[本音記念日]



パコンと軽快な音がして、黄緑色のふさふさしたボールはネットを越えて
向かい側のコートへ飛んでいく。
息を短く吐いて、次に来るボールを捕らえる。
一歩前へ出て、ラケットの真ん中にボールを当てると、弾性のある刺激が手に伝わってくる。
これは良い当たりだ。
ボールは弧を描いて、ネットすれすれを通り、そのまま地面に転がった。

まだ一年生の身分では、延々と球打ちである。
テニス部内では、権力を持ち始めるのは二年生からだった。
運動部にありがちな権力分布である。
長年、同じようにしごかれてきたから、誰もその伝統を変えようとしない。
機械的に受け継がれてきた伝統は「俺がしごかれたから俺もしごいてやる」という
非常に大人げない感情により伝わっている。
何とも滑稽なことだ。
他人事のように考えながら、僕は先輩が投げてよこすボールを返す。
他の一年生が、変な方向へ飛んでいった球を拾い集めていた。
人数の割にコートを使えないので、交替で練習しているのだ。
僕ももうすぐノルマ達成だから、そろそろ交替する時間か。

右に、左に、フットワークを駆使して短い距離を走らされる。
コートの半面しか使えない状況を幸いに思った。
これで端から端まで走らされたら、確かに疲れる。
普段、部活以外ではほとんど動く機会のない僕は、基礎体力が足りていないらしい。
息を切らしながら、これからは少し運動を心がけようと考える。
最後のボールをスマッシュでたたき込み、僕は流れてくる汗をぬぐった。

すぐに今までいたコートを抜ける。
そこに別の一年が入ってくる。
僕は木の下に置いておいたカバーの側にラケットを置き、急いでボール拾いに入った。
先輩の舌打ちが聞こえた。
背中越しに、対面する一年生を見ると、僕は至極納得した。

綺麗なフォームでラケットを構え、とても安定した印象を受けるそのシルエットは、僕の良く知るものだった。
中学一年の頃から世話になっている友人、中畝優司(なかせゆうじ)だ。
彼は自他とも認める上手さで、先輩でもなかなか敵わない。
確か中学時代も、あいつはテニス部だった気がする。
僕は高校になって始めたが、あいつはキャリアと、それとやる気が違った。

ボールが中に投げられると、優司はバネのように反応しすぐに打ち返した。
そのボールは重く、地面にたたきつけられた時の音が違う。
ボールを見据え、腰を落とす優司は、
「来い」と全身のオーラで挑発しているようにも見えた。

友達ながら、この姿は自慢したくなるほどカッコイイ。
と、思っているんだけれど、どうにも感情表現が苦手な僕は、たまに「あいつが友達で何とも思わないのか」と聞かれる。
本当はとても誇らしく思っているのに、なかなか伝わらない。

僕は優司の顔を見た。
生き生きしている。
獲物を見つけた野生動物のよう。
食らいつかれたら、そのまま生を諦めるしかないような気迫に満ちている。
僕にはまるで気づいていない。
おそらく、今は彼の中はコートの中が世界の全てだ。

僕に向かってボールが飛んでくる。
僕はそのボールを掴もうとして、でもするりと横を抜けていった。
掴めない。
掴みたいんだけど掴めない。

雨の水のように流れ、僕はそれをすくうことは出来なかった。

「こらー、創(はじめ)っちゃん」
後ろから抱きすくめられて、僕はびっくりした。
独特の呼び方をする人は一人しかいないから、犯人はすぐに分かる。
「手でボール掴んじゃ駄目だろ。
危ないだろ」
僕の手を覆うように包み込む。
手の大きさが圧倒的に違うのは、多分身長の違いだろう。
170にすら届かない僕に対して、この人は180を越えているとか聞いたことがある。
優司もなかなか発育が良いが、彼には少し身長が追いつかなかった。
「砂原先輩」
見上げて彼の顔を見ると、ムードメーカーらしい深い笑みを浮かべた。

二年の砂原先輩は、多分部でも1,2を争うほど上手い。
リーダーシップを取るのが好きなようで、部の雰囲気は彼の活躍に左右されていた。
面倒見も良く、一年生から人気の高い先輩だ。
ただし、素質のある一年生をしごくという困った癖はあるが。
優司も砂原先輩の眼鏡にかなってしまったようで、しっかりしごかれている。

ばずん、と大きな音がして、ボールが僕の横を飛んでいった。
ものすごい速さだ。
コート内がざわめいた。
誰が打ったのかは判る。
僕は正面へ顔を向けると、あからさまに不機嫌な顔をした優司と目が合った。
怖い。
心臓をわしづかみにされたような感覚に、血の気が引いていく。
砂原先輩が胴を押さえてくれていなければ、倒れていたかも知れない。

「大丈夫?」
上から聞こえる声に、うなずいて答える。
砂原先輩はコート脇に刺さった時計を見上げ、手を大きく叩いた。
「今日の部活はこれで終了!
各自、道具を片づけるように!」
先輩の声を合図に、全員ぱっと行動を切り替える。
部長顔負けの統率力だ。
人気があるのでみんなの反応も良い。

先輩は僕を抱きかかえるようにして持ち上げ、耳元でイタズラっぽくささやいた。
「今日はゆっくり休めよ?」
僕は驚きに目を開いて、慌てて先輩の顔をのぞき込む。
「そんな、僕、すみません」
気を遣わせたことに気づいて動転した。
そこまで体調が悪かったわけじゃない。
先輩は僕を抱きかかえて、ポンポンと二回肩を叩く。
「良いんだよ。
今日は暑かったからな」

ああ、この人は何てすごいんだろう。
今さらながらに感動してしまう。
人の気遣いを怠らずに、自分の信念もしっかり突き通す。
たった一つ年が違うだけとは思えない。

僕は地面に足が着いてからも、しばらく先輩にしがみついていた。
すぐに片づけをしなければならないことに気が付いて離れたが、
その間、優司の顔がずっと険しかったのは、気のせいなのだろうか。
「じゃあ気を付けて」
僕は声を掛けてくる先輩にお辞儀をして、そのまま立ち去った。
優司の視線が、いつまでも痛かった。



今日は早めに解散していて良かったと思う。
片づけが終わって、着替えを始める頃に、ぽつぽつと雨が降り出した。
すごいタイミングだ。
判っててやったわけではないだろうが、僕は思わず砂原先輩の方を見てしまった。
僕に気づくと手を振ってくれる。
僕も手を振り返した。

僕は着替えないで部室の隅に座っている。
久しぶりに雨が降ったから、濡れていこうと思って。
それは、僕の性癖だった。
雨が無性に恋しくなるのだ。
雨に濡れるのが好きだった。
僕が変人扱いされ、みんなから阻害されている理由だ。
僕は大してそれを気にしていないし、優司や砂原先輩が僕にかまってくれるだけで現状に満足している。
優司は僕のこの性癖にずっとつき合ってくれているわけだし。

このまま何もせずに人の着替えを見ているのもあれだから、僕は外に出た。
雨の滴はまだ小さく、外に出てもあまり支障はない。
僕はもっと強い雨の中に行きたいのに。
まだ周りには僕でなくても傘を差していない人はいっぱいいた。
灰色の空から降り注ぐ雨粒は、光に当てられ白くきらめいていた。

「何してるの〜?」
後ろからかかった声に振り向く前に抱きすくめられた。
「ひゃう?!」
思わず変な声が出て、慌てて口を押さえる。
思いがけずしゃっくりが出た時のような声。
腕の力が強くなった。
「かーっ! 可愛い!」
背中から体温が伝わってくる。
熱い。
僕は顔まで真っ赤になって、腕をぶんぶん振った。
「はないてくださいっ」
途中で噛んでしまって、何とも説得力がない。
しゃべるのが苦手でずっと黙り込んでいたら、いつの間にか言葉のしゃべり方まで忘れていまい、上手く発音できなくなってしまった。
情けない情けない。
どこかへ消えてしまいたい気分だ。
だけど、背中から伸びる腕は僕を放してくれない。

やっと腕が離れた頃には、部室から半分ほど人間がいなくなり、雨もいよいよ本格的に降り出した。
僕はゆっくり息を吐いて、僕を捕らえていた張本人を見上げる。
「何なんですか、砂原先輩」
砂原先輩はもう制服に着替えていて、スタイルが良いから第二ボタンまで開けただらしないスタイルも格好良く似合っていた。
砂原先輩はわびもせず、ニカッと笑う。
「だって、可愛いじゃないか」
「ごまかさないでくださいよ」
用があったんじゃないのか。
用がない限り口を開かない不精者の僕にしてみれば、何も言い出さない先輩が判らなかった。

しばらく黙り込んだままにらみ合う形になる。
先輩は人なつこい笑みを浮かべたままなので、僕が一方的ににらんでいる。
先輩は辺りをキョロキョロと見回した。
つられて僕も周りを見るが、誰もいない。
部室にはまだ人が残っているだろうが、雨が降っているので外に出てくる気配もない。

肩をつつかれ、上を見る。
そこには先輩の顔があったけど、それはいつもとは違う表情でびっくりした。
真剣な表情だけど、試合中のそれとは違う。
違った気迫のような物がある。
僕は無意識のうちに脅えて、先輩から離れようとした。
しかし、足を半歩下げた所で、顔を捕まれる。
先輩の大きな手が僕の頬を両手で覆う。
僕の体温が低いせいか、先輩の手は熱かった。

次の瞬間、もっと熱い物が顔面に降ってきた。
顔が全体的に熱くなって、すぐに冷めていったから、僕は何が起こったのか判らなかった。
何かが顔に触れた気がする。

放心状態の僕に、先輩は満足げに言った。
「キス、初めて?」
その言葉で、僕は自分の身に何が起こったのかを知った。

顔が赤くなる。
心臓の鼓動が急に早くなった。
胸が締め付けられるようだ。
キスなんて初めてに決まってる。
今まで気持ち悪いと言われ続け、友達すらもろくにいなかったくらいだ。
人に触れることすらあまりなかった。
抱きしめられたのだって、砂原先輩の過剰なスキンシップが初めてだった。

何でだろう。
行動の真意が分からなくて、ずっと問いかけていた。
パニックに陥った頭では、何も思いつかない。
判らなくて、先輩の制服の裾を掴んだ。
「何で」
「何でって、答えは一つしかないじゃないか」
先輩はきっぱりと言った。
僕には、それが判らない。
その一つしかないという答えが判らなかった。

「じゃあ、宿題。
明日までに答えを考えとけよ」
砂原先輩は僕の頭を数回なで回す。
少し伸びてきた髪の毛に癖が付いた。
紺色の大きめの傘を開いて、雨の中へ先輩が消えていく。
途中で振り返って、手を振った。
僕は小さく手を振り替えして、その姿を見送った。

雨は強く降りしきっていた。



「お前、何やってんだよ」
降ってきた声に顔を上げれば、優司がいた。
傘を差した彼が僕の真上に立っているので、雨が落ちてこなくなった。
僕は体操着のまま、校庭の海でうずくまっていた。
一面見渡す限りの水たまりの中に、裸足で僕はしゃがみ込んでいた。

体操着は雨でびしょぬれで、肌にくっついて冷たかった。
髪は雨の重みでへばりついてくる。
だけど、体は火照っていた。
砂原先輩の言動が僕を捕らえて離さない。
何でキスしたんですか。
僕には重すぎる事実だった。

雨で流れてしまえばいいと思った。
なかったことに出来ればいいと。
だけど雨はただ冷たいだけで、僕の体すら冷やしてくれなかった。

優司が僕の頬に手を置く。
先ほどの記憶が蘇り、無意識のうちに振り払った。
その反動でしりもちを付く。
泥が服に飛び跳ねた。

優司が顔をしかめる。
「どうしたんだ」
低い声が肌をくすぐる。
酔ってしまいそうになるのをこらえて「別に」と言った。
「そんなわけないだろう。
捨てられた犬みたいに行き場のない顔してたぜ」
言って、優司は僕の鼻を掴む。
そのまま、上に思いっきり引っ張った。
痛さのあまり、立ち上がってしまう。
文句の一つ言う前に、ばからしさに黙り込んだ。

いつもこうだ。
優司は手をさしのべる代わりに鼻を引っ張る。
そうやって僕を引き上げる。
荒っぽくて自分勝手だ。
だけど、僕は手をさしのべられてもきっと掴もうとはしない。
優司はそんな僕をいつも引っ張っていく。
どこかへ流されていかないように。
雨の中に消えていかないように。
中学校の頃、初めて声を掛けてきた時から、優司はずっと雨の中で踊り狂う僕が帰ってくるのを待っていた。
雨の中から出てきた時、いつもそこには優司がいた。

僕の手を掴んで、優司は部室の方へと引っ張っていく。
僕は優司が濡れないように、極力離れて歩いた。
校庭を突っ切る間、無言だった。
どこか怒っているようにも感じられた。
優司の顔をのぞき見る。
感情を読むのが下手な僕には、よく判らなかった。

僕は部室の前で待たされて、大きなビニール袋に入ったリュックを渡された。
僕自身がびしょぬれなので、濡れないようにビニールに入れてくれたのだ。
「ありがと」
「何年一緒に帰ってると思うんだ、今さらだろ」
相変わらず人の言葉を素直に受けとらない優司に、僕は苦笑した。

僕の気持ちは少しだけ安らいでいた。
雨も流しきれなかった物を、簡単に洗い流していく。
優司は雨よりも荒っぽくて、暖かくて、優しかった。



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