[夏の終わりと 夏の始まり]



吹き抜けるような群青色が目の前にちらついた。
生き生きとした緑色で縁取られている。
校庭を囲むようにしてぐるりと植わった木々だ。
青い空に浮かぶ白い太陽が、射抜くように光を放ち、木陰にくっきりと影を落とす。

俺は額を伝う汗をぬぐい、手にしたペットボトルを口にした。

生ぬるい。

スポーツ飲料が変に甘くて、俺はそれ以上口の中に流し込むのをやめた。
ノドの渇きを癒そうと、口の中に含んだ分だけは、飲み込む。
生ぬるさを感じないように、水の感覚だけを追う。

「はぁ」
短く息をついて、ペットボトルにフタをした。

「暗いねぇ」
上から声が降ってきて、顔を上げた。
太陽がまぶしい。
太陽の光を背に、黒い影の中、そいつはニッと笑った。

「……暑いんだよ」
俺は口を開くのもおっくうで、それだけを突き放すように言った。
どうせ相手は、いつも軽い調子の友人だ。
同じクラスの、高橋。
そう親しいわけでもない、よく話すクラスメイトの延長だ。

「せっかく部活も終わって自由だってのに。
良いね、運動部は。
僕は文化部だから秋まで現役さ」
「嫌みかよ。
散れ、高橋」
「わー、酷い言いよう」
高橋は白々しく言う。

蝉がうるさい。
耳鳴りのように、頭の中に響いてくる。
耳をふさぎたかった。

高橋は俺の顔を面白げにのぞき込んできた。
「酷い」、と言う割にその顔はにやついている。
不条理に感じると同時に、ふとどうでも良くなった。

俺は「みっともないよな」とつぶやいた。
「大会近くて――意気込んじまって。
自主練習にランニングしてたら事故って」
それが、俺がグラウンドの隅に腰掛けている理由。

目の前では、野球部が練習試合をしている。
数週間前まで、俺がいた風景。
それを、松葉杖を脇に置き、校舎横の階段に腰掛け、ぼーっと眺めていた。
「あのときは初めて花畑を見たかも」
自分の現状があまりにも信じられなくて、ぽつりとつぶやく。
花畑の向こうに渡りたかった。
それは言わなかった。

「ヤバイじゃんそれ」
高橋はケタケタと笑い、「キレーだった?」だなんて尋ねてくる。
「さぁな」
俺は肩をすくめて、
「居心地は悪かったな。
何つーか、空虚で」
同じくケタケタ笑った。

「元気出しなよ。
あれだ、今からでも入らない?
合唱部」
高橋は合唱部だ。
3年生は一人だけで頑張っている。
その入部動機が“人数が少ない部に入りたかった”なのだからふざけている。
そしていくつもの賞を取っているのだからもっとふざけてる。
おかげで当時女子しかいなかった合唱部は、今や男女に大人気の部だ。

「冗談じゃない、誰が入るか」
一瞬「それでも良いかな」なんて思って、それを打ち消す。
「受験もあるだろう。
潮時なんだよ、俺はお前ほど出来も良くない」
「高校受験なんてチョロいもんさ。
君、今からそんなんじゃ、大学受験で音を上げるよ」
「そんときゃまた、そん時だ」

高橋は俺を無視して、隣に座った。
日に照らされたコンクリートは暑いだろうに。
案の定、奴は顔をしかめた。
「こんな所にいたら暑くもなるよ。
よくぶっ倒れないね」
「運動部をなめんな。
文化部は部屋の中に引っ込んでな」
とはいえ、俺ももう運動部じゃないけど。

事故で負傷した足がうずく。
また走りたい。
太陽の真下で、乾いた地面を駆け抜けるんだ。

正直。
俺は逃げたかった。
疲れたんだ、練習に、勉強しろって言う親に、
自分の意志で行動し始める周りに。
惰性でもって部活を続けていた俺はうんざりしてた。
何の成果も上げられずに、気づけば3年になっていた。

家の近くにある公園を抜け。
飛び出した目の前に迫るヘッドライト。
足が止まった。
恐怖と共によぎる高揚感。

ようやく解放される。
安堵感が俺を包み込んでいた――。

俺は左足のふくらはぎをめちゃくちゃに骨折して、
夏休みに控えていた大会には出られずに、そのまま引退した。

もう野球は出来ないどころか、
杖なしではまともに歩くことも出来ないと言われた。
詳しくは怖くて聞かなかったが、両親が何も言わないので本当なのだろう。

俺はもう燃え尽きてしまったのだ。
もうスポーツをする気はあんまりなかった。

「磯部はまた、野球がしたいんだろう?」
「は?」
高橋の突拍子もない言葉に、俺は不機嫌な声を返す。
未練なんかない。
そう言おうとして、高橋の笑顔に止められた。
「こんな夏休みのまっただ中、こんな暑苦しい場所で、
恋しそうにグランドを眺めてるくらいだ。
強がって嘘を付かなくても良い」

顔を上げれば、白いユニフォームが目に入り。

カキーンッ

誰かがセンターフライを上げた音がした。
「当たった!」
1年生なのだろうか。
ボールが高く上がっただけで、興奮しきった声を上げる。
走ることも忘れ、突っ立った。

ボールはやはり、センターの方へ落ち……そのままミットの中に消えていく。
「アウト!」
審判役の女子マネージャーが手を振り上げ、
バッターはようやく我に返った。
まだ興奮が収まらないのか、嬉しそうに笑ってバットを次の打者に渡す。
がっかりしていたチームメイトも、そいつの笑顔を見て苦笑した。

喜びは人数分増えて、悲しみは人数分減る。
ああ、やっぱり良い世界だな。
野球の一面だけを見て、のんきにもそう思ってしまう。

「そんな良いもんじゃねーよ、野球だって」
言いつつ、顔はにやけていたと思う。
高橋も『してやったり』といった顔をしていた。
「良いもんなんだね」
高橋が茶化すように反対のことを言ってくる。
まったく、天の邪鬼だ。
俺も奴も。

「ねぇ、磯部。
部活やんない?」
俺はちょっと口ごもる。
一瞬迷ってしまった。
だけど。
「……やんない。
お前、発表会近いから、素人が入ったら困るだろ?」
「そんなことない」
思いの外強く言われて、びっくりした。
高橋を見てみれば、真剣な眼差しとぶつかる。
動けなくなった。
ただただ圧倒された。

ノドが渇く。
ペットボトルの生ぬるい水が恋しい。

惰性で生きている人間には、真夏の直射日光のような真剣な視線が痛い。

「夏の発表には間に合わないけど、秋の方には大丈夫さ。
野球部で声出してんだろ?
音楽の時間とか、ずっとお前の声聞いてた。
キレーな声で、ずっと声を掛けようと思ってたんだ」
コンクールに入賞しまくってる奴が何言い出すんだ。
お前の方がずっときれいな声をしているだろう?
目の前がぐるぐるしてくる。
訳分かんねぇ。

音楽の時間、確かに歌は好きで、友人と馬鹿みたいに大声で歌っていた。
それがキレーだって?
あいつの耳はおかしいよ!

俺は頭を抱えてうずくまった。
「ねぇ、磯部。
一緒にやろうよ、歌」
頭の上に重みを感じる。
高橋が俺の頭の上に乗りかかってきているんだ。
運動部と文化部の差か、それとも高橋の体質なのか、細くて軽かった。

人の体温は暑くて、俺は何もしてないのに汗をかく。
じっとりとして。
でも気持ち悪くはなかった。
体の芯はさわやかだった。

ふいに高橋が歌い出した。
歌詞はなく、メロディーだけ。
聞いたことがある気がする。
何だっけ、きれいな曲。
クラシックかな?

高橋はテナーだけど、ソプラノだって歌える気がする。
そんだけ、高くて澄んだ音が出る。
まるで、あれだ。
バットにボールが当たった瞬間?
もっと繊細な音をしているけど、インパクトはそれくらいある。

音を、ボールを追いながら、必死で進めていくプレイ。
追いつこうと、おいて行かれないようにと、めまぐるしくて。
そんな高揚感が堪らなく良い。

いきなり歌が止まって、俺の思考もやんだ。
「ねぇ。
今、野球のこと考えてたでしょう?」
高橋がつぶやく。
「何で」と問い返した。
「足。
走ってるみたいにリズム取ってる。
磯部はリズム感が良いな」
言われて、初めて気づく。
慌てて足を止めた。
高橋は押し殺した笑いと共に、ようやく俺の頭部を開放した。

風がそよぐ。
汗をかいた首下がひんやりした。
「あ〜、汗びっしょりだ」
起きあがって首の後ろの汗をぬぐった。
目の前では、3アウトで交替するところだった。
帽子を取って額の汗をぬぐう。
夏だな。
そう思った。

俺の夏は野球だった。
ああ、俺の夏は終わったんだなと実感する。

ボケ〜っとしていると、額に衝撃が走る。
「痛いっ!」
しばらく訳が分からなくて、目を白黒させた。
答えを聞きたくて高橋の方を見たら、口をへの字に曲げた奴と目が合った。
「何ボケッとしてるんだよ。
間抜けな顔」
不機嫌に高橋はぼやいた。
理不尽な態度に、俺はますます分からなくなる。
「いったい何なんだよ」
「良いよ、もう分かったから」
「何がだよ!」

高橋は立ち上がって、さっさと歩いていってしまう。
俺も追おうとして、足が痛んだ。
ちくしょう、もどかしい。
あいつが行っちまうじゃねぇか。

横に立てかけてあった松葉杖をひっつかみ、走り出した。
だてに松葉杖を使い始めてから日が経っている訳じゃない。
もう馴れた。
それなりのスピードなら出せる。

「待てよ!」
「うわぁっ?!」
追いつかれたことがよほど意外だったのか、
高橋はすっとんきょうな声を上げた。
思わず立ち止まって振り返る。

――良かった、ここで逃げられたら、追いつける自信はなかった。
逃げられる理由なんてないけど。

ところが、呼び止めたは良いけど、俺は何にも言葉が出なかった。
高橋は何も聞かずに、瞬きをした。
「まったく、僕は『野球』には敵わないみたいだね」
言って、高橋は笑った。

吹き抜けるような笑顔だった。
諦めたような、何か吹っ切れたような。
「良いや、それでも。
部活の件は諦めてあげる。
でも」
高橋はそこで言葉を切った。
今度は、満面の笑みを浮かべて、
「次は諦めないことにする。
良いかい?
高校は同じ所に来いよ!
絶対だ」

そして、決め台詞は。
「今度は、逃げるなよ」

高橋はきびすを返し、ダッシュで去っていった。
速い。
追いつけるわけがない。
俺はただ呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。

勝手に言いたいことだけ言いやがって。
逃げんなよ?
逃げたのはお前じゃねぇか。

どうせ俺はまだ高校を決めていない。
ていうか、あいつが受ける高校なんて知ったこっちゃない。
どうしろと言うのだ――。
漠然とした疑問だけを残して、俺は立ちつくした。

グラウンドから歓声が上がる。
ランナーが手を高々と振り上げて、悠々とベースを踏んでいく。
乾いた土が舞って、空気が茶色っぽくなった。
ホームベースに着くと、チームメイトが肩を叩いて迎える。
ランナーは喜びを隠せず、ガッツポーズを掲げて吠えた。

蝉の声がうるさい。
夏の日差しが暑い。
夏だ。
夏だ、これから始まる。
夏が終わる前に、高校見学にでも行って来ようか。

俺はさっき座っていた、階段の所まで戻った。
荷物――あまりないけど――の中からタオルを出して、汗を拭いた。

そういえばペットボトルがないのに気づいた。
さっきまで飲んでいた覚えはあるのだが。
「あ」
下を見て、俺は呻いた。

足下には、倒れたペットボトル。
いつの間に取れたのか、フタがなかった。
中からはスポーツ飲料がこぼれて、白い地面を黒く染める。
砂糖が入っていたらしく、アリがたかっていた。

白と黒のコントラストが広がっていた。

明日もまた学校に来ようか。
あいつの、高橋の合唱部でも見学しに――。

夏休みはまだ、半分以上も残っているのだから。



FIN

ヒマな時にちょくちょく書きためた物。
しかしルーズリーフに書いたので、打ち直すのが大変でした。
ていうか、これ、BL?
これだけだと訳が分かりません。
磯部君視点だと、彼はノーマルなので。
高橋君視点だと色々あるのですが。
学校で書いたもので、どうしてもこういった形になってしまいました。



モドル