[優しい悪夢]


 動かない。空気が粘土のように肌にへばりついて固まっていた。その空間に伝わる音はなく、その空間を差す光はなく。誰もいなかった。
 ――梓?
 呟きは声にはならず、頭の中だけで響く。
 ――恵介、琴音。
 続けて弟妹の名前を呼ぶが、同じように意識の中で鈍くこだましただけだった。
 勇也は辺りを見渡した。首が動いたのか動かなかったのかもよく判らないが、とにかく付近には闇がばらまかれているだけで、何もない。自分がどこにいるのかさえもよく判らない。
 妙な既視感を覚えた。この感覚、どこかで味わっている気がする。暗く、静まりかえった空間。そこには、誰もいなく。
「おかん!」
 勇也は叫んだ。とたんに、何もなかった場所に通路が構築される。
 歩くときしむフローリングの床。新聞などが端に積まれいて、勇也の片腕ほどしかない、狭い横幅。薄墨を引いたように薄暗かったので色合いや細かい部分は確かではないが、見慣れた家の廊下だった。
 外は雪が降っているせいで暗くもなく明るくもなく、今が何時なのかは判然としない。――七時だ。勇也は直感的に思った。あの日、勇也が帰ってきた時刻。
 過去の出来事だと理解しながらも、勇也の意識は記憶の中に引き込まれていた。一歩一歩足を踏み出し、居間に繋がるガラス戸に歩み寄る。自身の足音もせず、静まりかえっていた。
 ガラスの表面は滑らかで傷一つなく、氷のように木枠に張り付いている。ガラス戸が鉄扉のように重々しく映る。勇也は取っ手に触れた。
 勇也が力を込めるまでもなく、ガラス戸が開いた。まるで闇に溶け込むかのように、綺麗に消える。
 その向こうは闇が広がっていた。家族が食事をしていたテーブルも人数分のイスも、母親も義父も弟妹も何もかもを飲み込み、暗闇が口を開けている。
 勇也はその場に立ちつくした。孤独感が勇也の精神を侵し始める。恐怖が生まれる。
 置いていかないでくれ。
 その瞬間、勇也のまぶたが上下に開かれ、漆黒の瞳が露わになる。白い点が瞳に映った。はるか遠くに光が見えた。
 長方形の形に闇がくり抜かれている。そこに人影が見える。白い服を着ている中年というにはやや若く見える女性だ。勇也の母親だった。
「おかん――!」
 勇也は闇の中へ足を踏み出す。足が沈む。支えるものは何もなかった。地面など存在しなかった。
 勇也の視界がゆっくりと足下に切り替わっていく。光がどんどん頭上に逃げていった。母親の姿が遠ざかる。
 勇也は必死で手を伸ばした。母親は振り返らない。光の向こうへとその姿が消え――。
 勇也は闇に飲まれた。

 勇也ははじけるように息を吐いた。覚醒した心臓が飛び跳ねる。目を見開くが、映るのは飾り気のない部屋の壁と天井だけだった。
 まだ日は昇っておらず、街灯のわずかな光が、かろうじて窓の縁を照らしている。使い古されたカーテンは色あせて裾がほつれていたが、洗ったばかりなので洗剤のいいにおいがする。
 大きく呼吸を繰り返し、夢うつつを彷徨っている意識を現実に引き戻す。闇の中に落っこちたと思ったら、今度は普通の部屋にいて、勇也は瞬間移動したかのような気分だった。
 一瞬見知らぬ部屋かと思ったが、ぼんやりと引越をしたことを思い出す。先日ここが新しい勇也の部屋となったのだ。
 同時に、やっと先ほどまでいた空間が夢の世界なのだということを理解した。勇也は顔面を手のひらで覆う。ぐっしょりと冷たい汗をかいている。小さな水滴が鼻の頭についた。深くため息をつく。
 母の失踪。その時のショックは、今でもぬぐい去れない。昨日まで傍にいた人間が消える悲しみは、父が死んだときにも味わっていた。だが自分の意志で相手が去っていくというのは、また違う苦しみがある。
 いつか弟妹たちも、勇也を置いてどこかへ行ってしまうのではないか。不安に駆られる。
 いや、彼らは長男である勇也よりもずっと、別れを恐れているだろう。勇也がショックを受けている場合ではないのだ。一刻も早く立ち直って、弟妹を引っ張っていかなければならない。
「あの男も……おかんも、おらんでも一緒や」
 口の中で呟いてみる。自分に言い聞かせるつもりで言ったのに、かえって涙が出そうになる。鼻の奥がじりじりして、目の下から水がせせり出してくる。いなくなったという事実が目の前に突きつけられただけだった。
 頭を横に振って、気を紛らわせようとする。闇の中で出来ることといえば、悩み事や空想しかない。しかも闇というのは人の心を不安にさせるもので、悪い考えばかりが浮かんでくる。何とか兄弟そろって同じ児童養護施設に来られたものの、いつ離れ離れになってしまうか判らない。
 じっとしていられなくて、勇也は身を起こした。手をつくと、下にあったのは布団ではなく絨毯だった。短くて硬い毛が手のひらにちくちく刺さる。布団で寝ていたことが幸いだった。おそらく夢の中で落ちる最中はみ出したのだろう。ベッドだったら今頃床に激突している。
 布団を完全にどかすと、冷たい空気が肌に落ちてきた。春の夜はまだ寒い。明け方に息を吐き出すと、白くなることもある。足先が真っ先に冷えていき、勇也は身震いした。
 闇に慣れてきた目で、辺りが確認できるようになる。勇也の部屋は四角い障害物がごろごろしていた。勇也が来る前は倉庫として使っていたらしい。運びきれていない棚や壊れたテレビが、部屋の隅にひっそりと佇んでいる。テレビは映らないものかと未練がましく残してあるのだが、画面に黒以外の色が映ったことはない。
 足下に気を付けながら、ドアへ向かう。絨毯は丁度良く勇也の足音を和らげてくれた。これで肌触りが良ければ文句なしなのだが。
 そっとドアノブをひねるが、金属のこすれる音は消えなかった。静かな闇の中に、音が大げさに転がっていく。心臓が飛び上がるが、手はドアノブから放さなかった。ひねったままうっすらと開ける。
 廊下には左右ずらりと扉が並んでいた。迷宮のようだ。当然のことながら、開いているドアはない。廊下の両端にある窓から入ってくる光が、ドアの表面を撫でていた。
 ドアノブをそっと放し、自分が出られる最低限の隙間から、廊下へ滑り出る。ドアを閉めるとまた音がしそうだったので、少しだけ開けたまま離れる。
 自分の体温で多少暖まった室内より、廊下はヒンヤリとしている。勇也は黒い長袖のパジャマを着ていたが、少し大きめのデザインなので、隙間に空気が入り込んで寒かった。
 弟たちは寝ているだろうか。向かいの部屋が上の弟と末の妹が寝ている部屋のはずだが、寝息が聞こえるはずもない。聞き耳を立てるわけにもいかず、勇也は壁に背を預けた。
 部屋から出たって孤独は変わらない。夜の闇は消えない。無音が苦しくて、声を上げたかった。
 勇也は目を閉じる。溺れている状態が一番辛い。眠りに落ちてしまえたら楽なのに、冷えた空気は勇也の意識を現実に引き上げる。眠りたい。落ちたい。まぶたの奥で、勇也は願った。

 何かが動く、微かな音を、勇也は聞いた。ドアが開いたような音だ。勇也はまぶたを引きはがした。
 立っている位置は変わっていなかったが、半ば座り込むような体勢になっている。外の景色はそのままなので、そんなに時間は経っていないだろう。数分の間寝ていたらしい。うとうとしたせいでむしろ頭がすっきりしてしまった。
 目の前の物に焦点を合わせると、床があった。廊下と並行に進む、フローリングの木目。でたらめな模様が暗がりで見ると人の顔みたいに見える。
 勇也は壁に押されて変形した後頭部の髪を掻き上げ、口を曲げる。廊下で寝ていた自分が滑稽に思えた。あまり廊下をうろうろしていると風邪を引いてしまう。入学早々に風邪を引くのはいささか格好が悪い。
 早いところ戻ろうと思って、腰を上げる。ふと顔を上げると、そこに頭があった。
「うわっ」
 口の中で小さく叫ぶ。夜なので声量はかなり抑えたが、代わりに心臓は勢い良く飛び跳ねた。もう少しびっくりしたら破裂してしまいそうだった。
 リズミカルに震える心臓を服の上から押さえつけ、勇也は目の前の人物をまじまじと見た。なかなか目の情報が脳みそに伝わらない。とっさに脳内で幽霊の二文字が浮かんだ。
「びっくりした」
 のんびりした口調で、彼は口を開く。びっくりしたのはこっちだ、と言いたかったが、喉が引き締まって何も言えなかった。声が出せても酷くうわずってしまうだろう。
「廊下に勇也が落ちてるとは思わなかったよ」
 落ちている、とは失敬な。言う代わりに、眉間にしわを寄せてにらみつける。真己は首を傾げてきょとんと勇也を見つめた。
 茶色がかった癖の強い長めの髪は、闇のせいで灰色にしか見えない。前髪が少し分かれていて、かろうじて目が見える。背は勇也と同じくらいだが、現時点では勇也の方がやや勝っている。
 真己は眠たげにパジャマの裾で目をこすった。長さは丁度良いのに、真己がやせているせいで、生地がやたら余っているように見える。肌はやけに白く見えた。
「もしかして……起こしてもうた?」
 勇也ははっと気付いて顔をしかめる。慎重に歩いたつもりだったが、真己は動物的勘が鋭い。人間と話すのが嫌いで、いつも動物にかまっているせいか、言動はおろか特技まで動物に似通っている。視覚に頼らず人の気配を感じ取るのは、真己の特技の一つだった。
「すまんな、うるさくして……」
 小声で謝ると、真己は首を横に振る。真己は良くも悪くも正直だ、違うというのだから別の理由なのだろう。
「悲しかったから」
 ガラスのように磨かれた水面に、雫が一つ。眠たげに動かされる唇に相反し、言葉は波紋のように浸透していく。前髪が顔の横に流れて、真己の目が開く。長いまつげを重たげに持ち上げる。丸い瞳孔が真っ直ぐ勇也を見ていた。
「勇也が、悲しかったから、目が覚めた」
 真己が人形のように細い腕を持ち上げる。その動作は綺麗で、どこか作り物めいていた。指が勇也の髪の上から顔の輪郭を撫でていく。
 どの器官を使えば離れた相手の悲しみが感じ取れるのか、勇也にはとうてい思いつかない。でも真己が勇也を慰めようとしているのは感じ取れた。何となく一生懸命で、何となく暖かかった。
「おおきに……」
 ふいに体が重くなる。とても眠かった。真己も既に瞳が半分閉じかかっていて、うとうとしている。自力で持ち上げるのが面倒になった腕が、勇也のパジャマ越しに肩に載っかっている。
 自分の身体が鉛のように重い。勇也は沈むように、壁に背中を引きずりながらずるずると座り込んでいった。
 腕もやたら重かった。首を重力に任せて下に向けると、腕の中に真己が居座っていた。余程眠かったのか、器用な格好で身体を丸めながら寝息を立てている。
 真己の身体は勇也の足を割って、腕の中に入り込んでいる。真己の足は胎児のように、胸につくほど折り曲げられていた。腕は細さからは見当もつかないほど強い力でがっしりと勇也の腕を掴む。暖が足りないのか、真己の身体が勇也の胸に寄りかかるようにして、這い上がってきた。
 重い布団だ。だけど暖かさは抜群だった。人肌は意外と寝心地が良くて、勇也もつい眠くなる。
 繰り返される呼吸。ゆっくりと脈打つ心臓。当たり前のことにひどくほっとした。離れていかないように、勇也は開いている方の手で無意識に真己の頭を首もとに引き寄せる。真己は苦しそうに身じろいだが、すぐに元の穏やかな呼吸に戻った。
 月明かりが雲に隠される。闇が深くなり、廊下が寄り深い色に塗りつぶされる。二人のシルエットが黒い影になる。深いけれど、闇は優しかった。

 目覚ましより早く起きて、すがすがしい朝だと思ったが、ドアを開けてすぐ、悠大は一番先に起きたことを後悔した。いつものように起こされる直前まで寝ていれば良かったのだ。
 夜の間に雲はすっかり飛ばされたようで、明け方はいつもより明るかった。廊下の窓からは青空がのぞいている。隣の家の屋根がいつもより鮮やかに見え、快晴の空の下、小鳥もはしゃいでいた。
 だがどう好意的に見ても、足下に転がっている二つの物体はあまりすがすがしくない。酔っぱらった若者が仲良く寝ている、という状況ならこの光景が理解できるのだが、生憎二人とも未成年だ。特に黒髪の方は頭が固くて二十歳になるまでは絶対に酒を飲まないだろう。
 勇也は腕をだらしなく広げて、壁にもたれかかっている。身体はかなり傾いていて、もう少しで倒れそうだ。
 足の上には、身体を丸めた真己が、器用に載っかっていた。猫を彷彿させる姿だが、どう考えても寝にくそうだ。それで熟睡出来ている二人はもはや芸術の域かもしれない。
「ていうか、何で廊下で寝てるのかね君たちは」
 呆れながら呟くが、勇也のいびきしか返ってこない。何の夢を見ているのか、幸せそうだ。
「風邪を引いても知らないよ」
 そう言いながら運んでやることはしない。真己はともかく、勇也は筋肉でかなり重たいだろう。悠大は朝から力仕事だなんてまっぴらゴメンだ。部屋の中にこもって、見なかったふりを決め込むのが一番だ。
 悠大の部屋のドアが閉じる。その真横で、真己が小さく寝返りを打った。

 雪夜は最初、まだ夢を見ているのかと思った。自他とも認める低血圧なので、朝に自信はない。一人で起きあがれればいい方で、覚醒後も十数分はまともに頭が回らない。下手につつくと不機嫌を通り越して低気圧が発生するので注意が必要である。
 シーツの化け物。それを見た第一の感想がそれだ。上半身が出ている勇也はすぐに判別できるのだが、その下に頭の天辺だけ出している生き物が何なのか判らない。
 茶色の毛並み。見覚えがなくもない。顔が見えないのでとっさには思いつかない。悠大は違うし、勇也はそこにいるし、沙羅は黒髪だし……。
 とりあえず。
「誰か、運ぶの手伝ってくんねー?」
 通行の邪魔なのでどかすことにする。まだ誰も起きていないようだが、後三十分もすれば誰かしら踏んづけていくだろう。非力な雪夜だけではどうしようもないので、とりあえず向かいの部屋の悠大を起こすことにする。普段はまだ寝ている時間だが、いつも遅くまで寝ているので、たまには早く起こしても罰は当たらないだろう。
 シーツの化け物を飛び越えて、ノックもせずにドアを開けた。ドアにかけられた名前入りのプレートが揺れて、代わりにドアを叩く。
 ベッドの上に何もなかったので、雪夜は少し意外に思う。悠大もシーツもなかった。悠大は既に起きていて、パソコンを起動させていた。画面には解読不能な記号の羅列が所狭しと並んでいる。
 普段はかけていない眼鏡をしていたので、いつもとは少し違う雰囲気を感じた。悠大は回転式のイスをひねって、雪夜の方に身体を向ける。雪夜を見ると、悠大は少し困ったように眉毛を下げて笑った。
「まぁ、どうせ俺に仕事が回ってくるのは、判ってたけどね」
 キーボードを押してアプリケーションを終える。デスクトップの背景は、どこまでも続いていきそうな、青空だった。


FIN.

 日暮園に来たばかりの頃の勇也です。廊下で寝る野生児どもを書きたかったんです。
 悩んで、休んで。不器用な彼らはそうやってちょっとずつ前に進んでいくんだと思います。



モドル