[虹色キッス]
本来ならあるはずのない大きなシミを見つけて、雪夜は「お帰り」と言うのをためらった。 聞き覚えのある「ただいま」という声に振り返れば、そこには確かに見覚えのある顔があった。しかし同時に、決定的に違うものがついていた。 雪夜はあまり人の顔をじろじろ見るのが好きではない。それでも、勇也の顔に――少なくとも今朝一緒に家を出る段階では――パンダのように右目を覆う青いシミなどついていなかったはずだ。 「何それ」 お帰りと言うために用意していた声を思わず疑問の言葉に変える。勇也は答えず、眉間にしわを寄せた。不満げな視線を雪夜によこす。 仕方がないので雪夜はついでのように「お帰り」と付け足した。それで多少は満足したらしく、勇也は声を低くして「アザや」と答えた。 床に荷物が投げやりに置かれると、その震動が雪夜の座るソファーにも響いてきた。部活帰りなので相変わらず大荷物だ。 なるほど、アザか。見ると確かにそのシミはペンキなどで塗り付けられたたぐいのものではなく、内側から色がにじみだしているものだった。純粋な青ではなく赤紫や黄緑が周囲に散っている。 これまた大々的なアザを大胆な場所につけたものだと雪夜は呆れを通り越して感心した。 「ずい分派手な蒙古斑だな」 「何でやねん」 関西人特有の素晴らしい反射神経で突っ込みの手がソファーを叩く。触れられることを嫌う雪夜のために譲歩するくらいの節度は、この一年でついてきたらしい。 雪夜はソファーの背に寄り掛かって身を反転させる。電車で座席に膝をつき外を見ている子供と同じ体勢になって、勇也を見上げる。 「ならそれは何だ」 「せやから、アザやアザ。安倉に殴られた」 どれだけ強い衝撃を受けたらこれだけの内出血ができるのだろうか。実験したことがないので雪夜には分からない。 強い者いじめをするために自己鍛練は惜しまない安倉のことだから、さぞかし嬉々として勇也を全力で殴ったのだろう。安倉のやたらにさわやかな笑顔が容易に想像できた。 太い二の腕から繰り出されるストレート。スイカくらいぶち割る威力があるだろうか。とりあえず頭蓋骨を割るだけの威力はなかったようだが、勇也の右目は腫れあがってほとんど開いていなかった。 この顔で学校から暗い夜道を帰ってきたのだと思うと軽くホラーだ。日暮園から妙な怪談が発信しないことを祈る。 「冷やせば」 あまりお岩さんのような顔をさらされても近所迷惑なので雪夜はそう提案する。別に勇也を心配しているわけではないからわざわざ動かないし勇也もそれを期待しているわけではないので、素直に「せやな」と台所の方へ向かっていく。 廊下に出たところで、誰かに遭遇したのだろう、ということは突然響いた笑い声からうかがえた。時間的に大声を出すのは小さな子供たちによろしくないが、それでも最初の「あは」だけは抑えきれずにリビングまで響いてくる。 口元をふさいだのか後半からやっと声が小さくなっていく。くぐもった笑い声はなおも継続していた。よほどつぼに入ったらしい。 ドアにさえぎられ姿は見えないが、キャラ的に悠大だろうなと検討をつける。わざわざ確認するのも面倒なので、背もたれに胸を押し付けながらぼんやりと廊下の方を見ている。 ドアが開くと、入ってきたのは果たして悠大だった。口元を手で押さえて、隠しきれなかった笑みが目元にはみ出ていた。細められた目じりに線が入る。 笑うことに気をとられて悠大が鴨居に頭をぶつけた。今度は雪夜が吹き出す。なおも悠大は笑っていた。 「何、あれ」 笑いの延長線上で声を震わせながら悠大が聞く。雪夜は「アザだって」と端的に言った。 悠大は笑いを押し殺しながらソファーに腰を下ろす。ただでさえ腰の位置が高い悠大が勢いよく座ったものだからソファーが大きく沈み、雪夜の身体の方が跳ねた。 いい加減呼吸が苦しくなってきたらしい、大きく息を吸い込みながら、悠大はやっと笑いを収めた。 「いや〜、ナイスインパクトだったわ。何かの罰ゲームかと思った。勇也の間抜け面には映えるね」 「俺は遺伝子の突然変異かと」 人間からパンダの遺伝子が入り込んだのかと思った。それくらい勇也のアザのインパクトは異常だった。 「人間だとすら思われなかったんかい」 呆れた突っ込みを入れたのは、台所から戻ってきた勇也だった。冷凍庫に入っていた保冷剤にタオルを巻いて目元に押し付けている(よく熱を出す雪夜や小さい子たちのために保冷剤が常に冷やされている)。 「ところで」 勇也は雪夜をはさんで悠大の反対側に腰を下ろす。三人用のものが横に二つ接続されているが、悠大が幅を取って座っているため雪夜はちょっと横にずれなければならなかった。 「何か模様変えしたん?」 「いや、してないけど」 時間が経過するごとにアザの色が赤っぽく変化していっている気がした。雪夜は興味本位でアザに指を触れると、冷やされている部分と熱を持っている部分の温度差がはっきりと感じられた。 「何かえらく配色が地味になっとんのやけど」 雪夜は指を離す。一瞬の間を置いて、悠大の方を振り返った。悠大は眉をひそめ怪訝な顔をしていた。おそらく雪夜もそういう顔をしているのだろうと思った。 「何色に見えんの?」 悠大は身を乗り出して、雪夜の向こう側の勇也をのぞき込む。 「悠大の髪の毛が灰色に見えとる」 「お前、それ」 悠大は焦りを声に織り交ぜた。言葉を途中で切って雪夜の顔を見る。雪夜には悠大の髪の毛が明るめの茶色に見えるし、悠大も染め変えたつもりはなかった。 つまり、変容したのは勇也の目の方である。そして原因と思しきものは右目の周りにあからさまに広がっている。 「病院行け!」 悠大は髪の毛を掻きながら携帯を取り出し、今の時間帯でも診察をやってくれそうな病院を考えた。そもそも何科に行けばいいのだろうか。雪夜はよく病気をするから悠大は昔から気を遣ってきたが、馬鹿の怪我は専門外だ。 「何の騒ぎ」 聞こえてきた高く落ち着いた声に、悠大は知人の病院関係者の電話番号を探す手を止めた(ちなみにほとんど女医か女性看護師である)。三人がほぼ同時に廊下を見ると、寝巻きにショールをかけたおかっぱの少女が、壁に手を添えながらリビングに入ってきた。彼女のほとんど機能しない視力を支える便底眼鏡はかけられておらず、現状ではほとんど見えていないのだろう。 「沙羅、寝たんじゃなかったのか」 「あなたの笑い声で起こされたわ」 「それは失敬」 悠大は携帯の状態をそのままにてふたを閉めた。立ち上がってポケットに押し込む。沙羅に手を伸ばすと、沙羅は迷うことなくその手を掴んだ。 悠大に誘導されながら沙羅はゆっくりとリビングを横断する。沙羅の履いたスリッパがフローリングの床をこする。カーペットによる段差に気をつけながらソファーの横に来て、悠大はやや迷った末、ソファーには座らせず勇也の横に立たせた。 「顔が酷いことになってるんだけど、分かる?」 沙羅の手を勇也の顔に触れさせる。小指がまぶたをかすめて、勇也は反射的に目を閉じた。 「ええ」沙羅が小さく頷く。「間抜けさが上がったわ」 悠大はまた吹き出しそうになるが、さすがに笑っていられる状態ではなく、無理やり飲み込んだ。 「色が見えてないらしい」 「そう」 沙羅は静かにそれだけ言って手を下ろした。 「見えないのが色だけなら何とかなるわよ」 「沙羅にとってはそうだろうけどなぁ……」 悠大は危険を主張する相手を間違ったことに気付いた。目が不自由な沙羅のハードルは高すぎるのだ。 勇也はもともと視力がものすごくいいし、時折視力強制器具を使わなければならない悠大や平均そこそこの雪夜より、障害を負ったときの落差は大きいだろう。 と悠大は思うのに……何より勇也自身が無自覚的だ。何故自分が一番気を揉まなければならないのかと、悠大は疑問にすら思えてくる。スポーツマンにとって目は大事なんじゃないのか。 「それに」 沙羅は勇也の目に触れた指先を胸元で握り締める。 「たぶんすぐに色彩感覚は戻るわよ」 「何か見えたのか?」 悠大が聞くと、沙羅は浅く首を動かした。 沙羅は目が不自由なせいか不可視のものが「見える」。それは主に占いの分野で威力を発揮して、タロットカードを使うと、脅威の的中率をほこる。占いの的中率で高校に推薦入学したのは沙羅くらいではないだろうか。 「どうやった?」 「あなたが」 と言って指差されたのは、雪夜だった。今までやり取りをぼんやりと眺めているだけだったところに巻き込まれて、軽く舌打ちをする。 沙羅はきっとろくな予言をしない。それは沙羅と長年付き合ってきた雪夜の「予感」というか、勘だった。 「勇也の患部に口付けでもすれば戻るんじゃないかしら」 顔が引きつったのは雪夜だけではなかった。勇也も悠大も表情が凍結している。硬直していないのは沙羅だけだ。 占いというものが既に西洋科学に反しているが、沙羅の予知することは、どんなに非科学的なことでも効力を持つ。その非現実さに今さら抵抗感を覚えることはないが――それにいたる行動として自分が犠牲になるのなら話は別である。 「何で俺が」 当然のように雪夜は抗議するが、沙羅は絶対者の威厳でもって、厳しく雪夜を諭す。 「医者に行ってもどうにかなるものではないけど、このままでもいいのかしら」 無責任にも「わたしは気にしないけど」と付け加える。即座に「気にしないんかい!」という突っ込みが入った。その時うっかり手を放してしまい、目元の保冷剤が腿に落ちる。 冷やしているためか勇也に痛がる様子はないが、少なくとも状況が改善しているようには見えない。沙羅の予言がほぼ疑いようのないものであることを知っている悠大は、電話を開いたままその次の段階に行動を起こすことをためらっている。 「冗談はそのくらいにしときや、沙羅」 勇也がどういうつもりでそう言ったのかは雪夜には分からない。日暮園に来てまだ日が浅いから沙羅の言うことを信用していないのかもしれないし、雪夜に気を遣ったのかもしれない。 「このままでも別に困ることはなかったで。組み手続けても支障でーへんかったし」 「その時点で病院行っとけよお前らは」 行かなかった方も行かせなかった方にも呆れつつ、悠大は結局携帯を閉じた。西洋医学に頼ることは断念したらしい。 その行為で、雪夜は自分の逃げ道が絶たれたことを知った。 悠大が背中を押すならば雪夜に意地を張る理由はない。沙羅の占いの結果はいつも正しく、そして悠大の判断はいつも正しいことを知っている。 「勇也」 「うん?」 「こっち向け」 勇也が反応する前に、頬を引っつかんで、雪夜の方を向かせる。 仕方がない。勇也だって一応仲間だ。そう思える程度には一緒に過ごした。やるならためらわずに一瞬の方がいい。 雪夜は軽く目を閉じ、勇也のまぶたに唇を寄せた。唇の先が軽く触れる。冷やしていたはずのそこは、なぜか燃えるように熱かった。 すぐに唇を離して勇也を見る。手の甲で軽く唇をぬぐった。そうしないと熱を媒介して青い色が伝染してきてしまいそうだった。熱さは未だに唇の上に残っていた。 勇也はきょとんとしながら大きく瞬きをしていた。あまりの反応の鈍さに雪夜はイラッとする。どうせならいつものようにリアクションをすればいいのに(どうでもいいときに限って勇也のリアクションはでかい)。 勇也は視界をぐるりと一周させ、ぽつりと呟いた。 「戻った」 「はぁ?」 あまりにも突然の変化に、雪夜は鋭く問い返してしまう。色彩感覚というものは果たしてそんなにころころ変わるものだっただろうか。 「色が見える」 「わたしの着ているショールの色は?」 「桃色」 淡い桜色だったが、遠くはないだろう。色彩感覚を失う前には見ていないはずのショールの色が言い当てられたのだから、確かに治ってしまったようだ。 雪夜は呆れるような安心したような、気が抜けて肩を落とした。 「んで」 それで終わらせてくれないのが勇也の空気を読んでくれないところだ。 「悠大の頭は緑色」 「何で!」 突拍子もない発言に悠大は思わず自分の髪の毛を引っ張って確認してしまう。そんなことをしなくても自分の髪の色など染め変えていないのだから変化していないと分かるのだが――やはり(緑よりは)普通の茶色だった。 「雪夜の髪は真っ青」 「いや、おかしいってそれ」 悠大は手を横に振って全力で否定する。雪夜の髪は確かに青みがかって見えたりもするが、立派な黒髪だ。 悠大の言葉に勇也が不服そうに抗議する。 「せやって、そう見えるんやもん。原色でちかちかしよるけど。何と言うか……虹色?」 それはまた鮮やかなことで。悠大にも雪夜にもコメントのしようがなかった。 「わたしは」 沈黙する二人の間から、沙羅がしれっとした様子で言い放つ。 「色彩感覚が戻ると言ったけど、治るとは言ってないわ」 悠大は持ち前の記憶力で沙羅の台詞をたどる。確かに言ってない、が。 悠大は行き場のないもやもやを手のひらにこめて勇也をはたいた。 「いてっ」 「ああもう、やっぱお前病院行って来い!」 「何で俺が殴られるん!」 「そもそもお前が面倒ごとを持ち込んだんだろうがぁぁぁぁっ!」 例え沙羅が悪くてもとりあえずは勇也を殴るのだが。 悠大の近所迷惑を顧みない叫びを皮切りに、悠大と勇也の壮絶な口論が始まった。無口な沙羅と雪夜には二人の暴走を止められるはずがない。 沙羅はソファーの背もたれをたどり、なるべく二人に遠い位置に腰を下ろす。雪夜はその傍に座り直した。 「で、どうなるんだあれ」 「その内収まるわよ」 「どっちが」 「怪我も喧嘩も」 「そう」 雪夜の同意を最後に、二人はそれきり黙ってぼんやりしていた。悠大と勇也の言い合いが二人の前を素通りしていく。沙羅がどうにかなると言うならばもう雪夜にすることは何もない。ただ眠気が襲ってきて自然に脚がベッドに向かうまで待つだけだ。 喧騒と沈黙のコントラストが、鮮やかにリビングを彩る。そのアンバランスは、佐伯が勇也をどつき倒して収めるまで、静まりそうにもなかった。 FIN. ちるはさんに捧げたものです。題名だけ先に浮かんで、それに沿って話を作ったものです。おかげでものすごくハイペースで書けましたが、後から読み返すと驚くほどぐでぐでですね。視点がぐるぐると移動してしまって色々混線しています。実は三人称苦手なんじゃないのか自分、っていう。 日暮園高校生カルテットの仲良し具合は書けた気がします。悠大、雪夜、沙羅はクールなお人たちなのに、私が書くとどうにも賑やかになるらしいです。原作者談。 |