[橋]
カッターナイフ



この腐りきった手首を切り落としたいと、常々思っていた。

僕は醜い。
心身共に腐りきっている。
体の中から腐臭を伴う血液を押し出すことができたら、僕はどんなに幸せなことだろうか。

簡単なことだ。
手首にカッターナイフを当てて、出血を促すために湯に手首をつければいい。
何円で人は死ねるのだろうか。
どうやらコンビニエンスストアで事足りそうだった。

衝動的に死ぬことは良しとは思わないが、いつでも死ねるように新品のカッターナイフをいたる所に常備していた。
洗面所、台所、自室のペン立ての中、かばんの中……。
日常の中に死が潜んでいる。

放っておいても、日々数え切れない人間が死んでいる。
放っておいても僕は天命によって死ぬのではないか。
自ら手を下さなくても、僕は裁かれるのではないだろうか。
この腐った心と体を持つ存在が打ち砕かれるときが来るのではなかろうか。
淡い期待を持ちながら僕はまだ生きている。
未だにそのときというのは訪れていない。

もう一つ、僕には希望があるのだが、それはまさしく希薄な望みのように思われる。
君だ。
僕の隣でファイルをあさっている君だ。

君。
僕の友人で、高校入学直後誰とも会話をせずにいた僕に話し掛けてきてくれた。
同じ中学だったらしいが、僕はあまり認識していなかった。
中学時代は一度も同じクラスになったことがなかった。
名は、柊橋(ひいらぎきょう)。

僕が手首を切り落とすことは、僕にとっては何の後悔もなく、むしろ望みである。
しかし橋はしかりつけてくれそうな気がするのだ。
笑い、さげすみ、悲しんでくれるような気がするのだ。

そこまで橋が僕を気にかけてくれているかどうかは知らないが、もちろん橋に尋ねてみるわけにもいかない。
僕にとって最たる希望なのである。
もし僕が橋に何の情けも抱かれていないと知ることになれば、僕は何の迷いもなく、新品のカッターナイフを開けるだろう。
この腐りきった手首に刃を押し当て、何のためらいもなく横に引くのだろう。

橋は信じられないと嘆くかもしれない。
カッターナイフは文房具だ。
紙を切るための道具だ。
それで人の肌を切ろうということは、橋にとっては、愚かなことだろう。
僕は道具の使い方もわからない幼児以下だ。

彼には意思がある。
それはあまりにも彼自身の中で不変的だ。
少々お堅い人間に見られる所見もある。
彼がこうと言ったら彼の中でそれはそうでしかない。

僕の隣の席に座っている。
一番前の席だった。
少し前につめすぎていて、教壇が目の前にある。

義務教育の直中、僕は急に眼を悪くした。
連日テレビゲームに興じていたためだ。
分厚い眼鏡をかけている。
最近また目が悪くなったようで、一番前でなければ、黒板の文字はにじんで見えなかった。

対して彼の場合は、後方の席は授業中らしからぬ話し声が耳に障るのだと言った。
水の中の油のごとく皆が避ける一番前の席に堂々と腰を下ろした。

胸が苦しくなった。
自分の浅ましさが身にしみる。
橋はいつでも輝きすぎて、僕はその隣にいることがふさわしくないように思われる。
他人だからかもしれない。
自分が持っていないものは一際大きく見えるものだ。

橋はファイルの中からわら半紙を取り出した。
僕は横目にそれを見た。
先日配られた、提出用プリントだった。
まだ提出期限まで日にちがあったので、僕は何も書いていない。
署名があって、判子が押してあって、あとは切り離すだけだった。

筆箱の中を探ってから僕の方を見た。
なんとなく判った。
「ハサミある?」
僕は首を横に振った。
「カッターナイフならある」
「じゃあカッターナイフ貸して」
封筒を片手に持ち、空いた方の手を僕に差し出して言った。
僕は首を縦に振った。

筆箱を開ける。
一番上には、新品のカッターナイフが入っていた。
パッケージは日本特有の過剰包装気味で、筆箱の中ではややかさばる。
それをよけて、すでに空いているはずのカッターナイフを探した。
「一番上の、違うの?」
橋が僕の方を覗き込む。
僕は開いていないからと適当に言いつくろった。
橋はすんなり頷いて身を引いた。

このカッターナイフはいけないのである。
なぜならこれは、僕の腐った身を切り落とすための刃だからだ。
それを橋に貸すことなどできなかった。
まだ切り落としてはないのだが、なぜだか刃も不浄な気がした。

筆箱の中もきれいではなかった。
所々消しゴムのかすがこびりついていて汚らしい。
その一番底からカッターナイフを引っ張り出した。
どこかの社名が書いてある。
使い込まれた、黄色いカッターの文字は、消えかかっていた。

カッターを橋に渡す。
渡す瞬間、かすかに指が触れた。
電気が駆け巡った。
体中がこわばる。
動揺を隠すつもりが、慌てて手を引っ込めてしまった。

不浄なものが触れてはいけない。
息をするのもはばかられる。
生きているのも申し訳ない。

ああ、僕が本当にこの世のことを思うのならば、すぐさま我が身をこの世から消し去るのが良いのだろう。

僕は新品のカッターナイフを握り締めた。
橋はカッターの刃を出す。
きりきりと、あの独特の音が響く。
ひどく緊張感を伴う音だ。
それゆえに神経は研ぎ澄まされる。
一瞬、不浄なものがぱっと取り払われる錯覚に陥る。
僕はこの音が大変好みだった。

橋はカッターを紙に押し当てて静かに切った。
紙のこすれる音はかすかな悲鳴であろうか。
切れた端はきれいだった。

僕という存在も、この世界からきれいに切り取れはしないのだろうか。
カッターナイフを、手首に押し当てて、横に引いて、それで……。

つなぎとめているのは唯一つ。
橋という存在。
橋がいなければ僕はとうに正しい選択をしていた。
腐った人間を、僕自身を、適切に処分していただろう。

たった一人の人間が僕をつないでいる。
僕とこの世の掛け橋。

橋。

君を好きだという気持ちが、僕を殺させない唯一の術。



END

自殺願望のある少年の話。
「しかし橋はしかりつけてくれそうな気がするのだ。笑い、さげすみ、悲しんでくれるような気がするのだ。」という一文がふと頭に浮かんで、衝動的に書いてしまいました。
一方的な思いだけれど、特別な存在がいる。
そんな思いを書きたくなりました。



モドル