[預かり物]
5.今日の人は明日の猫 青い目に囚われる。眼球を縦に割ったような形の瞳孔は、俺に食らいつかんばかりにぱっくりと開かれている。俺の顔が瞳の中に映り込んでいた。 微かに身をよじると、髪の毛が肌を撫でる。俺は思わず身を縮めた。気が付くと男の長い髪は俺の体中にからみついていた。まるで監獄のようだ。 銀色の線は川のように蛇行しながら先の方に行くほどいくつもの支流に分かれている。フラッシュバック。どこかでこの光景を見た気がする。昔の話ではないが、はっきりとは思い出せない。ぼんやりとしていて不透明だ。 男は俺に覆い被さるようにして屈んでいた。丁度蛍光灯を背にしているので逆光になっている。顔の部分が暗かったが、いい男だというのはよく判った。高い鼻の頭は、俺の鼻先のわずか十センチ先にある。心臓が脈打つのは、恐怖のせいなのか、いい男を目の前にしているせいなのかは、定かでない。 湿気のせいで肌がつややかに見える。男相手なのに何か色気を感じて、俺は唾を飲み込んだ。レイが妙ないたずらしやがったせいで、変な気分になっている。頬がぽかぽかしてきた。 背中が浴室の壁に当たる。もう少しで肌と肌が触れ合ってしまうくらいの至近距離。逃げられない。頭のどこかで警報機が鳴っている気がした……ただの耳鳴りかもしれないが。 男が冷ややかに細められたつり目を、少し開ける。口元が緩やかに引かれる。 「やっと、飯くれた」 男がすり寄ってきて、当然のことながら距離が近くなる。触れていないのに体温はリアルに感じられた。熱い。でも髪の毛の感触は、シルクみたいで気持ちよかった。 レイの毛並みもそう言えばこんな感じだっけ。そう思うと少し気持ちが和む。胸のドキドキが緩やかになった。だんだんとこの不自然な状況を把握できるようになる。 この男は何者なのか。こんな外国人入った美形の知り合い、俺は知らん。そもそも彼はどこから入ってきたのか。俺は一瞬前までレイと風呂に入っていたはずである。……そして、そのレイはどこ行った。 「レイ?」 呼んでみても返事がない。男の体に邪魔されてレイの姿を探すことも出来ない。俺の横では、男が長い腕を付いていて、鉄格子のように俺の動きを阻む。 「何だ?」 返事は意外な所から聞こえた。真上だ。声につられて頭を持ち上げると、美形の男が無邪気に微笑んでいた。表情だけを見ると、見た目よりも幼く見える。 予想外の反応に、俺は不覚にもドキッとしてしまう。……可愛い。レイがうとうとしているときとかもすごく可愛いけれど、そういうときの感覚にすごくよく似ている。動物や人間の赤ん坊を見て無条件に「可愛い」と思う、そんな気持ち。髪の毛つやつやで気持ちいいし、頭撫でたいな〜……って、そういう場合じゃない。 「あんたじゃなくて、猫の」 「だから俺じゃん」 小首を傾げて、男が俺の顔をのぞき込んでくる。長い髪が揺れて輝いた。 人間で言う耳の上の当たり、何かがのぞいた。グレーの毛に覆われた突起物が、左右に一つずつ。三角形で、斜め上に突き出している。 毛が短くなる内側は、ほのかにピンク色をしていた。小刻みに右へ左へ、ぴくぴくと動く。どことなく小動物の動きを彷彿させた。背中越しには、尻尾まで見える。 俺の見間違いでなければ、本来人間にはそんな物付いていない。一部のコスプレイヤーさんの頭には似たような物が付いているが、まがい物だ。この男の頭に付いているのは、間違いなく血の通った、本物。 ねこみみ。 ――思い出したっ! こいつ、夢の中に出てきた男だ! 顔立ちは覚えていないので同一人物だとは言い難いが、頭に猫耳の生えた長髪の銀髪男が、世の中にそう何人もいるわけがない。 絶対に夢だと思っていたのに、まさか現実だったとは。それとも今、俺は夢を見ているのか? そうでないと説明できないことが多すぎる。 俺は目の前の男に手を伸ばした。頬に触れてみる。きめ細かい肌は出来物一つなく、滑らかだ。ほのかに体温が高いように感じられた。 触れれば触れるほど本物だどうしよう。俺は男の頬に手を添えたまま硬直した。 「誘ってんの?」 男の顔が近くなって、額と額が合わさる。男が笑うと、吐息が鼻にかかった。 「俺は全然足りないから、良いけど」 喉の奥でクツクツと笑いながら、男が顔を斜めに傾ける。鼻先がかすめる。長いまつげが俺の視界を遮った。これだけ至近距離だと、何本あるか数えられる気がする。 下唇をなぞる、生暖かい感触。ほのかにざらざらしているのが判る。上唇にちょっとだけ相手の唇が触れていた。白崎の唇の感触が、肌の上に蘇ってきた。 柔らかい。湿っぽい。暖かい。ふざけんな。 「調子乗んなっ!」 俺は男の頬を思い切り引っ張った。あまり伸びなかったが、そこは全力をもって引っ張る。男がなにやら呻くが、俺が頬をつねっているのでもちろん言葉にならない。 俺は頬をしっかり掴んだまま、男の顔を突き放した。間抜けな男の顔が飛び込んでくる。皮膚が伸びて人相が変わっていた。元が良いだけになかなか滑稽だった。 「ぶっ」 不意を付かれて思い切り吹き出す。男の眉が不服そうに歪められるが、気迫などカケラもありゃしない。 「あ……あのなぁ、突然現れて何の説明もなしって、それはかなり失礼なんじゃないのか?」 気を取り直して厳しく言おうとするが、やっぱり笑ってしまう。こういう顔も面白くて意外と可愛いと思うよ、うん。 さすがに気を悪くした男が、強めに俺の腕をはたき落とした。ぱちんといい音が浴室の中に響く。男の頬は指の形に赤くなっていた。ほのかに三日月形の爪の跡まで残っている。いい男が台無しだ(いい気味だけど)。 「ヤナギバ」 男が口を開く。何で俺の名前を知っているんだ。驚いたが、急に肩を掴まれたせいで、言葉を飲み込んでしまった。 目尻が下がる。耳が力無く傾いているような気がした。寂しげな表情。何だかものすごく悪いことをしてしまった気分になった。 真剣な表情で、男が聞く。 「猫人間と猫と、どっちが好きだ?」 ……えーっと。まずその選択肢が何かまず間違っている。 何で猫人間。猫と比べるのなら犬を持ってくるのが一般的だと思うのだが……。猫娘とかなら知ってるけれど、狼男とかでもダメなんですか。 何にせよ俺には、人間の男に猫耳を付ける趣味はない。 「……猫?」 答えると、男はあからさまに落胆する。首をがっくりと折り曲げ、うつむいてしまった。髪が滝のように流れ、表情を覆い隠してしまう。 よく判らないけど傷つけたらしい。俺は何と声をかけて良いのか判らなかった。そもそも何でこんなに落ち込んでいるのかが判らない。 慰めの言葉でもかけてやろうかと顔をのぞき込んだ瞬間、目の前が銀色に遮られた。慌てて顔を離すが、銀色は消えない。 男の髪と、丁度同じ銀色。銀色の光が、男を中心にして円柱状に立ち上っていた。 光が俺の鼻先をかすめる。触れた感覚はない。音もない。熱もない。ただ光が、そこに生まれた。 細かい光の結晶みたいなものが、きらきらと舞っている。それが集まって、光の柱になっているみたいだった。狭い空間の中で、光はあっという間に溢れた。クリーム色のタイルが銀色に染め上げられる。 中の男は大丈夫なのか。無意識だった。光の中に手が伸びる。銀色の光が、俺の腕をじりじり上ってきた。 指先に触れたのは、すべすべした毛だった。髪の毛かと思ったが、それにしては妙に位置が低い。ほぼ床に近い辺りに、毛むくじゃらの物体がうずくまっていた。 「レイか?」 直感的に口を開くと、光が休息に収まっていく。中央に向かって柱がどんどん細くなり、最後には何事もなく消えていった。特に何かが変わった様子はない。 目の前にいるものが入れ替わったこと以外は。 男の姿は消えていた。圧迫感が消え、浴室が広々と感じる。代わりに座っていたのは、グレーの塊。水浸しになって何だかいつもと感じが違う、レイだった。 大きく口を開けて、あくびを一つ。白い牙がむき出しになった。のんきだな、お前は。いつものように撫でようと手を伸ばす。レイは自分から立ち上がって、俺の腕にすり寄ってきた。 視線がかち合う。青い目の中で、瞳孔が開いた。 「せっかく人型になれたが、あんたが望むんなら猫のままでいてやるよ」 一言、呟く。あの男の、良く通る低音ボイスで。 「……はい?」 レイはお構いなしに俺の足に飛び乗る。ふくらはぎの上に寝そべり、だらんとしている。気持ちよさそうにしているところ悪いんだけど、重たい。 結局一体何なんだ? 何が起きたんだ? 額に指を宛て、考えてみる。 いや、そうじゃない。正しくは「何が起きているのか」。現在完了進行形。レイを預かった時点から、既に異変は起き続けているらしい。 夢で見たのだと思いこんでいた男は、現実のものだったようだ。二度も遭遇してしまっては、そう認めるしかない。 猫耳男、レイとの入れ替わり、喋るレイ。……どう足掻いても常識的な答えは出てきそうにない。俺は考えることを諦め、レイを見下ろす。猫に聞くのは癪だけど、こいつに聞くのが一番早そうだ。 「レイ、後でちゃんと事情を説明しろよ」 背中に手のひらを置くと、レイは首だけを上に曲げて俺を見つめた。眠たげにまぶたを上げ下げしている。こうしているとただの猫にしか見えないんだけどなぁ。 「とりあえず俺風呂入るからさ、十分くらい待ってて」 レイの返事を待たず、俺はレイの体を持ち上げる。食糧不足のレイは細いせいで関節の辺りが出っ張っている。うかつに触ると壊れてしまいそうだ。そっと浴槽の中にレイを降ろす。 温度を熱めにしてから、シャワーを出す。最初は温かったが、すぐに温かいお湯が降り注いできた。 「状況の割に、のんきな奴」 レイがぽつりと呟く。うるさい、マイペースなお前には言われたくない。そもそも俺が生ゴミだらけになったのはお前のせいだろう。 腹いせにシャワーのお湯をレイにかけてやると、浴室に猫の甲高い悲鳴が響き渡った。 第一話・完 「猫の飼い方が判らない」という理由で、ファンタジー要素を取り入れてしまった問題作。以前書いた小説「預かり物」のリメイクです。書き直しが半分、付け足しが半分くらいの割合です。以前読んだ方が読み直しても、初めての方が読んでも楽しめる……と思います(断言できないのが三文小説書きの悲しさ)。 実はレイの性格が定まらないまま書いています。結構子供じみていて俺様な性格に描けていけたらいいなと思います。白崎は頼れる兄貴っぽく書きたかったのですが……年下だし。どちらかというと悪友っぽい感じで、攻めの性格が似通ってしまいました。これで後中学生だか高校生の攻めも考えているのですが、そうすると攻めがみんな子供っぽくてゴーイングマイウェイになってしまう気がします。キャラ設定はちゃんと練ってから小説を書いた方が良いと思いますよ(そりゃそうだ)! |