り出してその柵を開けた。 厳重である。 ちなみにこの柵を越えようとすると、警報ベルが鳴る。 一度ふざけて乗り越えたら、ベルが鳴ってしまい、こっぴどく怒られたことがある。 玄関以外も、塀を乗り越えると鳴ってしまうから気を付けるように言われた。 小さい動物なら鳴らないようで、野良猫や鳥は平気で中へ入っていった。 玄関までクリーム色の道が続く。その脇には芝生が植えられていて、色々な植物が植わっている。 右手方向には灰色の車庫があって、今はシャッターが閉じられていた。 家は白を基調としていて、屋根は赤かった。 どこまでも西洋風の家だ。 最初入った時は、この家の中だけ別世界に感じた物だ。 それだけ、周りとは雰囲気が違った。 大きな白いドアは、鍵が二つついている。 優司はそれを、それぞれ違う鍵で開け、ドアノブを引いた。 ドアが外側に開き、そこからさらに広い玄関がのぞく。 黒い靴箱が横に置かれていて、外に出ている靴は数足しかなかった。 全て優司の物だろう。 僕はアイボリーのタイルを汚さないように慎重に歩き、角にそろえて靴を脱いだ。 「創は変な所で律儀だよな」 「誰でも、これだけ豪華な家に上がる時にはビビリます」 生まれた時からこの家に住んでいる優司には判らない。 一般家庭で育った僕には、この家は広すぎた。 フローリングの床を進み、ドアを開けると、居間がある。 そこはやはり広くて、淡い緑の絨毯に群青色のソファーは草原を思い出させてどこか落ち着いた。 僕はそのソファーがお気に入りだった。 「じゃ、俺はコンビニ行ってくるからお前シャワー浴びてろ」 優司が鞄をソファーの脇に置いて、言う。 外側のポケットから財布を取りだして、制服のポケットにつっこんだ。 ……お前は制服のまま行く気なのか。 こういう所を気にしないのが優司の性格だ。 僕が言ってくるよと言っても、結局は言いくるめられてしまうに決まっているから、「行ってらっしゃい」とだけ言った。 優司は満足げに笑って、「行ってくる」と返した。 さて、僕は優司が帰ってくる前にシャワー室の中にいなければならない。 遅いだの何だの説教されては、時間がもったいない。 リュックの中から制服を取りだして、リビングを出て風呂場の方へ向かう。 風呂場は廊下の一番奥にあった。 ドアを内側に引くと、広い脱衣所が出てくる。 小さなホテルの入浴所くらいの広さがあって、角には最新の洗濯機が置かれている。 この前来た時と違うから、また買い換えたのか。 贅沢だな、と思いつつ、その隣に置いてある上の方のかごに服を入れる。 下の方に、脱いだ服を入れた。 入口から見て右側が風呂場である。 左側は驚いたことにサウナだ。 優司はこのサウナがお気に入りらしくて、一緒に風呂にはいると必ず上がった後でサウナに入らされる。 暑いのが嫌いな僕には、何が良いのか判らなかった。 風呂場は広々としていて、淡い青系のタイルが敷き詰められている。 浴槽はこれまた大きくて、窓からは綺麗な庭が見えた。 夜になればイルミネーションが見られる。 普段は電気代の関係で消しているらしいが、僕が泊まりに来た時は、いつも付けてくれていた。 シャワーの蛇口をひねる。 冷たい水が噴き出してきた。 気持ちいい。 雨に当たっているようなこの冷たさが好きだった。 さすがに裸で雨に当たるわけにはいかないから(そうしたら僕は犯罪者だ)、せめてシャワーを浴びる時だけその感覚を楽しんでいた。 シャワーの下に置いてあるスポンジをぬらして、シャワーを止める。 石けんを付けて思いっきり泡立てた。 石けんを泡立てないと綺麗になった気がしないので、ついつい泡立てすぎて泡だらけになってしまう。 スポンジを肌にこすりつけて、泥をきれいに洗い流した。 泡を全部流したら、頭も洗う。 シャンプーのポンプを二回押して、おもしろいほど泡だった泡でシャボン玉を作った。 優司の家のシャンプーは泡立ちが良いので、密かにこれをやるのが楽しみだったりする。 優司の前でやったら無駄遣いを怒れそうなので出来ないが。 玄関の方で音がした。 優司が帰ってきたらしい。 優司は脱衣所の中に入ってきて、僕の方へ一言叫んだ。 「創ー、パンツここに置いておくからなー」 「ういー、サンキュー」 僕の返事を聞くと、優司は脱衣所を出ていった。 さて、優司も帰ってきたことだし、上がるかな。 もとより風呂にはいるのがあまり好きではない僕は、上がるのも早い。 頭をすすいで、床のタイルの泡も綺麗に流したら、脱衣所へ出た。 脱衣所には、今優司が持ってきてくれたらしく、ふかふかのバスタオルが用意されていた。 バスタオルでガシガシ乾かしたら、制服のワイシャツを着る。 新しく出したばかりのそれは、ボタンが硬くて着にくかった。 次に、優司が買ってきてくれたパンツを袋から出す。 僕はブリーフ派なんだけど、優司が買ってくるのはいつもトランクスだ。 優司の好みらしい。 トランクスに足を通して、ズボンを履いて、僕は脱衣所を出た。 「上がったよー」 居間に戻ると、優司がお茶を煎れていた。 多分、僕好みにぬるく甘くして。 優司は私服に着替えていて、今は黒いシャツに紺のジーパンを履いていた。 どうせ着替えるんなら買い物行く前に着替えようよ。 どこか抜けた感性の持ち主に、僕は呆れてため息をついた。 優司の隣に座って紅茶を飲む。 甘くておいしかった。 「創ってさ」 紅茶を持ったまま優司の方を向くと、緩やかな笑みとぶつかった。 「小動物系だよな」 「……喧嘩売ってる?」 「誉めてます」 年頃の男児に小動物とは、とても誉めているようには聞こえない。 背が小さいと言いたいのか。 それとも無駄にせかせかしていると言いたいのか。 「可愛いってコトだよ」 可愛い。 そう言えば、あの人にも言われた。 砂原先輩にも。 僕は紅茶を置いて、少し間をおいてから、口を開いた。 「そういえば、さぁ」 「ん?」 「今日砂原先輩にキスされた」 少し、唐突だったかも知れない。 ガラスの割れた音がして、ぎょっとして振り向けば、優司がコップを落としていた。 白い陶器が散り、紅茶が白い机にシミを残す。 幸い血は出ていないようだった。 「何やってんだよ」 俺も優司も裸足だったので、危ないと思い、足をソファーの上に引っ込める。 そのままソファーの上から床に下りようとしたら、急に上から力がかかった。 ソファーにうつぶせになって、訳が分からずに顔を埋める。 上を向こうとしても、何かが肩の上に乗っていて動けない。 恐怖に心臓がばくばくしている。 何が起こったんだ。 理解できずに、涙が出た。 「ゆーじ……助けっ」 うつぶせになっているせいで上手く声も出ず、呻いただけだった。 だけど、ふいに力が緩くなった。 上半身を抱きかかえられ、仰向けにさせられる。 そこには優司の顔があって、落ち着きを取り戻した。 「な……に?」 「何で」 優司は怒っているみたいだった。 眉間に深くしわを寄せ、僕をにらんでいる。 悲しくなった。 優司を怒らせてしまったことがたまらなく悲しかった。 「何で、キスなんてしたんだよ」 優司の言葉はあまりにも痛々しく聞こえて、何も言えなかった。 どうすれば優司の気が済むのか判らなかった。 何で怒っているのかも判らないから、どうすれば慰められるのかも判らない。 僕は優司に抱きしめられた。 大きな胸に僕はすっぽりと納まってしまう。 同い年なのに、この体格差は非常に悔しい。 コンビニ帰りの優司の体は、火照って熱かった。 でも、心臓の鼓動が早いのは、興奮しているせいだろう。 優司は何かの感情を抱えているんだ。 友達として何も出来ない。 優司は数え切れないほど僕を助けてくれたのに。 ふがいなさに憤りを覚える。 「どうして怒ってるんだよ、優司」 結局判らなくて、聞いてみる。 脳みその足りない自分がばからしい。 優司は、呆れたのか、だまりこんでしまった。 「優司?」 腕から這い出て、見上げると、心底追いつめられたような優司の顔があった。 胸が痛くなるその表情に、僕は息を飲む。 いつの間にこんなに苦しんでいたんだろう。 どんな言葉をかければ良いんだろう。 考えている内に、あごが引かれた。 そのまま熱い物が降ってくる。 砂原先輩のよりも深く、熱い、優司の口付けだった。 心臓が跳ね上がる。 明確なその熱はすぐに全身に伝わっていく。 柔らかい感触とか、優司の匂いとかがハッキリと感じられて、その全てに全身が満たされていくようだった。 ただ、この熱が気持ちよかった。 熱に溺れてしまいそうだった。 音が全てなくなった。 熱を感触だけが残った。 全てがこの瞬間に注がれていた。 多分、とても長い時間だったと思う。 唇が離れた頃には、二人とも息が上がっていた。 激しい口付けに、二人の口から銀の糸が引く。 唾液がこんなに淫らに見えたのは初めてだった。 「あいつとのキスは気持ちよかったか」 耳元でささやくように言われて、ゾクゾクと来る。 あいつ、を砂原先輩と変換するのに時間がかかった。 優司との時間に溺れていたのに、いきなり別のことを持ち込まれて、少し残念だった。 「知らない。 いきなりだったし、一瞬だったし、とにかくびっくりした」 正直な感想だった。 唇の感触すら覚えていないのだ。 覚えているのは、冷えた顔面に突然降り注いだ熱だけ。 その熱も、優司の熱に溶かされて覚えていない。 「あいつのこと、好きなのか」 「判らないよ。 何でキスされたのかも判らない」 優司が一瞬、押し黙った。 「もしかして、俺が今キスした理由も判らない?」 僕は首を傾げた。 「当たり前だろう?」 僕は何も言わなくても察すほど、気の利いた人間ではない。 他人に興味がない人種なので、あまり推察しない。 それに、悪く思われているかも知れないという不安に、押しつぶされそうだから。 優司の腕が、急に退いた。僕は自分の腕で体を支える。 優司は頭を押さえて、重いため息をついた。 「……少し、あいつに同情する」 「何がだよ!」 良いようには言われていないのを察し、優司の頬をつねる。 この顔がさっきまで僕の顔とくっついていたのかと思うと、少しドキッとした。 そう思ったのもつかの間、今度は優司も僕の頬を引っ張ってきて、 間抜けな引っ張り合いになった。 うわ、何だろうこの情緒の欠片もない雰囲気。 いや、僕が最初にやったんだけどさ。 「いひか、はひめ」 「よふない」 引っ張られたまま話し出すのはよせ。 しかも至極真面目な顔なのでなお悪い。 僕は仕方がないので、手を放してやることにした。 でも、優司の手はまだ僕の頬をつねったままだ。 しつこいってば。 「良いか、創」 優司は、呆れたように言う。 僕としてはあまり良くなかったが、とりあえずうなずいた。 優司には、砂原先輩の言う答えが判っているみたいだから。 「俺も、砂原先輩も、みんな」 僕は息を飲む。 一体どんな事実が宣告されるのか、怖かった。 優司の唇の動きが、いやにゆっくりと見える。 怖いことを聞く前に、耳を塞いでしまいたかった。 雨の中へ行くように。 雨音で全てを消し去ってくれるように。 「お前のことが好きなんだよ」 雨の音がうるさかった。 それは雑音だと思った。 雨の幻聴で、都合の良い言葉が聞こえたんだと思った。 反応に困って虚空を見る。 「えっと」と切り出した物の、実は何も思いついてはいない。 「つまり、俺って人気者?!」 「何か違う」 即答されて、少し落ち込んだ。 やっぱり、都合の良いように聞き間違えていただけなんだ。 早とちりで、しかもナルシズム的で、恥ずかしかった。 雨よ雨よもっと降れ。 いらない言葉なんてかき消してしまえばいいのに。 流してしまえばいいのに。 涙が出てきたけど、何も流していってやくれなかった。 また唇に何かが触れる。 そっと触れるだけの、柔らかいキス。 いきなりの行為に驚いて、僕の思考回路は止まってしまった。 「ちゃんと聞け」 言われた言葉に、頷くしかなかった。 「俺が最初にお前に興味を持ったのは、入学式の時。 中学校に上がったばかりで、初めての制服にみんな緊張してたのに、お前、盛大なくしゃみぶちかましてくれただろ。 すごい無頓着な奴だと思った。 周りととけ込まないし、それでも堂々としている。 大人びてると思った。 だけど、雨降っている中でお前、震えてたし。 傘も差さないで、校庭の真ん中に一人突っ立ってて、泣いてるみたいで」 「泣いてないよ」 「雨が降ってたからそう見えたんだよ。 捨てられたウサギみたいだったしな。 その時やられた。 可愛すぎて、気が付けば話しかけていた。 俺の物にしたくて、俺の物にしたくて。 そういう好きなんだ。 恋人にしたい、独占したいっていう。 わかったか?」 思い出話をされて、僕はただただ唖然とした。 出会った時から、そんなことを思われていたなんて。 嬉しい反面、少し悲しい。 ずっと本音を隠されていたなんて。 僕は優司を抱きしめた。 優司の体は大きくて、僕の両手でやっと掴めた。 そうしていたかった。 本能だった。 本音を知ることが出来て、嬉しくて、抱きしめたかった。 「……それは、本音」 「当然」 優司も抱き返してくれて、僕は今日が四月一日でないことを確かめた。 ウソじゃないよね。 友達でも、キスするのはそんな軽いコトじゃないよね。 好きだからキスしてくれるんだよね。 確かめるように、強く強く抱きしめた。 優司も、同じように抱きしめた。 今日は記念日にしよう。 本音を言い合えた記念日だ。 今日は本音記念日。 そうしよう。 |