[友人以上]
ただそれだけで


 人間はないものを欲しがる。平穏に生きる者はスリルを求めて、戦乱の中に生きる者は平穏を求めて止まない。人は本能的に、自分にはない遺伝子を求める。進化し続けるために、人は求めることから逃れられないのだ。
 だから俺もないものねだりなんだってことは判っている。この状況から解放されたいと願っていても、どういう環境なら良いのか、そこで何をしたいのかは、具体的には決まっていない。
 たとえばもし陸島直行が幼馴染みでなかったとして、俺はどうなるというのだろう? 平凡に育ち、平凡に暮らし、平凡に過ごす。今と何も変わらない気がするのに、直行のいない生活は上手くイメージできない。
 当たり前だ。今の俺は直行の幼馴染みという立場で形作られたものであって、それを今さら変えることなんてできないし、そもそも無意味なのだ。
 俺は俺。直行の幼馴染み。それはひどく当たり前のことで、俺の根本深くに突き刺さっている。だからこそ時折、ひどく別の世界に憧れるのだ。
 それなのに、直行が幼馴染みでなくなったらと思うと、怖くなる。一体いつからだっただろうか。直行がいなくなったら嫌だ。幼馴染みじゃなかったら、直行は俺のことなんて見向きもしてくれないだろう。そんなことを考える。
 俺はこの感情を認めたくない。……そんなことを考えてしまう俺はまるで。
 陸島直行に恋する乙女みたいじゃないか。

「ねぇ、陸島君の好きな物って何?」
 二百ミリリットルのパックから放れ、グロスに潤んだ唇が動く。色が抜けて人形みたいにツヤがなくなった髪が、口元にくっつく。肩より少し長めに切られた金髪は鮮やかなピンでまとめられていた。ファンデーション特有の粉っぽいにおいが鼻を突いて、俺はさりげなく顔を背けた。
 俺は引きつりかけた唇を無理矢理微笑みの形に変えた。覚悟はできていた。それでも、いざこうして予想通りの台詞を言われると、平常心を保てない。
 同じクラスでも何でもない彼女が声をかけてきたのは、昼休み開始から十分後。直行が何かの集まりで席を立ってから、一分後のことである。
 男にしては小振りな弁当を平らげ、直行は席を立った。入っているのはおかずだけで、主食は売店のパンでカバーする。集まりがあるため、主食は集合先で食べるつもりらしい。直行はノートと鉛筆、ビニール袋に入ったパンを抱えていた。
 借りていたイスを隣の席に戻し、教室を出ていく。ノートと比較すると、直行の腕は本当に長いのだということがよく判った。腕を折り曲げてドアを開ける動作も、いちいち様になる。
 直行の見送りもそこそこに教室の中へ視線を戻すと、何人かが直行の出ていったドアの方を見つめていた。大半は女子。少し胸がズキリとする。
 直行は女子にもてる。幼稚園から一緒にいる俺が言うのだから間違いない。俺が知っているだけでも、告白された回数は数知れず。影ではもっと告白されているのではないだろうか。
 直行の姿が完全に見えなくなったであろうころ、見慣れない顔が教室の中をのぞき込んだ。あまりにも計られたタイミングは、彼女が初めから俺に話しかけるつもりであったことを物語っていた。
「陸島君いる?」
 廊下側の一番前の席に陣取った俺に、彼女は聞いた。俺はいないとだけ答えた。本当に直行に用がある人だったら、そこですぐに直行の行方を追うはずだ。引かなかった時点で俺はおかしいと思っていたのだ。彼女は偶然を装って、声のトーンを高くした。
「もしかしていつも陸島君と一緒にいる人?」
 自然に紡がれた言葉はむしろうさんくさく聞こえた。俺は嫌な予感を覚えつつも頷く。うさんくさいと思いつつも、可愛い女の子を前にしてしまうと気が緩むのは、男の性である。
「わー、やっぱり! ねぇ、私お昼まだなんだけど、隣に座って良い?」
 今度は頷く間もなかった。たぶん俺が断るわけはないと思ったのだろう。どちらかといえば彼女は可愛い部類の子に入る。自分で自覚しているから、ちょっと可愛くお願いすれば、たいていの男は黙って言うことを聞いてくれるのを知っているに違いない。
 髪の色こそかなり明るいが、化粧はそこまで濃くなかった。元の容姿が整っているから、化粧をする必要がないのだと思う。大きく弧を描いた瞳はぱっちりとした二重で、長いまつげは手を加えている様子がなかった。きつい印象を与える、細くつり上がった眉毛が難点だったが、愛嬌のある笑顔で帳消しだろう。
 彼女は持参した弁当箱を俺の机の端に置く。何で弁当を持ち歩いているんだというつっこみはたぶんしてはいけない。乙女には秘密がいっぱいだ。直行が先ほどまで座っていたイスを再び引き出して座った。
 赤系の色を織り込んだチェックのハンカチを解くと、ピンク色の可愛らしい二段の弁当が出てきた。ハートと花がちりばめられている。中身は見たところ手作りのようだった。鮮やかな色合いが、冷凍食品ではないことを教えている。
「それ、もしかして手作り?」
 半分ほど間で食べ終わったコロッケパンから口を放し、一応尋ねる。彼女は待ってましたと言わんばかりに、弾んだ声で「うん」と応えた。
 きっとこの子は直行狙いだ。いきなり直行に近付くのは大変だから、まずは俺と仲良くなろう……と考える女の子は、残念ながら一人や二人ではない。
 もしかしたら純粋に俺と友達になりたいのかも、と思った時期もあったが、直行に振られると同時に遠ざかっていく姿を見れば現実を嫌でも知る。目的もなく何かを実行しようとする人間などいないのだと知った。
 それでも好意的に話しかけられれば喜んでしまう俺は、おろかなのだろうか。
「良かったらあげようか?」
 箸に口を付ける前に、彼女は俺の弁当箱の方におかずをつまんでよこす。
「ほら、このタコさんウインナーなんて会心の出来!」
 空になった弁当箱の底に転がるのは、足が四つに別れたウインナー。目の部分はつまようじで穴が開けられている。とても凝っていた。
「スッゲー、ありがとう!」
 今度浮かべた笑みは、本心からだった。誰かと喋りながら食べる昼食はおいしい。直行がいなくなるととたんに寂しくなる空気を紛らわせてくれた。そして、次の一言に俺は易々と裏切られるのだ。
「ねぇ、陸島君の好きな物って何?」
 パックジュースに口を付けながら、彼女は屈託なく笑う。グロスがきらめいた。
 ああ、直行が幼馴染みでさえなければ。そんなことはあり得ないし、望んでもいないけれど、つい思ってしまう。
 俺は彼女がくれたウインナーを口に放り込む。口の中でタコの足は切断され、俺の胃の中へと流し込まれていった。

 雨が降った後だと、七月に入ったとはいえ、空気はつんと冷えている。冷たく感覚の鈍ってきた指を拳の中に握りしめる。伸びてきた爪が手のひらに突き刺さった。
 自転車で駅に向かい、電車を使って二駅ほど行くと、地元の駅にたどり着く。そこから徒歩五分ほどで家だ。俺と直行は学校を出る時間に多少の差異はあるものの、本数の少ない各駅停車の電車を待つと、たいてい合流してしまう。駅から家までの道のりを共にすることは、よくあることだった。
 今日は気分的に一緒に帰りたくなかったのだが、帰り道が一緒なのだから仕方がない。直行を避けるために回り道をしなければならないのもしゃくなので、足早に直行の前を歩く。足の長い直行は大股で平然と俺のすぐ後ろをついてきた。
 駅前の大通りを曲がると、道はとたんに暗くなる。一車両しか通れそうにない道の傍らには、オートバイが駐車してあった。それを照らすようにして、街灯が一つ。二つ目の街灯は、十メートル先に見える。
 少しだけ歩く速度が遅くなった。あまりの暗さに怯んだ、などとは言えない。直行はこの隙に俺の隣に並んだ。
「何か怒ってる?」
 世間話をするみたいに軽い口調で聞いてきた。イライラして、ぶっきらぼうに「別に」と答える。
 どうせならもっと機嫌をうかがうような口調で聞いてくれれば良いのに。どう言われても結局は苛立つに決まっているのに、理不尽なことを考える。
 直行が息を吐いた。長めの吐息はため息に違いない。俺の肩が急にピンと張る。直行が呆れてしまったのを感じ取って、無意識の内に身体がこわばった。
「昼休み」
 あまりにも的確な単語が紡がれる。
「何かあったのか?」
「どうして?」
 まるで見ていたかのような口振りに、思わず聞き返していた。直後、知らん振りをするべきだったと後悔する。直行が笑った気がした。
「朝は俺と一緒に登校。授業は同じクラス、放課後はキスの練習。下校も一緒。俺とお前が離れたのは昼休みしかないよな?」
 さらりと出された「キス」という言葉に、俺は立ち止まった。誰も聞いていなかったか、辺りを見回す。街灯と街灯の間に映る人影はなく、はるか後方の大通りに黒い人影が行き来するのみだった。
 安堵すると共に直行をにらみつける。口元は笑っていたが目つきは真剣だった。俺のことを本気で心配してくれているらしい。
 俺は制服のズボンにつっこんだ携帯電話を取り出した。高校に入ってから買ってもらった、まだ新しい機種である。開くと画面から光が漏れる。闇に慣れかけていた瞳にはほんの少しまぶしい。
 いくつかボタンを押して電話帳を開く。一番新しいアドレスを見つけて、携帯を開いたまま直行に渡す。
「今日知り合った子。直行もアドレス教えてって」
 直行はあからさまにため息をついた。何も見ないで携帯を閉じる。俺に突き返した。
「そういう奴は追い返せって、昔から言ってるだろ? お前を不愉快にさせる奴なんて大嫌いだ」
 直行は昔から恋より友情を取る。今まで何人かの女の子とは別れても、俺とは友達でいる。ささやかな優越感を感じて、嬉しかった。
 以前はたとえ直行狙いの女の子でも、一緒に話したかったから、追い返さなかった。もてない男の悲しい習性だ。今は、恋をする気持ちがよく判るから、むげに追い返せない。俺とその女の子たちとでは、かなり立場が違うけど。
「可愛い子だった」
 ぽつりと呟く。きっとあんな子なら、直行に釣り合うに違いない。何が気に入らなかったのか、直行は声を荒げた。
「俺はそういう奴とはつき合わない!」
 俺の腕が強い力で引っ張られた。後ろによろけて、立ち止まった。直行のでかい手が二の腕に食い込む。制服がしわになりそうだった。
 拳一個分高いところにある直行の顔を見上げる。肩がフェンスにくっつく。フェンスの向こうは空き地だった。昼間は野球をしている子供を見かけるけれど、夜はライトも切られ、真っ黒な闇が空き地の中央にうずくまっていた。
 直行の怒鳴り声を聞くのは久しぶりで、少しびっくりした。最近は穏和で物分かりのいい……作られた表情しか見ていなかった。それほど俺の軽率な発言が気に入らなかったのだろう。
 可愛いからつき合えばいい。そんな投げやりな言い方をされれば、確かに腹が立つ。直行にだって好きな相手がいるかもしれないのに。
 好きな子、いるのかな。考えると、また胸が痛む。そういう話は直行の口から聞いたことはない。直行が何も言わないから、てっきりいないのだと思っていた。どうなのか気はなったが、聞くのも怖くて、黙っていた。
 直行は意外に硬派だ。女の子と遊びはするけど、交際する人数はそれほど多くない。ちゃんと自分の目で見て、話してみてから、つき合う。直行は基本的に良い奴なのだ。だから俺は、直行を嫌いに思ったことなんてない。
「ごめん、軽率なことを言った」
 自分でも驚くほど素直に謝った。直行は拍子抜けして、俺の腕から手を放す。目を見開く直行は、小動物みたいで、何だか可愛い。
「交際に関しては意外と真面目だよな。そういうとこ、結構――」
 言葉を続けようとして、はたと気付く。結構、好きだ。好きだ。好き。……急に気恥ずかしくなった。
「何だよ、結構」
 文脈から察してくれれば良いのに、直行はめざとく聞いてくる。小首を傾げながら、じっと俺を見下ろす。少しだけ色素の薄い、茶色の目が、俺を見ている。
 い、言いにくい。さらりと言ってしまえば良かったと思ったが、もう遅い。口を開こうとすると、恥ずかしさのあまり、顔が赤くなる。俺はうつむいた。何とか落ち着こうとするが、口を開けば、緊張に声が震えているのが判る。
 言わずに誤魔化したいけれど、混乱した頭の中には何も浮かばない。「好き」という言葉がひたすらリフレインして、さらに鼓動を早める。
 些細な言葉なのに。どうしてここまでためらわなきゃいけないんだ。過剰反応している俺の方が馬鹿らしい。思わす涙目になるが、意を決して、言った。
「す、ススキ」
 あれ、何か違う言葉になった気がする。訂正しようと思ったが、突然直行の腕が俺の身体を包み込む。驚きのあまり言葉をすっかり飲み込んでしまった。
 シャツの上から直行の腕の感触を感じる。そこだけがほのかに暖かい。俺と直行の胸がぴったりとくっつく。筋肉の凹凸まで判る気がして、ひどく淫猥に思えた。
 直行の肩に顔を埋める形になった。外気の湿気のためか、汗のせいか、直行の肌はじっとりしていた。直行の身体は暖かい。俺の顔は熱い。このサウナみたいな腕の中から抜け出そうと、直行の胸を押す。鍛えられた胸板は意外と厚く、なかなか動かない。
「あのさぁ直行。何?」
「もう一回言って」
 ささやく声が耳の中に直接流し込まれた。耳たぶにかかる吐息。体の中に響く声は心地よかった。背筋に淡いしびれが走る。
「俺のこと、結構……何?」
 直行の手が俺の背中を撫でるように移動する。俺の短い髪の間に手を滑り込ませて、後頭部を押さえつける。息苦しかった。口が塞がっていて、ぶっちゃけ何も話せない。
 あごを上げて、何とか頭部だけ脱出した。直行の体温から解放された顔面が急速に冷えていく。
「す……好きだ?」
 改まった俺の言葉は、まるで愛の告白みたいだ。相変わらずハッキリ言うことはできなかったけれど、密着していたおかげで声は届いたらしい。
 直行の力が少し緩んだ。そして、逆にもっと深く抱きしめられた。脈打つ心臓が二人分の体温でじっくりことこと煮込まれていく。どろどろに溶けてしまいそうだった。
 直行が何かを呟くのが判る。喉からかすれた息が出る。何と言ったのかは判らない。
 直行は急に俺を解放した。支えを失った俺は平衡感覚も失う。よろけながら何とか足を地面につくが、体が大きく傾いた。倒れる前に、直行が俺の肩を捕まえる。
「だ、大丈夫か? ちょっと動転して……」
 口早に言いながら手を動かす直行は滑稽だった。慌てているのがありありと判る。
「その……何か、誉められたのが嬉しくて」
 照れを誤魔化すようにして笑う。頬は少し朱に染まっているように思えた。形のいい瞳が優しげに細くなる。やり場のない手で、長めの髪を掻き上げた。
 直行が子供みたいだ。すっごく可愛い。時折見せる幼い顔は、俺が小さい頃から知っている直行の顔そのもので、俺まで嬉しくなる。俺は肩にかけていたカバンを投げ捨て、直行に飛びかかった。
「うわっ」
 腕の中で小さく聞こえる直行の悲鳴。首に腕を回すと背伸びをしなければならなくなった。抱きしめても腕が余る。直行は小顔だ。
 直行の頭を盛大に撫でた。撫でるというより、掻き回す。直行の頭はあっという間にぐしゃぐしゃになって、鳥の巣みたいにふわふわになった。
 いつからだろう、直行は幼い顔を隠すようになった。だからついうっかり忘れそうになってしまうが、直行は直行なのだ。三つ子の魂百までとはよく言う。俺が知っている直行は、まだここにちゃんといる。
 完璧だろうが、女にもてようが、そんなの関係ない。だって直行が格好良くなる以前から、それこそ頭の毛が生えそろう前から、俺は直行の傍にいたんだ。小学校も中学校も一緒の腐れ縁。幼馴染みという名称に、それ以上の意味なんてない。
「俺、お前と幼馴染みで良かった」
 俺は今、ほんの一瞬だけでも、心の底からそう思える。一緒にいることが楽しい。その思いさえあれば、直行が幼馴染みでも、ただのクラスメイトであったとしても、関係ない。
 直行が傍にいる。ただそれだけで、今はこれ以上なく幸福なんだ。俺は直行の頬に、子供みたいな軽いキスを落とした。


END?

 このシリーズが好きだ、と言ってくださった方がいらしたので、「完敗宣言」からおよそ一年半ぶりに続編を書きました。文体が変わっていて、昔の書き方に合わせるのが大変でした……。台詞をあまり書かない癖がついて、ノリとテンポの良い作品が書けなくなってしまいました。「このシリーズの雰囲気はこんな感じじゃない!」と自分自身違和感を抱いております。受け入れていただけると幸いです(汗)。
 時期は「完敗宣言」より少し前をイメージしております。時期設定を覚えていなくて、慌てて自分の作品を読み返したという間抜けぶり。相変わらず主人公の名前が出てきませんが、いっそのこと出さない方向でいこうと思います。



モドル