[友人以上]
夏の虫


 人工的な風が降りてくる。肌よりもずっと冷たいそれは、触れるとぞくぞくする。乾燥している空気は明らかに日本の気候とは違って、無機質だ。たまらなく不健康。この感覚が良い。
 俺は寝返りを打って、ヒンヤリしたシーツに足を埋めた。この部屋の物はみんな冷たい。俺が押し掛けてから半日、ずっとエアコンの風にさらされているのだから無理もない。俺が手にしている漫画のカバーも、ベッドのすぐ横にあるイスも、ベッドの向かい側にあるテレビも、冷蔵庫の食品のように芯まで冷えていた。
「極楽極楽〜」
 読みかけの漫画を放り出して枕に顔を埋める。表面を覆う、きめ細かい生地の感覚。肌触りが好きで頬をすり寄せた。何となく直行のにおいがする気がする。落ち着くにおいだ。
 このまま眠りたい感覚に襲われていると、突然重たい物が背中にのしかかってきた。それでいて温かい。でも柔らかくはない。
「背中出してると風邪引くよ」
 身体に直接声が響いてきた。声の主、直行が俺の背中に乗っかっているのが判る。お互いだらしなく重なって寝そべっている様は、亀の親子を彷彿させた。母亀が下で、子亀がその上に載っている感じ。位置的には俺が母亀か。言っていることは直行の方が母親みたいだけど。
 俺は足を折り曲げて、直行の身体をかかとでつつく。鍛えられている脇腹は硬い。ダメージはあまりないようで、直行はくすぐったそうに身をよじった。
「ほら、こんなにもう冷えてるくせに」
 足首を掴まれた。直行の手は指先まで温かい。同じ空間に同じ時間にて、どうしてこんなに体温の差があるのだろう。
「大丈夫、馬鹿は風邪引かない」
「夏風邪は馬鹿が引くって知ってる?」
 馬鹿ってところを否定しろよ。友達がいのない奴め。
 直行が起きあがると、背中が急に寂しくなる。より一層空気が冷たく感じた。直行はドアの横にあるエアコンのスイッチを押す。機械音が五回鳴った。良くも悪くもない視力を駆使してパネルを見ると、環境に優しい温度まで上がっていた。
 仕方なく俺は身を起こす。目の前が天井から壁に切り替わった。どちらも真っ白でポスターの一つもない。カーテンだけが鮮やかな黄色で、部屋の中から浮きだっていた。
 俺の部屋よりも広いのはパッと見ただけで判る。俺の部屋にベッドを置くだけの余裕はないので寝るときは布団だ。直行がたまに遊びに来るとそれだけで足の踏み場もなくなる。定員はせいぜい二名まで。きちんと整頓されているので、一層広々として見えた。
 しかも、直行の部屋にはエアコンがある。俺の部屋にある扇風機と比べると、ずいぶん文明が違った。暑い日には直行の部屋に来るに限る。陸島家は我が家から最短距離の避暑地だ。
「あんまり無防備でいるとさ」
 思いの外近くから、直行の声。振り返ると、直行の肩に背中が当たった。俺のすぐ横に腰掛けている。
 背は直行の方が高いから、肩は少し上にある。黒を基調にしたティーシャツにジーパンというラフな格好だが、薄着の時こそ直行のスタイルの良さが際だつ。流れるシルエットが綺麗だった。
 直行の長めに切られた髪が頬をすり抜ける。染められているのにさらさらだ。
 直行の顔面が近くに来る。頬に暖かみを感じる。
「……キスするよ?」
 大地震が、俺の脳みそだけを揺さぶったような感じだった。直行の言葉が耳の穴から入り込んで、俺を揺らす。余震をくらった心臓が、逃げろ逃げろと脈を打つ。
 耳たぶにざらりとした物が触れた。熱い。慣れない感覚に、俺は身震いする。
 何だろう、変に気持ちいい。続いてとがった物が突き刺さり……直行に噛まれたのだと気付いた。
「……なななっ!」
 さらに舐められそうになったので、慌てて身を離す。シーツに腕をとられて上体が傾いた。滑るようにして、背中から倒れ込む。柔らかいベッドで体が一回大きくバウンドした。
 おそるおそる直行の顔を見れば、楽しげに微笑んでいる。ぶっちゃけすごくいい顔だ。くそー、なめやがって(物理的ではなく、精神的な意味でも)!
 俺は足を振り上げて起きあがる。そのままの勢いで直行に飛びかかった。直行もさすがに予想していなかったらしく、とっさに俺の胸を抱きかかえるが、支えきれずに俺ごと後ろに倒れる。肋骨が圧されて、俺も一瞬息が詰まった。
 腕の力で上体を持ち上げ、直行を見下ろす。直行は大きく瞬きし、面食らったような顔をしている。いい気分だ。俺は思わずにやりと笑った。
 普段、身長でも才能でも直行に敵わない分、物理的に見下ろすだけでちょっとした優越感に浸れる。ついでに仕返しとして俺も直行をからかってやろうかと思案する。
 同じ事をしてやるのは何となくしゃくだ。頬とかおでことかにキスを落としたら驚くだろうか――視線を直行の肌に移してみる。
 きめ細かい肌。季節が夏なので少しだけ健康的に色付いている。明るく長めの髪は真ん中で分けられていて、光の加減で綺麗なセピア色のグラデーションを描く。鼻はすらりと高くて、目はアーモンド形で……見れば見るほど、格好いい。
 何だかこっちが恥ずかしくなってしまって、俺は目を伏せた。古語のはづかしの意が思い浮かぶ。こちらが恥ずかしくなるほど、優れている、立派だ。昔の人たちは直行みたいなすごい奴を見て、丁度俺と同じように感じていたたのだろう。
「どうした?」
 直行が俺の額に手を伸ばす。そのまま短い俺の前髪を指ですいた。視界が直行の手のひらで遮られる。俺は直行の手を振り払った。
 直行の前髪を手のひらでかき分ける。意を決して、首を下ろした。唇の先がちょっとだけ直行の額に触れる。髪の毛からふわりとシャンプーのにおいがした。
 俺は手の甲で唇を押さえ、起きあがる。ベッドに尻をついて座り込んだ。逃げるようにして後退するが、シーツが邪魔で上手く動けない。
「どどど、どうだ、驚いたか!」
 半ばやけくそのようにして叫ぶ。声がうわずっているのがよく判った。顔が熱い。頬の辺りから羞恥心がぐつぐつと湧き上がっていく。耳から湯気が出てきそうだった。これではどっちがショックを受けているのかよく判らない。
 直行の表情を見てさらに泣きそうになった。口元が緩やかにカーブを描いている。細められた瞳からのぞく瞳はきらきらしていて、頬は上気していた。すっごく優しげな笑顔だった。嬉しそうな感じがひしひしと伝わってくる。
 ぎゃふんとでも言えばいいじゃないか。どうして逆に嬉しそうな顔をするんだ。こっちまでよく判らないけど高揚した気持ちになってきて、頭がぐるぐるしてくる。
 気がつくと直行の首筋が目の前にあった。距離がゼロになる。鼻が肩の辺りに押しつけられた。全身がふわっと温かくなって、両肩を押さえつけられる。直行の腕に覆われているのだと判った。
「気まぐれだって判ってるけどさ」
 直行が頭をすり寄せてきて、髪の毛が俺の肌を撫でる。何か甘えているみたいだ。
「嬉しい」
 直行の腕が俺の背中から離れる。寒くて、俺は直行の胴体にしがみついた。背中に手を回すのは忍びないので、脇腹の辺りのシャツを握りしめる。
 指が俺の額に触れた。すっかり暖まった俺の顔面は直行の指先と同じくらいの体温になっていた。続いて落ちてくる、柔らかい感触。直行の吐息がそっと生え際辺り触れて、唇だと認識する。
 俺の時より、少し長めのでこチュー。照れくさくて、俺は強く目を閉じた。
「あのさ」
 肌に触れるか触れないかの距離で唇が動いて、俺は肩を震わせた。よく判らない淡い刺激が神経をくすぐる。俺は上手く返事が出来なくて、喉の奥から何とか「ん」と声を漏らした。
「この部屋、蚊がいる」
「え、どこ……」
 蚊があまり好きではない俺は直行の服を強く引っ張った。毛虫も蜂もこちらが危害を加えない限り無害だが、蚊だけは何もしないと刺される。だから蚊を見つけたときは先手必勝、叩きつぶす。追い出すかつぶすかするまで、戦いは終わらないのだ。
「ここ」
 呟いて、直行は俺の肩に頭をずらした。そこにいるのか? 直行がどの辺りをさして言っているのかよく判らない。身をよじって確認しようとするが、直行の腕の力が強くて身体が動かない。
「おい、痛いよ……」
 言っている傍から肩の辺りにちくりと痛みを感じた。まさか、蚊に刺された?
 直行は無言のまま俺の肩に伏せっている。シャツの襟口が直行の方に引っ張られて、反対側が苦しい。
「直行?」
 頭を鷲づかみにし、髪の毛を引っ張ると、ようやく反応があった。
「痛いよ」
 それはこっちの台詞だ。文句を言おうとしたら、至近距離で直行と目が合い、言葉に詰まる。女子専用の嘘くさい笑顔が浮かべられた。
 この直行の笑顔があまり良い物ではないことを俺は知っている。何かいたずらをしたときや、本音を隠しているときの顔だ。この場合はたぶん前者だが、この短い時間で一体何をやらかしたというのか。
「蚊が首の辺りを刺したみたいだから、首筋あまり人に見せないようにね。二,三日は治らないと思うから」
 そう言って、直行が先ほど顔をくっつけていた部分を指先でなぞった。蚊に刺された割には、かゆくない。俺は不思議に思って、首を最大限に横へ持っていく。視界の端に赤い物は映るのだが、よく見えなかった。
 直行は満足げに鼻歌まで歌って、ベッドから降りる。ベッドの端に直行の体重がかかると大きくきしんだ。
 俺はますます不審に思って、鏡を探す。男の部屋には目に付く場所に鏡もなく、当然のことながら俺が持ち歩いているはずもない。代用品になる物を探して――CDの裏側なら映るんじゃないかと考えた。
 本棚の中に収納してあるCDを適当に一枚拝借して、中身を取り出す。虹色に光っていない部分にどうにか肩の部分を映した。
「げ」
 思わず声を上げる。赤い点が一つ、普段洋服に隠れているためあまり日焼けしていない肌に浮いていた。
 腫れはなく、鮮やかに染まる赤い印。直行がたまに付けている、キスマークというやつだった。
「あいつめ……!」
 蚊というのは直行のことだったのか。まったく、とんだ夏の虫もいたもんだ。確かに二,三日消えないだろうな。その間どうしろというんだ!
 直行はいつの間にか部屋から退場している。俺がCDを探している間に、こっそり逃げたのだろう。やり逃げとは良い度胸だ。
 俺は一つ毒づいて、ベッドから飛び降りる。絨毯に足をついて、大股で部屋の入り口へ。ドアのノブはまだ温かく、標的が出て行ってからさほど時間は経っていないもよう。
 絶対にしばいてやる。俺は口角をつり上げて、ドアを開けた。外に広がるのは、蒸し暑い異空間みたいな夏。
 二本足の虫を探しに、俺は廊下へ飛び出した。


END?

 ウェブ拍手に載せた物。有火の名前を募集した際に、お礼小説としてアップしました。掲載当初は、文字数の関係で所々削る羽目になりましたが……。ちょっとだけ修正して再アップ。あまり変わっていません。
 季節を意識して夏っぽいものを書こう、と思って書きましたが、よく考えたら普段から「友人以上」は夏の話しか書いていないことに気付きました。常夏ボーイズ。しかも再アップの時期は立冬。結局季節外れです。



モドル