[友人以上]


 事件というのは往々にして突然起きるものである。
 普段俺たちは、日常的に起こっていることに対してはさして注意を向けようとしない。平穏な日常はそこにあってしかるべきであると思い込んでいる。
 いつもと違うことが起きたとき、人々はやっと「事件」だと認識する。本当は日常なんていつでも崩れうるものであり、事件が起きるなんてことは、珍しいことでもなんでもないのに。
 ありがたい平和を無造作に享受している。平和がどれだけ大切なものだったか、失ってから気づく。
 俺もそうだった。いつもと同じ日常なんてものは、いつもそこにあるわけではなかったのだ。俺が当たり前だと思っていた「いつも」は、二週間前に途切れてしまった。
 ありふれた日常は、今ではもう泣きたくなるほど、遠いものになっていた。

   ***

 おかしい。俺は猛烈な違和感に襲われていた。
 時計の針をにらみつけながら心の中で一、二と数を数える。俺のカウントよりも時計の秒針の方が早い気がする……いや、同じか?
 俺の感覚に従うならば時間は勝手に早く進んでいるはずだった。そうでなければおかしい。
 もう夏休みが終わってしまうなんて。
「有火、早くなさい! 直行君もう待ってるじゃないの!」
「はーいはい」
 階下から聞こえてくる叫び声に同じくらいの声量で返して、俺は眺めていた腕時計を左手首につける。慌ててつけたのでうっかり逆さまになってしまった(くそ、母さんが無下に急かすからだ)。
 しかし、直している時間はない。何せこうしている間にも時間は俺を裏切り続けさっさと進んでいく。ああもう、勝手に行くなよ! とは思えど、それで時間が操れれば俺は今頃ただの高校生などやっていない。
 兎にも角にも、俺も時間に追いつくべくさっさと行動するに限る。時間を遅らせることが出来ないのならば俺が早く行動すればいい。発想の転換というやつだ(たぶん)。
 足元に置いたかばんを引っつかみ、入り口の横に置いた扇風機を避け、兄の部屋を横切る。大学生はまだ夏休みの真っ最中らしく、扉はきっちりと閉まっていた。ドアの隙間からは涼しげな風が漏れている。……良いご身分だね。
 腹いせにドアを一発蹴ってやるが、この程度ではまったく起きないだろう。電気をつけっぱなしにしていたって熟睡できる兄なのだ。特技は、どんな状況下でも寝ていられること。
 短い廊下を曲がって階段を急下降、ドドドドとやかましい足音を狭い階段に響かせれば、玄関で待っているであろう直行も俺が降りてきたことに気付くだろう。案の定、俺が階段を下りきる前に、直行はこちらを見上げて「おはよう」と朝っぱらからさわやかな笑顔を向けた。
 う、何かこそばゆい。ちょっと恥ずかしくなって、下ろしかけた脚を宙で止める。何で二学期初日からさわやかでいられるかな。そんな直行も何か良いなと思っている俺もなんだかな。
 俺の心境を知らない直行は不思議そうに首を傾げて止まってしまった俺を見ている。俺はしばらく硬直したまま直行と見つめ合って……埒が明かないので最後の段を下りて玄関に出た。
「朝から見つめられてドキドキした」
 通学用のスニーカーに足を突っ込む俺の背に載って直行が茶化してくる。
「あーもう、新学期初日くらいスムーズに行かせろ!」
 以前ならここで直行を振り払ったところだけど、放っておくようになったのは俺のちょっとした変化。直行に触れられるのは、嬉しい。
 ところが直行が調子に乗り擦り寄ってきて、さすがに靴が履けないので、肘で直行の胴をつつく。そうすれば直行は簡単に離れてくれる(時間に余裕があるときならばしばらくじゃれていたりするのだが、残念ながら今日は本当に時間がない)。
「んじゃ、いってきます!」
「いってきます」
 俺と直行が続けて言うと、リビングから母が顔を出して「いってらっしゃい」と答えた。直行を前にしていると母の笑顔は二割り増しだ。仏頂面でいられるよりはいいけど。
 玄関のドアをくぐると、青い空に鯖雲が横切っていて、秋なのだなと思った。入道雲はすっかりしおれて、今では普通の雲なんだかどうだかよく分からない。
 朝の空気はだいぶ涼しげになった。衣替えはまだだが、強い風が吹くと少しだけ寒い。直行がさり気なく風上に立ったりして、俺はさり気なく直行の傍に寄る。
「遅れないようにねー」
 母の声が追いかけてきて、俺はさっと身を離した。……しつこい。
「平気だって!」
 振り返って大声で叫ぶと、たまたま庭に出ていたお隣さんがこちらを見て、俺はすばやく顔を背け、他人のフリをした。……うちの家族構成を知り尽くしているお隣さんに対して他人のフリもないけれど。
「あはは」
 一部始終をばっちり目撃した直行が、口元を押さえて肩を震わせる。
「相変わらず仲良いね」
 ただ子供じみた口論みたいなものをしょっちゅうしているだけなのだが。まぁそれもある意味仲が良いように見えるのかもしれない。喧嘩するほど仲が良いとも言うし(ちょっと違うか?)。
「母さんがかしましいだけだ」
 直行の家はもっと落ち着きがあって、両親もそれほど直行の行動にうるさく言わない。口出しする必要がないくらい直行が優秀なせいもあるのだが。
「良い家に決まってるよ」
 言って直行は俺の頭に手を載せる。子供扱いされるほど俺は小さくないはずだが。軽く左右にこする手はあからさまに「なでる」という動きで。
「有火がこんなに良い子なんだし」
 そんなことをさらりと言う。
「……恥ずかしいやつ!」
 俺は頭を振って直行の手を落とした。髪の毛がすっかりぼさぼさだ。新学期だからと思って気を利かせてとかしてきた意味がない。
「で」
「ん」
「その良い子の有火君は夏休みの宿題終わったのかな?」
 この流れでそれを聞くとは。さすがに読めなくて、俺は沈黙した。……毎年宿題を溜め込む俺の習性を熟知している直行だから、きっと聞いてくるとは思ったが、まだ言い訳は用意できていなかった。
 仕方がなく、せめてもと思い遠まわしに言ってみる。
「宿題は提出するまでが勝負だ」
 ちなみにだいたいの宿題は授業初日。今日は始業式、ホームルーム、大掃除などで授業はない。
「つまり、やってないと」
 そうとも言う。
 根が真面目な直行は当然もうやってあるわけで、呆れたため息をついた。
「今日放課後付き合おうか」
 俺を甘やかしがちな直行がそう提案するのはいつものこと。
「いや、いい」
 そして意地を張った俺が断るのもいつものこと。このあと追い込みで泣きそうになるのは目に見えているけれど、自業自得なのは分かりきっているので、直行の手は借りたくない。今年は夏休みが(俺の感覚の中では)早く終わってしまった分、例年よりもだいぶたまっているのが難点であるが。
 原因はたぶん直行だ。直行が途中で海外なんか行ったりするから俺の中での直行時計が崩れてしまったのだ。いつもだったら直行の進行具合を見て宿題を進めていくのに。
 それでも(直行と宿題をやるのも楽しそうなイベントだと思うけれど)やはり俺は俺なりに頑張りたい。
 もはや答えを聞くまでもなく分かりきっている直行は、「えらいえらい」と言いながら俺の額に軽くキスを落とす。留学から帰ってきてから直行のスキンシップはナチュラルに恥ずかしくなった。嬉しいような恥ずかしいよな気持ちで、結局恥ずかしさの方が勝り、俺は直行の顔を押しのけた。

 ……あとで俺はこの意地をちょとだけ後悔した。このとき、もし直行の提案を受けていたら、俺はもう少しだけ直行と一緒にいられたのだろうか。
 友達で良い。幼馴染で良い。直行の隣に俺がいられれば、それで。
 例えば、廊下で直行とすれ違って、振り返る。今、直行の隣にいるのは、俺じゃなくて。
 長い茶色の髪をたなびかせた……――。

   ***

 そして、事件は突然に起きた。それは何ら特別なことではなかったが、俺の中では、おそらく大事件だった。

「今日一緒に帰れないから」
 いつものように二人で残って教室の掃き掃除をしていると、直行が唐突にそう宣言した。俺はほうきを左右に振りつつ、「そう」と返す。
 大掃除とはいえ、俺と直行が担当になった選択教室B(Aは下の階、Cは上の階に存在する)は普段から汚れる機会も少なく、掃除当番に含まれていることからごみも蓄積しにくい。目立ったほこりもなく、机をどかして隅々まで掃いても、集合しないと目に見えないようなかすが集まるのみだった。
 俺と直行だけでもあっという間に掃除が終わってしまう。今集めているごみを捨てればフィニッシュだ。
 強いて言えば時折教師が見回りに来ることが難点だ。手っ取り早くサボりたいやつらは見回りの目に付きにくい男子更衣室や体育館裏の方に回った。
 俺は細かなごみ(校庭から舞い上がってきた砂かもしれない。窓を開けると風の強い日とかに時々入ってくる)をいったん一箇所に集めて、床からほうきの先を離す。
「委員会か何か?」
 別に直行と一緒に変える約束などした覚えはなかったが、一緒に帰れる日は帰路を共にするのが常で、そうできないときは、たいてい直行に急の用事ができた場合だった。その内よくある原因が委員会だ。
 直行は首を横に振った。日差しの中で直行の髪が蜂蜜色に輝く。この色は西日の差し込む教室で一番綺麗に見える気がする。
 窓から差し込む光の帯がおぼろげに宙に浮かぶが、それが見えるってことは、宙にたくさんほこりが舞ってるってことなんだよな。あとで窓でも開けようか。あ、でもそうするとまた砂が入ってくるのか。エンドレス。
「これからも一緒に帰れないんだ」
「ふーん?」
 我ながら気のない返事を返した。
 机の下に置いてあったちりとりを取り、自分のほうきでごみを回収する。丸まった消しゴムのかすがほうきの毛先にはじかれながらちりとりの上に載る。
 小さすぎるごみは取れるわけがないのでさっさと諦めてちりとりをごみ箱へ。ほとんどごみの入っていない金属製の箱の中で、砂が高い音を立てて落ちた。これならごみを捨てに行く必要はなさそうだ。
 最後にごみ箱の淵でちりとりと叩き、付着していたごみも振り落とす。金属同士がぶつかり合う音が教室の中に響く。
 直行の言葉を聞いていなかったわけではなかった。理解していないわけでもなかった。
 ただ何となく、直行の台詞をどこか遠いもののように感じていた。心の中に上手く直行の言葉が響いてこない。
 隅にある用具入れを明け、そこにほうきとちりとりを預ける。ドアを閉める。振り返ると直行がいる。その奥に扉が見える。扉の前には、人影がある。
 血液が鉛になってしまったかのように、心臓の辺りが重たかった。ショックを通り越して、身体が直行の言葉を全身で拒絶していた。受け取り拒否。
 俺は即座に理解していたからだ。本能で俺は身を守るためにバリアを展開した。
 直行の隣にいるべきは俺じゃない。いまさらな事実が俺に突きつけられる。最初から分かってきたことだ。何年間直行と俺がつりあわないことを感じ続けていたと思っているんだ。
 今直行の隣にいるのは。
 教室の前にいた人影が窓からのぞき込んで手を振っている。直行もすぐにそれに気付いて、笑みを浮かべつつ小さく手を振り返す。
 立っていたのは女の子だった。かなり可愛い部類に入る。茶色の髪は軽く波を打ち、肩の下まで伸びている。高校生の割りに化粧は少し濃かったが鼻の形とか唇の形とかはうらやましくなるほど天然のもので、もう少し化粧を落としたらもっと可愛さが引き立つのではないかと思った。
 頭のある位置から背は高めだということがうかがえる。直行と並んだらお似合いの身長差だろう。
 彼女はその位置から動こうとはせず、ニコニコしながらドアの前に立っていた。大掃除だというのにジャージは着ていなかった。ダサさでは定評のあるうちのジャージだから気持ちは判らなくもない。俺も直行も、ジャージは着ているものの上下とも家から持参したやつだ。
 直行は俺に向き直る。そしてわざわざ言わなくても分かる言葉を吐く。

「彼女が出来たから」

 こぼれ出たのは、空虚な吐息だけだった。
 可能性を考えなかったわけではなかった。むしろ今までこの事態が起こらなかった方が不思議なのだ。直行が自ら避けていたようにも思えた。
 俺はその不思議な日常を当たり前のものとして享受していた。そっちの方が愚かだったのだ。
 直行は硬派だから。友情を大切にするやつだから。直行に甘えきっていた自分を思い知らされる。
「そっか」
 そのとき俺はどんな顔をしていたのだろう。なるべく平常心を保ったつもりだった。のどの震えを悟られないよう、言葉も短くした。
 なのにどうして俺の顔を見て、直行は今にも泣きそうなほど顔を歪めたのか。
 分からなかった。もうどうでも良かった。直行の一番近くで、直行のことをあれこれ考えるのは、もう俺の役目ではない。
「じゃあな」
 と直行は言った。俺に背を向けた。直行は彼女の方に向かって歩き出した。一歩、二歩。直行が遠ざかる。あちら側の人間になっていく。
 扉を開ける。一瞬だけ、あちら側とこちら側の空間がつながった。彼女と、直行と、俺が、一直線に並ぶ。
 もしかするとこれが最後のチャンスだったのかもしれなかった。俺と直行がぎりぎりつながっていた、直行を引き止める、最後のチャンス。
 でも俺には引き止める選択肢など用意されていなかった。だって直行は彼女を選んだ。直行が選んだのなら、それは仕方がない。直行の選ぶ道は正しい。今まで一緒にいて、俺が一番それを痛感している。
 直行は扉を開けて、廊下側へ足踏み出す。直行は振り向かなかった。彼女が深い笑みを浮かべていた。
 直行の手によって扉が閉められた。板の横についたゴムが壁をぴしゃりと打つ。扉が、俺と直行の間を断絶した。
 俺は教室の中にひとり取り残された。小さな窓からは彼女と直行が並んで歩いていくのが見える。後ろから見ただけでもスタイル抜群の、お似合いのカップルだった。彼女が立っているのは、直行の左側。
 俺はおもむろに右側の空間に手を伸ばした。そこに直行はいなかった。

 ――今日、どうでもいいけど大事件が起きた。事故が起きたわけでも誰かが怪我をしたわけでも、大事なものが壊れたわけでもない。
 直行が俺の傍からいなくなった、ただそれだけのこと。
 生まれて十数年来初めての、大事件だった。



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