[橋]
部屋 人を招きいれるから客間という。 リビングルームとか居間とか呼ばれる空間が、普通の住宅の客間にあたる。 我が家の場合、居間と客間は別物であった。 だからといって別々の部屋が用意されているわけではない。 むしろ土地は狭く、居間と食卓と台所は突き抜けて一つの部屋になっていた。 台所と居間はカーテンで分けることができるが、その境目にテレビがおかれているため、十数年二つの部屋は遮られることはなかった。 居間は、家族の団欒ができる空間ではあるが、客間にはなりえない、ということだ。 家族しか入れない空間がそこにはある。 母の寝室なのだ。 我が家の居間というのは。 家には(風呂場やトイレは考えないとして)部屋が四つある。 二階に三部屋、一階にぶち抜きの一部屋だ。 三部屋はそれぞれ、僕と兄と父の寝室となっている。 うちの夫婦は僕の親であるだけあって、誰かと空間を共有することは特にしたがらなかった。 夫婦が同じ部屋に寝る、ということも特になく、結果空いている一階に母の寝室が出来た。 一階には家族の生活空間しかなかった。 ベッドが置けるのは居間くらいだったし、十数年前は僕のベビーベッドも一階にあった。 玄関を入って、一番手前の部屋に入ったとたん、眼前に飛び込む寝室。 とてもではないが、それは、居間とは呼べても客間とは呼べなかった。 僕は本来人を家に上がらせたくはないのである。 うちには客間がないからだ。 いちいち母親のベッドを片付けるのも面倒である。 どうせ家には何もない。 菓子もない。 飲み物も牛乳しかない。 いつだったか、飲み物は牛乳と水道水どちらが良いか尋ねたら、水道水と言われた。 牛乳好きの僕はたいそうショックを受けた。 一種トラウマみたいなものだった。 年を経るごとに増していった。 家に人様を上げたくない。 上げれば殊更自分の異質さが暴かれてしまう。 一般性の波に溺れることには抗いたかったが、異端者として白い目で見られることも良しとはしなかった。 もちろん、見知らぬ人間からどう思われようと僕はかまわない。 一時的に同じ空間に遭遇しただけの他人はただのオブジェクトにも等しいと僕は認識している。 友人だからいけないのだ。 家に上げても良いというくらいに思っている友人は、オブジェクトとは異なる。 それは動く人間なのだ。 白い目で見られるのは避けたいところであるし、僕だって彼らを優遇したいという気はあるのだ。 しかし優遇するにはあまりにも環境が悪すぎた。 入り口を開けた瞬間家の者しか受け入れない空間が用意されていては、優遇どころか客を招き入れること自体が憚れる。 僕は家に人を招き入れたくはないのである。 「ねーねー、満、早く家に入れろよー」 僕の肩にあごを載せて、小鳥のように橋は鳴いた。 親に餌をねだる様に似ている。 ひな鳥にしてはいささか大きすぎる図体だが。 僕も平均身長はあるのだがそれよりもさらに幾分か大きい。 それなりに筋肉がついた体は厳ついということはないがお世辞にも華奢とは言えない。 筋肉もあまりついておらず貧弱な部類に入るのはむしろ僕であろう。 満。 僕の名前であるが、あまり好きではない。 「みつる」ではなく「みちる」なのだ。 まるで女の子のような響きだと思っている。 優しい響きの方が良いという両親の配慮であるが、僕はまったく優しくない人間に育った。 人付き合いも苦手で他人と関りを持たなかった。 せっかく両親にもらった名前だが、他人からは苗字でしか呼ばれなかった。 喜んで名前を呼ぶのは橋くらいである。 僕は家の鍵を握り締めたまま硬直していた。 「判っているよ」と口では答えるが腕は動かない。 脳の命令を無視して未だに抗っているのがうかがえる。 いい加減観念しろ、と僕は僕自身に言い聞かせた。 無駄なのである。 道中に何度も橋を制止したが、橋は止まらなかった。 結局は最終地点までたどり着いてしまった。 言うなれば目の前にある扉は最終関門なのだが、今となってはただの薄ぺらい紙ほどの強度しか持たない。 突破はいとも簡単である。 「良いな、本を借りたら、さっさと帰るんだぞ」 「はーい」 調子に乗って橋は僕の首に巻き付く。 これは全然判っていないな。 僕はため息をついた。諦めるしかない。 穴にさした鍵はすんなりと潜り込んだ。 右にひねると鍵が開く音がする。 ドアは開くと錆びて軋んだ音を立てるが、思いの外スムーズに開いた。 ドアを開けると、半ばほどで大きな音が鳴る。 橋が驚いてドアを見るが、気にすることはない、いつものことだ。 僕が覚えている限りでは十年以上前からこうだ。 玄関には靴がなかった。 あるのはサンダルだけ。 家族はみんな出払っている。 部活動にも行っていない僕はこのごろ一番帰宅が早かった。 両親は共働きであるため帰宅は遅いし、大学生の兄はレポートが重なり連日学校で悪戦苦闘している。 この時期が過ぎれば兄も暇になって、家の主は兄になるのだろう。 僕は靴を脱いで上がり込む。 自分の家なのに、橋がいるせいか妙に緊張した。 まるで住み慣れた我が家が他人の物になってしまったかのようだ。 親が子供より先に家を選んだため、僕は引っ越しというものを経験したことがない。 僕の家は生まれてこの方たった一つであり、この家以外に、僕の帰るところはないのだ。 そのせいか他の場所で寝るとどうにも寝心地は悪い。 眠れない。 その家すらも他人のものになってしまい、僕はホームレスになってしまったような気がした。 心のホームレスだ。 一応橋がいる手前、靴をそろえる。 「どうぞ」と促すと、橋は身を低くして「おじゃまします」と言った。 こそこそと入ってくる。 その動作がまるで知らない場所に連れてこられた小動物のようだったので、僕は思わず可愛いと思ってしまった。 右を見て左を見て。 橋は始終首を小刻みに動かしている。 玄関には折れた傘が何本も置いてあって、箒とちり取りがあって、自転車の空気入れがあって、雑然としている。 汚さを自覚して、僕は急に恥ずかしくなった。 両手で橋の頬を押さえる。 これで、周りは見えはしまい。 顔を押さえつけられ、橋は数回瞬きをする。 頬の筋肉動かしたのが、押さえる手のひらから伝わってきた。 笑ったのだ。 「何? キスしたいの?」 僕は一瞬にして頭に血が上るのが判った。 瞬時に顔が熱くなる。 僕の頬はきっと赤いだろう。 心臓が跳ね上がるのと同時に腕も跳ね上がった。 橋から数歩離れる。 橋がにやにやした笑みを浮かべていたので、僕はそっぽを向いた。 「早く上がってくれ」 短くそう言い残して、二階へと逃げ込む。 段差のきつい階段を一段抜かしで駆け上がっていくと、古い床は体重をかけるごとに軋んで音を立てた。 僕の部屋は階段を上がって右手にある。 四畳半ほどで、ベッドに勉強机、本棚、洋服ダンスを置いてしまえば、座る場所すらもほとんどない。 どれだけきれいにしたって狭苦しい印象はぬぐい去れない。 閉所が好きな僕にはとても快適な部屋なのだが。 階段の音で橋が二階へ上がってきたのが判る。 確かめるかのように慎重だ。 「お前の家の階段、少し段差きつくねぇ?」 「慣れればそうでもない」 段差が急なのは自覚していることなので否定はしない。 背がまだ低かった頃は上の段に手を付きながら上っていたものだ。 毎日上り下りしているおかげで今では目を閉じていても踏み外しはしない。 上がってきた橋を手招きして自分の部屋に入れる。 隣は兄の部屋、向かいは父の部屋なので、のぞかれると少し困る。 家族仲が良いというか秘密は作らない主義というか、ドアにはカギがついていないどころか始終開けっ放しである。 少しのぞき込めば中の様子は十分に分かる。 僕の部屋が一番小さいから、他のどの部屋も僕の部屋よりは広々としているのだが。 はっきり言って自分の部屋を見られるのが一番恥ずかしい。 案の定、橋の第一の感想は「こぢんまりとした部屋」だった。 狭い部屋にベッドを置くのがそもそもの間違いなのだろうが、部屋についているロッカーの中身は父が使う工具の類でいっぱいだった。 布団が入る余地はない。 元々は父の部屋だったものを、父が単身赴任するにあたって譲り受けた。 以来父は和室を自室代わりに使っている。 僕は橋を部屋の入り口に立たせておく。 僕の部屋に人が複数入るだけのスペースはない。 橋が僕の部屋の中をまじまじと観察しているのが判ったが、待たせているので仕方がないかと諦める。 待っている間これをやっていてくれ、と差し出せる物でもあればいいのだが、あいにくそんな物は僕の部屋に存在しなかった。 ベッドの下から、橋に貸す予定の本を引きずり出す。 本棚は昔の教科書から今使っている教科書まで全て詰め込んだら、他の物が入らなくなってしまった。 ベッドは四本の足に支えられていて、床から数十センチ隙間がある。 そこに漫画や文庫本を敷き詰めていて、第二の本棚と化していた。 ちゃんとした場所にしまっているわけではないので、多少本が曲がっているのは致し方がない。 しかしあまり読まないため本自体は非常にきれいだ。 ベッドの下だから日に当たって黄ばむこともない。 順番通りに並べているので途中が抜けていることもない。 冊数を数えてから、橋に手渡す。 「サンキュー! これ読みたかったんだよな!」 嬉しそうに表紙を眺めて、口をいっぱい広げて破顔した。 意図のない笑顔は無防備で、可愛らしくて、思わずときめいてしまう。 けして可愛い見かけではないのに、それどころか格好いいのに、ふとしたところで思わず「可愛い」と思ってしまう瞬間がある。 その瞬間が何より幸せで、それだけで僕は全てにおいて満足できるのだった。 僕は橋が好きだ。 好きと言うより、この感情は幸福だ。 橋を見ていると幸せになれる。 僕のより所はこの幸福のみであって、他には何もないし、他には何もいらないと思う。 だからこの瞬間だけは誰にも奪われたくない。 橋と一緒にいたいと思う。 だけど僕が橋を喜ばせられることは少ないから。 それだけでは、僕の好きな橋の笑顔は見られないから。 僕は少し離れた所で、時折橋を眺めるだけで良い。 他の誰かが橋に笑顔を与えているのを見るのはあまり好ましいものではないけれど、橋が幸せならその方が良い。 何よりも良い。 今日は特殊な日であって、今日が過ぎれば、また橋は別の誰かと一緒にいることになるのだろう。 この日、この瞬間だけ。 僕はそれをもっと欲しいと欲張ることはしない。 橋にとってそれは幸福なことではないから。 だから、ささやかに望むのだ。 この空間が、橋にとって幸福でありますように。 橋。 君の幸福こそが、僕にとって何よりも幸福。 END 初めて出てきた主人公の名前。 主人公は葉原満です。 広い草原のように、優しく雄大でありなさい、という思いが込められていたりなかったり。 人物の親がどんな思いを込めて名前を付けたかを考えるのが面白いです。 室内の描写は自分の部屋をイメージして書いたのですが、主人公が妙に自分と重なって複雑な心境です。 私はこんなに鬱々していません(少なくとも死にたくはないです)。 |