鼓膜をじりじりと削り取る音。蝉が鳴き始めたのは、いつからだっただろうか。ウグイスが鳴きやんだのは。紫陽花が咲いたのは。カタツムリが我が物顔で歩道をのんびりと歩き始めたのは。
いつの間にか見かけるようになっていたし、いつの間にか見なくなっていた。どうして俺たちは季節の微妙な変化というものに無頓着なのだろう。 でもきっと、なければ俺は酷い喪失感に襲われるのだろう。自分の半身を失ったかのように、悲しくなるに違いない。そこにあることが当たり前になって――俺はいつの間にか好きになっているんだ。 今ここにいない、あの薄情者のように。 「友人以上」 Nearest 俺は照りつける太陽をなるべく見ないように、下を向いた。色濃い影は間接的に日光の激しさを物語っている。真っ白に照り輝いた道路は熱い。裸足で歩いたら足の裏が焼けてしまいそうだった。 小さい頃は黄色い声を上げながら裸足で地面を駆けたものだが、今はもうそんな度胸はない。さすがに高校生がそれをやったら気違いに思われるだろう。 日傘を差した女性が歩いてきたので、俺は歩道に出て避ける。狭い道なので二人が一度に通れる道幅はない。歩道と道路には段差があるので、すれ違う瞬間女性と俺の背丈が丁度同じくらいになる。 女性が軽く頭を下げた。俺は頭を下げ返しながらほんの少しうらやましく思えた。日傘は貴婦人の特権だ。傘の日陰に収まった婦人はとても涼しげに見える。 シャツから出ている部分は海にも行っていないのに、いい感じに焼けてきている。連日学校に足を運ぶ中で、いつか焦げてしまいそうだった。 焼けた肌は熱い。汗が流れるとほのかにしみて痛い。皮膚ガンとかシミとかには全く興味がないが、この痛みを軽減できるならば、俺もぜひ日傘を使いたいくらいだった。 加えて、この湿気。肩の辺りまでまくった袖は汗で重くなっていた。背中ははシャツがべっとりと張り付いている。エアコンは別に良いから誰か巨大な除湿器を外に設置して欲しい。そうすれば体感温度は少しでもましになるはずだ。ついでに空気中から取れた水を再利用して、水不足を解決。夏休みの自由研究にしてしまおうか。残念ながら、そんな宿題は出ていない。 ふと肌に水滴が落ちてきて、顔を上げた。夕立が来たのかとも思ったが、空は憎らしいほどの晴天だった。地平線で構えている積乱雲もはるか遠くに見える。 「よぉ、これから学校かい?」 声のする方に振り向くと、再び水。近所のおっさんが、青いホースを持ったまま手を振っていた。ホースの先からは水が溢れている。どうやら水まきをしていたらしい。 「そうっす」 「大変だね〜、部活?」 「いや、補習です」 念のために説明しておくが、補習と言っても夏期講習のようなものである。学校主催のためただなので、俺は塾には行かず学校に通い詰めることにした。夏休み前にあった期末テストの点が悪かったわけではない。 おっさんがホースの口を潰して細かい水しぶきをまき散らすと、小さな虹が出来た。黒く濡れたコンクリートからは、蒸発した水分が上がってきて気持ちいい。 「そういや、直行君は?」 息が止まった。 ゆっくりと空気を飲み込んで、何とか心臓を動かした。俺は緩慢な動きでワイシャツを扇ぐ。徐々に蝉の声が聞こえてきて、俺は一瞬感覚が麻痺していたことに気付いた。 おっさんが顔をしかめて「いないんだったな」と呟く。俺に聞こえないくらいの声で言ったのはおっさんなりの配慮だろう。俺が一番ショックを受けているだろうから。 正直、できすぎた幼馴染みの直行とは離れたいと思っていた時期もあった。いなくなっても何とも思わないどころか、喜んだだろう。いざいなくなってみれば、いないという事実にさえ狂いそうになる。 「本当は、もう少し早くまいておきたかったんだが、寝坊してね」 おっさんはゆっくりと口を開く。話題転換が優しく俺の心を撫でた。俺はぎこちないと判っていながらも笑みを浮かべて「そうですね」と返す。 昼間に水をまくと、逆にお湯のように暖まって、湿度が増すだけである。俺は九時に始まる補講に、少し早めに家を出ている。まだギリギリ大丈夫な時間だろう。 「それじゃ、頑張ってな」 おっさんは挨拶がわりと言わんばかりにホースを俺に向ける。水飛沫が足にかかって、俺は思わず飛び退いた。おっさんが愉快そうに笑う。俺も自然と笑みがこぼれた。 慰めてくれるのは嬉しいけれど、もう少し器用なやり方は出来なかったんだろうか。仕返ししようにも俺の手元には補習の道具が入ったカバン一つしかない。 遠ざかりながらこっそり振り返ると、おっさんは奥さんにしばかれていた。俺は思わず吹き出す。尻に敷かれているらしい。 ズボンまで足にへばりつくようになってしまったが、暑さはかなり吹っ飛んだので不快な感じはしない。大げさに手足を振ると、水分が熱を奪い取っていく。 夏休みに入ったばかりのこの時期、朝の時間帯はあまり人を見かけない。小学生の団体や遅刻気味の中学生に車道に押しのけられる心配がないのは快適だ。早い時間に出ると、歩道はあっという間に低い頭に埋め尽くされてしまう。 人混みの中にいると逆に遅くなるので、登校時間を遅くにずらしたものの、地域のラジオ体操皆勤賞だった俺としては、朝が早い方が何となくすっきりする。朝特有の空気のにおいはさわやかだ。 俺は汗まみれになった腕時計を外した。腕時計のベルトがまかれていた部分は見事に水浸しだ。手首を指先でなぞって、腕時計をポケットに突っ込んだ。 どうのんびり歩いても遅刻する心配はないだろう。補習開始時間まではまだ十分あるし、俺の家は学校まで徒歩で行けるほど近いのだ。距離も考慮に入れて学校を選んだだけのことはある。 近所に住んでいた同じ高校の幼馴染みにも同じことがいえたわけで、不可抗力にも通学はいつも一緒になってしまっていた。自動的に小中高と十年以上連続。その記録は、今停滞していた。 俺は足を止めて、住宅地へと続く脇道を見る。比較的新しい家が左右に並ぶ小道はせいぜい車が一台通れるくらいの道幅で、その先が行き止まりなのかどうかは俺でもよく知らない。 ただいつもとは違う道を通りたい気分だった。どうせ時間はたっぷりある。 この道は気持ち悪い。いつも通り慣れた道。なのに、あいつがいない。 あいつは――遠くへ行ってしまったから。 不思議に思ってしまう。どうしてあいつがいないんだろう。ずっと傍にいたというよりも、つきまとってきたくせに。 いないと実感したとたん、蝉の声も、暑さも、虚無感に飲み込まれてしまうように感じた。むしろ寒気がした。だんだん感覚が小さくなって、いつの間にか消えていく。 汗がアゴのラインを伝うように流れて、首筋に落ちた。 「直行」 呼んでも返事など返ってくるわけがない。そもそも届かないんだ。 俺は足早に道を急いだ。どの道を行ったか覚えていなかったが、歩いていたのは結局、歩き慣れた道だった。自覚していなくても体が覚えている。いつもの道、直行と歩いている道。 途中まで気付かないくらいなら、いっそ最後まで気付かなければいいのに。俺は馬鹿だから途中まで気付かずに通り過ぎてきてしまった、愚かにも振り返ってしまうんだ。 俺は信号機のない横断歩道の手前で立ち止まって、振り返った。「何で急に走り出すんだよ」文句を言いながらも余裕でついてくる直行の姿が目に浮かんだ。 でもそこには誰もいない。甍の屋根や平坦な屋根、立てられた時期によってまちまちの家屋が並ぶ横に、細い歩道があり、車の通っていない車道が伸びているだけだ。 車が来ないことを確認して、向こう側に渡った。歩調を早めたせいで先ほどよりも暑くなった。皮膚から汗が噴き出してくる。一度立ち止まると疲労は一気に襲ってくるもので、俺はふらつく足を何とか前に突き出す。 「電話だよ」 突然すぐ側から聞こえてきた声に、俺はよろめいた。視界はむしろはっきりしている。目の前には緑色のフェンスがあって、その向こうには木が鬱蒼と茂っている。春になるとこの辺りには桜が咲くんだ。 俺の目はしきりに声の主を捜していたが、傾く身体は反射的にガードレースを掴んでいた。鉄の部分は熱をたっぷりと吸収していて、熱い。手のひらに痛みが走る。手を開いてみると、親指の付け根がほのかに赤くなっていた。 すぐに顔を上げて周囲を見るが、誰もいないのは変わらない。 「電話だよ。早く君の声が聞きたいな」 声は繰り返し聞こえる。電話だよ、電話だよ、電話だよ……。俺はようやくこのふざけた音声が携帯電話の着信音だということを思い出した。カバンの中から振動を感じる。 直行が自分の声を着信音に設定したのだ。恥ずかしいので、目覚ましをセットするとき以外はマナーモードにしている。未だに解除していない俺自身も相当な馬鹿だ。 肩のカバンのチャックを奥に引っ張り、内ポケットから携帯を取り出す。白くて四角い、無愛想な携帯電話は、高校入学以来見慣れているものだ。 俺は受話ボタンを押して携帯を耳に押しつける。 「もしもし?」 「……、……!」 返ってきた言葉が聞き取れず、もう一度「もしもし」と呼びかける。音声があまり良くない上に、何だか早口だ。俺は聴覚に意識を集中する。何となく、日本語でないことだけは判った。 あからさまに怪しい。切ってしまおうかと思い、密かに終了ボタンに指を伸ばす。それを気配で察知したのかどうかは判らないが、相手が大きな声を出した。 「こらー、今切ろうとしただろ!」 突然聞こえた日本語。それは、聞き間違えようもなく。 「……直行?」 「俺以外の誰がいる? もし俺以外から電話がかかってくるようなら今すぐ電話番号を変た方が良い。そして俺以外に新しい番号を教えるな」 「無茶言うな」 俺は笑いながら返した。そんなことをしたら友達と遊びに行くのも面倒だし文化祭の準備もしにくくなる。電話の向こうで直行が息を漏らしたのが判った。 「元気そうだな」 「それ、昨日も聞いた」 直行にとってはおやすみコール、俺にとってはおはようコール。毎日の日課みたいなものだ。そんなしょっちゅう国際電話を使っていたら、使用料金はいくらくらいになるのか。 「今日はもうかかってこないのかと思った」 いつもかかってくるのは、俺が学校に行く前。ちょうど暇をもてあましている八時前後だ。電話がかかってこないとき、八時過ぎてからの俺がどんな思いで過ごしているのか、直行は知らないだろう。 傍にいないだけで狂いそうなのに、声まで聞けなくなったら、俺はどうすればいい? まったく、直行禁断症状だね。 「まさか!」 直行は声を張り上げて即答した。俺の気分が少し浮上する。 「もうすぐ帰国だからな、送別会とかがあっただけだよ」 「綺麗な外国人さん、沢山いた?」 茶化すようにして聞く。直行は言わないけれど、留学先でも直行はもてるのだろう。背だって日本人にしては高い。成長期に入ってからは直行は見て判るほど背が伸びている。俺も伸びたけれど、未だに十センチ近く直行には追いつけていない。 直行が語学留学のためアメリカに渡ったのは、一ヶ月前。期末テストが終わり、夏休みに入るのを待たずして七月頭に発ってしまった。 腹が立ったのは俺には何の相談もなかったことだ。前々から「俺が遠くに行ったらどうする?」とか「俺がいなくなったら寂しい?」とか訳の分からない質問はしてきたけど、まさかこういうことだとは思わなかった。 ああ、寂しかったとも、この野郎! 悔しいから口には出さない。 いなくなってから、俺は直行が生活リズムの一環だったのだということに気付いた。朝起きるとき、調子が悪い。学校に行く気がしない。夏休みの宿題をどう片づけたらいいか判らない。自分の無能ぶりに正直驚いた。 最初の頃は携帯電話が繋がらなくて切れそうになった(それもそうだ、直行の携帯は海外非対応だった)。連絡を待つしかできない状況。直行が俺には見当もつかない、追いつけない遠くの地へ行ってしまって、俺は途方に暮れたんだ。 今の俺には直行が足りない。 「あのさ、電話はもう良いよ」 呟くと、電話の向こう側から沈黙が流れてくる。周りが静かだから、送別会とやらも終わり、自室にいるのだろう。国際電話だから仕方がないのか、時折音が途切れて奇妙な機械音が入る。多分向こうには蝉の声が届いていることだろう。 「俺、ウザイ?」 うざくないって言ったら激しく嘘になる。けど、いなかったら寂しい。そんなのあり得ない。蝉の声はやかましいけれど、蝉が全くいなくなってしまったら、日本人は蝉を求めはじめるのだろう。もし現物を生み出せないのなら、機械音でも良い、偽物でも良い、自分で作る領域に到るに違いない。 いつもそこにありふれていて欲しいとも思わないものが、本当に必要ないはずはない。本当はいつも両手に抱きしめていたいくらいに愛おしくて、ないと自分が自分でなくなる気がしてくるんだ。 「手紙も、いらない。メールもいらない」 だから。 「――早く帰って来いよ」 ガンッと、不審な音が受話器から聞こえた。プラスチック製の箱を落っことしたような、軽いけど硬い音。一体向こうで何が起こったんだ。 「大丈夫か?」 「だだだ大丈夫」 かなり声がうわずっている。完璧な直行ばかり見慣れてきた俺は、今直行がどんな顔をしているのか、想像もつかない。テレビ電話でないことが残念に思えた。 「待って、今夜の日本行きの便調べるから」 「今帰ってくる気か?!」 留学に行くのも突然だったが、帰ってくるのも突然なのか。それは留学を手配してくれた人たちの関係上、色々まずいだろう。俺の記憶が正しければ、どこかの英語塾が主催する留学システムだったはずだ。 「何も、そんな急に」 「会いたい」 話がまるでかみ合っていない。だけどきっぱりとした直行の口調に、俺は何も言い返せなかった。 「今すぐ会いたい。お前がいないと調子が狂う。すごく苦しい」 ――同じなんだ。俺も直行も、同じ事を思っているんだ。奇妙でおかしく思えるけど、何か嬉しい。 心臓の辺りからぐるぐると温かいものが押し上げてくるように感じた。暑くて暑くてしんどいのに、温かいのが気持ちいいだなんて変な感覚だ。 「……俺も……」 小さく言った言葉は、直行に届いただろうか。超ホームシック状態になっている直行が聞いたら本当に飛んで帰ってきそうだから、聞こえていない方が良いかもしれない。ミンミンゼミが頑張って青春を謳歌しているから、たぶん聞こえなかっただろう。 蝉の歌声に、はるか彼方の陽炎ダンス。いつも見ている憎らしい光景さえもが愉快に見える。いつも隣にあってウザイくらいの存在が、自分にとって一番愛しいって、俺はもう知ってるよ。 なぁ、直行? END? 梅雨も終盤にさしかかり、暑さも増す季節となりましたが、みなさまどうお過ごしでしょうか。いつもお越しいただいているみなさまに、ささやかながら暑中お見舞い申し上げます。 前半はさも直行が死んだかのような重い雰囲気で、後半はただのバカップルまがい(だって毎日電話してるんですよ)にしました。もう少し大人な二人を、という要望があったので舞台設定は一年後の夏をイメージしたのですが、二人とも結局退化しているようにしか思えません。「完敗宣言」の直後でも時期的に話は通じるように思えます。 さて、どうでも良い企画ですが、「友人以上」の主人公の名前を募集しようとおもいます(今さら)。「Web拍手」のコメント欄にご自分の考えた名前をフルネームで記入し、「もっと送る」ボタンを押せば完了です。2006年七月末まで募集しますが景品は名前を使ったSSを書くことくらいしか思いつきません……。 |