[涼しげなひととき]
松葉杖をにぎりなおして、俺は慎重に階段を一段上がる。 汗で杖が滑りそうで怖い。 杖を落としたらアウトだ。 転げ落ちないにしろ、階段のど真ん中で立ち往生だ。 俺は先日、交通事故にあって松葉杖生活を余儀なくされた。 これからも松葉杖生活ってことだ。 今からこんなんでは、先が思いやられる。 夏休み明けたらどうしようか。 俺の教室は3階で、今俺が目指している音楽室のすぐ近く。 現在いるのは、2階と3階の間。 3階には、後踊り場を通過して、さらに上らなければならない。 目の前の課題に、俺は両手を挙げて「降参」したかった。 それが出来ない実状。 どうにかして登り切るしかない。 下る時またうんざりするが(俺は下りの方が嫌いだ……)それは考えずに。 もうすぐなんだ。 そう言い聞かせて、一気に上る。 踊り場を通って、数段ぐいぐいと上る。 うっかり手を滑らせて、松葉杖を落とした。 「あ」 つかみ取る前に、ガタンッという音がする。 松葉杖は数段下の、踊り場まで落っこちた。 体が傾いて、心臓が跳ね上がった。 ヤバイ、落ちる! 反射的に手すりに捕まる。 これは間に合った。 俺はばくばく言っている心臓を落ち着けて、呼吸を整えた。 さて、ここからどうするか。 松葉杖は踊り場。 人を呼ぶなら、上った方が早い。 まさに真ん中で立ち往生だ。 「情けねぇ……」 思わずため息をつく。 意気込んで音楽室に来ようと思ったらこれだ。 俺は、野球部だった俺を勧誘してきた奇特な合唱部部長、 高橋彼方のことを思い浮かべた。 合唱部の練習終わってから、奴に発見されるのはあまりにも間抜けだよな。 それまでにはどうにかしよう。 俺は、階段の先にある、音楽室を見上げた。 ふいに、人影がのぞく。 目が合った。 制服を着ている。 スポーツ刈りで、半袖の夏服は涼しげだ。 まだ1年のバッチをつけていた。 彼は驚いた顔をする。 「た、大変です、高橋先輩!」 俺の後ろに落ちている松葉杖に気づいてか、1年は叫ぶ。 「磯部先輩がいます!」 ……って、何で俺の名前知ってるんだよ! 「なにぃっ?!」 「え、磯部先輩?」 「どの人〜?」 「見てみた〜いv」 そして、音楽室からわらわら出てくる人影。 女子十数人に、男子数名。 合唱部の皆様方らしい。 その先頭には、見慣れた顔、高橋彼方の姿があった。 高橋は驚いた顔をしている。 それもそうだ、俺が来るなどと言うことは予想だにしていなかっただろう。 まして松葉杖に頼っている身だ。 「磯部……何でこんな所に!」 怒るように言い放ち、階段を駆け下りる。 踊り場で杖をさっと拾うと、渡してくれる。 手に持ち変える間、階段の一段下から支えていてくれた。 華奢でスポーツもあまりやっていないはずなのに、意外と力がある。 「大丈夫か?」 低く言われた言葉にドキリとする。 こんな近い位置で高橋の声を聞いたのは初めてだ。 友達って言ったって、クラスではよく話す程度だったから。 愁いを含んだような、変な色気がある声に、クラリときた。 わー、男相手に色気だなんて、気持ち悪いよ俺! 「あ、ありがとう……」 慌てて、階段の上までさっさと登り切ってしまった。 動いて気持ちを紛らわせないと落ち着かなかった。 ドキドキしているのは、急に階段を昇ったせいなんだからな! 登り切った後、高橋はすぐに俺の後ろに立って、音楽室へ促す。 音楽室の前で立ち止まって、彼は後輩達に言った。 「さ、練習再開だ!」 見事なリーダーシップを放つ高橋は、くそぅ、やっぱ格好良かった。 音楽室のイスに座り、俺は練習風景をぼーっと見ていた。 本来は筋トレから始まるらしいのだが、俺が来た時間が遅かったので、 発声練習の見学からとなる。 顧問の先生は不在とのこと。 学校内にはいるが、仕事があるため、 合唱部につきっきりではいられないということだ。 音楽室の窓は大きい。 それが全開に開け放たれている。 おかげで涼しい風が入り込み、白いカーテンが大きくはためく。 外から運動部の叫び声が聞こえた。 負けじと音楽室には、声が流れる。 発声練習だから、「あー」としか言っていないが、 十数人の声のハーモニーはキレイだった。 声の伸びはさすが歌い馴れているだけあって、自然だ。 息が続かなくて無理をする感じはなく、 むしろ音が続けば続くほど広がっていく感じがする。 音階を変えて、低い音から高い音までキレイに出しきった後、 高橋がいきなり指揮を執り始める。 高々と両手を振り上げ、きびきびと動かす。 四拍子だ。 四回振ったところで、一斉に歌が始まる。 「いーらーか〜のなーみーと〜」 俺は拍子抜けしてガックリする。 鯉のぼりか。 季節はずれもいいところだ。 どうせなら我は海の子でも歌えばいいのに。 されど、合唱部の歌う鯉のぼりは本当に空高く吹き抜けそうだった。 どうやっているのか判らないが、 鯉のぼりの鮮やかな色がイメージできる歌声。 歌い方が違うのだろう。 聞き慣れた歌をここまで歌い込まれてしまうと、驚嘆せざるを得ない。 1番は斉唱だったが、2番から合唱に移る。 パートに別れて、男子パートが急流のように歌い上げる。 その上を、女子パートが風が流れるように歌っていく。 二つの流れが合わさり、ぴたりと重なり合いながら流れていった。 まさに俺は重なる空の中空にいる感覚に襲われる。 ああ、鯉のぼりだ。 音の狭間でゆらゆら揺れる。 アカペラの合奏が終わった時、俺は思わず拍手をしていた。 「すごい、本当すごいよ」 語彙が少なくてもどかしい。 もっと違う言葉があるはずだ、もっと表しやすいような。 いや、言葉で表現できてしまうほど、ちゃちな感動じゃあないけど。 合唱部連中はそれでも、顔を見合わせて嬉しそうに笑う。 「音あわせで感動してくれるなんて、確かに可愛い先輩ですね」 「そうだろ」 2年生の女子が高橋に意味ありげな笑みを送る。 高橋は気にもとめずに、大いばりで肯定した。 「やりがいがあって良いよね」 一年生の女子は、照れたように笑いながら、隣の少女に話す。 初々しいな。 「こういう人がいてくれると良いね」 その少女は、ちらりと俺の方を見た。 なんか俺の方が照れてくる。 「高橋先輩」 2年のバッチをつけた男子が、ピシッとした口調で言う。 背が高くて、声変わりも始まっているようだ。 俺より背は高い。 「この人は入部希望ですか?」 「うん」 「ちょっと待て!」 さらりと答えた高橋に、俺は思わず叫んでいた。 高橋はにこやかな笑みを浮かべ「何?」と問いかけてくる。 「何、じゃない。 いつ俺が入部すると言った」 「ええ、入らないんですか!」 とたんに、女子から講義の声が挙がる。 2年女子数名が騒ぎ出した。 「入ってくださいよ!」 「磯部先輩なら大歓迎ですv」 「さっきから思っていたんだが、なぜすでに俺の名が知れ渡っている?!」 「磯部先輩の話なら、高橋先輩からよく聞いてますよ」 いったい何の話をしたんだ。 俺は高橋をにらみつけた。 高橋と目が合うと、奴は嬉しそうに笑うだけだった。 こんな大勢の女子から話しかけられたのは、初めてだった。 中学入学前から地元の草野球チームに属していた俺は、ずっと坊主頭だった。 坊主頭の何が気に入らないのか、野球部は女子に嫌われている。 ただでさえ、目を引く物が何もない俺なのに。 この中学3年間、浮いた話も一つもなかった。 正直混乱しているんだ。 「と、とにかく、今はまだ考えてないんだ!」 それだけ言って、さっさと逃げ出そうと思った。 しかし、逃げられない。 松葉杖が遠くにあって、 とてもじゃないが、音楽室から脱走できそうになかった。 「まぁ、最後まで見ていってよ♪」 高橋が深い笑みを浮かべる。 色素の薄い髪が陽に透かされ、風になびく。 きれいな顔立ちも手伝って、すごくきれいな笑みだった。 今はそれがむしろ悪魔の笑みに見えるのは……。 俺の気のせいなのだろうか? 結局。 最後までいてしまった。 「お疲れー」 高橋は譜面代を片づけながら、音楽室を後にする後輩達に声を掛ける。 「お疲れさまでした〜」 「先輩、さようなら。 お先失礼します」 一年生の女子が深々と一礼して去っていく。 男子などは早々に帰っている。 夏休みだし、これから遊ぶ予定があったらしい。 俺は今年は受験生。 高橋はまだ今の時期余裕だと言うが、そうも言ってられない。 こうしてどんどん自由がなくなっていくのかと思うと、気が重くなった。 気が重くなっても実際どうこうするわけじゃないから、 無駄なことなのかも知れない。 だったら高橋のように割り切ってしまうのも手か。 俺はフローリングの、淡い木の色をした音楽室を眺めた。 ワックスがきちんと掛けてあって、ぴかぴかしていた。 大事に使っているのだろう、床の傷も少ない。 俺も大切に使おう。 一人で片づけに励む高橋を見ていると、そう思える。 「それにしても、お前部長だろ? 何で一人で片づけてるんだよ」 ふいに浮かんだ疑問を口にする。 高橋は譜面代を全て準備室の方へ片づけてから、部屋の中を確認し、 鍵を閉めてから答えた。 「部長なんて、単なる雑用係だよ。 そんなずごい物じゃない。 それに」 高橋は意味ありげに口角をつり上げ、俺の隣に座った。 「君と二人きりになりたかったしね」 心臓が跳ね上がった。 今まで高橋と二人きりになどなったことがなかった。 そう、昨日が初めてだった。 昨日でさえ、屋外だったから、二人きりとは言い難い。 何を言われるんだろう。 恐怖がよぎった。 気に入らない行動をしたつもりはないが。 第一、嫌っている人間を同じ部活に誘うはずがない。 合唱部は、十分部員が足りているんだ。 だから嫌われてはいない……と思う。 大丈夫、言われるとしても違うことだ。 そうだ。 心を落ち着けて、高橋の次の言葉を待つ。 沈黙が続いていた。 高橋は何をすることもなく、俺の顔をただじっと眺めていた。 「な、何だよ」 耐えかねて口を開く。 「言いたいことがあるんなら、さっさと言えよ」 「え? 言いたい事なんて特にないけど……」 「は?」 予想もしてなかった答えに、俺は眉をひそめた。 「だって、二人きりになりたかったって……」 ぼそぼそつぶやくと、高橋は首を傾げる。 「一緒にいたい気持ちに、理由なんてないでしょ?」 ああ、それもそうだ。 俺は妙に納得してしまった。 全ての講堂にご大層な理由が付いていたら、そいつは無駄のない人間だ。 一瞬の隙もなく何かに対し人生を捧げている。 そして、やけに嬉しくもなった。 理由という名の力を借りずに、一緒にいてくれるというのなら、 そいつはとてつもなく大きな感情だ。 心の底から一緒にいたいと思ってくれている。 少なくともこの瞬間は。 「……ありがと」 俺は高橋の肩に頭を預けた。 今度訳の分からないといった顔をするのは、奴の方だった。 ほおがカッと赤くなる。 いつも澄ました奴だと思ったら、こういう顔もするんだ。 クラスメイトになってから4ヶ月近く経ったが、初めて知る顔だ。 写真に収めておこうかとも思ったが、カメラがないのが悔やまれた。 すぐに高橋の顔はいつもの顔に戻って、俺の頭に片腕を回して包み込んだ。 高橋の肌の感触が皮膚に伝わる。 体温は低いのか、ひんやりしていて、練習の後だから、少し汗ばんでいる。 音楽室の中に風が舞い込んだ。 涼しい、良い風だ。 少しなま暖かいけど。 「涼しいー……」 ぽつりとつぶやいて、睡魔が襲ってくる。 音楽室の中は、ちょうど良い温度なんだ。 うとうとしていると、高橋が俺の頭を軽くなでた。 「寝てても良いよ? 待ってるから」 優しい声で、心地よかった。 それを子守歌に、俺は眠りに就いていた。 高橋の歌声が、遠くに聞こえていた気がする。 結構、良かったかも知れない。 気まぐれで見学に来たけど、音楽室は涼しかったし、 後輩達も気さくな奴ばかりだ。 高橋の歌声もキレイだった。 初めてソロを聴かせてもらったけど、すごく澄んでいて、 満たされる感じがした。 これなら、また来ても良いかも知れない。 まだ入部するかは考えてないけどな。 どうやら俺は、音楽室での涼しげなひとときが気に入ったらしい。 FIN 「夏の終わりと夏の始まり」の続編です。 私はどうやら、高橋と磯部のペアが気に入ったらしいです。 高橋の思いは、相変わらず伝わっていませんが、 磯部も高橋にはまり始めた模様。 次にもし書くとしたら、ついに告白編ですね。 ネタとしては二人がいちゃいちゃする話もあるんですが。 とりあえず、連載を終わらせないと……。 |