[ただいま]


 ドアが開くと、機内の人間は我先にとその小さな穴に集中する。出入り口は人間を排出しきれずに人だかりを作っていた。
 急いで機内を出なければならない理由もそうないだろうに、なぜのんびり席に座って待てないのだろうか。窓の外ではこれから発射すると思われる大型旅客機が、まあ慌てるなと言いたげに、ゆっくりと旋回してこちらに尾翼を向けた。
 滑走路を縁取るようにして建物が見える狭苦しい飛行場は「まさに日本」という感じがして、帰ってきたのだなと何となく思う。夏休みの間の一週間、俺は海を隔てたオーストラリアにいたわけだが、飛行機の中でぼんやりしていたら勝手についていたので、実感は特に湧かない。
 言葉が通じないわけでもないし、食事が口に合わなかったわけでもない。強いて言えば、いつも顔を合わせる奴らがいないことに、違和感を覚えるくらいだった。
 飛行場を出て電車に乗って、ぼんやりしていればまた行きと同じように、いつの間にか家についてしまうのだろう。来るときと違って、定時までに来なければ飛行機においていかれてしまうという事情もなく、俺には焦る理由が一つもなかった。
 だから俺は人ごみを避け、一人ぽつねんと座席に座っていた――かというとそうでもなくて、ちゃっかり出入り口を前にし、列になってるんだかなっていないんだか判らない、人の塊の後ろに引っ付いていた。
 ホームシックを起こしたわけではないが、何となく早く帰りたい。まったくもって論理的な理由ではないんだけど。そのささやかな感情は俺自身を勝手に動かして足を進める。人だかりを形成する周囲の彼らも同じような心境なのかなと思った。
 一人入り口を通り、前にわずかな空間ができるが、並んでいるようで列になっていない入り口周囲は、割り込んだ者勝ちだった。中年の男が身を横にして隙間に体をねじ込ませる。
 後ろにいた女性が男の背中に胸を押されて後ろに下がる。小さな悲鳴は談話にかき消されていて、男は気づかずにそのまま前に進んでいった。
 やがて連鎖的に俺の前にも隙間ができるが、俺はあえて前には詰めずバランスを崩しかかったその女性のためにスペースを空けてやった。
「大丈夫ですか?」
 押されないようかばうようにして女性の周りに手を伸ばす。小柄な彼女のために俺は少し身を屈めて声をかけた。
 女性ははっと首を上げて、思ったより俺の頭が上にあったせいか、もう一段階首を曲げる。
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げてまた上を見る。忙しい作業だ。人ごみの中でさえなければもう少し目線を合わせるのだが。
「先、どうぞ」
 隙間に目配せして女性に言う。女性はやや迷って視線を行き来させるが、放っておいても他の誰かが隙間を埋めてしまうだけなので、後ろの人が俺の手を押して前に進もうとするのを見て、大人しく足を一歩進めた。
 入り口では客室乗務員の女性がいて、壁にへばりつくように立ちながら浅い礼をし、「お疲れ様でした。またご利用ください」という台詞を繰り返している。きれいな声で姿勢も良かったが、それが逆に機械みたいだった。
 本当に生きているのかと疑わしく感じ、入り口をくぐる瞬間、こちらを見た彼女に笑いかけてみた。彼女はほのかに赤くなって、視線を不自然な方向にねじ曲げ、台詞を噛んだ。彼女は人間だったようだ。
 入り口を過ぎてしまえば通路は人の動きがないわけではなく、ゆっくりながらも立ち止まらずに進むことができた。その中にさっき助けた女性は埋もれてしまった。人より若干背の高い俺の視界は比較的良好だが、人ごみの中では女性の姿は二度と確認することができなかった。
 また会う人間ではないからどうでもいい。目に見える範囲の女性は助けるが、わざわざ困っている人を探し出して手を貸すほどのボランティア精神は俺にはなかった。
 航空券を改札機に通し広い空間に出ると、なぜか人口密度は増した。乗降口のように人が前へ前へと進んでいくわけではないので余計に人がごったがえしている。立ち話をしたり、これから飛行機に乗る人を見送ったり、店の辺りをうろうろしていたり。やるんならもう少し広いところに行ってくれないか。
 天井は吹き抜けで、規則的に並んだ白い照明がはるか上の方に見える。無駄な空間だ。その部分に床を付けて人間を敷き詰めた方がいい。
 もはや男女の区別しか見えない頭部の群れの中で、先に気づいたのは、どちらだっただろうか。目が合った。
 隙間なく埋まっているベンチの傍、人ごみに押され窮屈そうに肩を縮める影があった。目の覚めるような白に近い金髪がの下で眉が歪められている。光の具合で青っぽく見えるような不思議な色彩の目が確かに俺を捕らえていた。
 彼は眉間のしわを解き、柔らかく表情を崩した。薄く開いた唇が優しく俺の名前をなぞったのが、俺には判った。
「ゆうだい」
 俺は人ごみを押して前に進んだ。服越しに肉が肌を押す。夏場だからみんな薄着で、その分肌と汗が直接触れ合う。気持ち悪い。できることなら掃除機で全部吸い取って除去したい。
 それよりも今は彼の元にたどり着くことが先決で、俺は肉を割って彼を追った。彼の方も頭を動かして何やら人ごみを掻き分けようと奮闘しているが、生憎押し戻されて終わった。完全に力負けしている。小柄な上に人ごみが苦手なくせして、無理するから。
 俺は手を伸ばしてその先にあった細い腕をつかむ。人ごみの中でも、俺は一発でその小さな手を探り当てることができる。腕を引っ張って、その先についているのが本当に彼の顔なのか、確認するまでもない。
 俺は腕ごと彼の体を引き寄せ、顔を見ることもせず抱きしめた。小さな体は俺の腕に調度良く収まった。相変わらずの俺サイズ。抱きしめて一番心地よい形。
 人ごみに押されることを言い訳に、いつもより腕をしっかり回して引っ付く。
「苦し……」
 小さな呟きが下から聞こえてきたけど、その手はちゃんと俺の服をつかんでいて、「離れろ」とは言わないのが彼なりのオーケーサイン。俺はお言葉に甘えて、下の方にある彼の頭に頬をくっつけ、彼の頭を抱え込むようにして拘束を強める。。
 あごを引き金髪に顔を埋めてつむじにキスをすると、さすがに恥ずかしくなったのか、彼は頭を振って俺を見上げた。
 つり目がちの大きな瞳に俺の顔が映っている。瞳は濡れていて、その表面に眼前のものが映りこむ。当然のことなのだけど、俺の前に彼がいて、彼の前に俺がいるという――極当たり前の現象が、妙に嬉しく思う。帰ってきたのだと最高に実感する。
「迎えに来てくれたんだ」
 「ん」と短い肯定の返事が返ってくる。
「他のみんなは?」
「家。葉子は夏生と」
「でぇとですか。薄情者〜」
 葉子も夏生も俺たちの家族で、だから俺が今日帰国するのは知っているはずなんだけれど、よりによってその日にデートを設定するところが二人らしい。
「でも」
 俺はできる限り身を屈めて、白い耳に唇を寄せる。暑いからか、少し赤みを帯びた白い肌は、瑞々しくて思わずかぶりつきたくなる。
「雪夜がいるからそれでいい」
 結局我慢しきれなくて軽く口に含んだ。柔らかい肌を前歯で軽く噛み、舌で形をなぞる。腕の中の体が小さく震えた。
 腕の力を緩めて胸の中のものを見ると、顔を俺の胸に埋めて縮こまっていた。耳が赤くなっているが、もう片方の耳も赤くなっているので、別に俺が強く噛みすぎたせいではない。
 雪夜は俺の着ているシャツをできる限り引っ張って、自分の顔を隠そうとしていた。恥ずかしがっていることはばればれなのに。可愛いから大人しく雪夜の望むとおりに顔を見ないでおいてやりたいけど、可愛いから目が離せないパラドックス。どっちにしたらいいか判らない、激しい葛藤ってやつ?
 俺には選べない。すべての動作が雪夜を感じさせるから、雪夜のどんなしぐさも見たいし、応えてやりたい。雪夜の存在すべてを味わいたい。俺が雪夜の傍に帰ってきたんだってことを全身で確かめたい――。
「ただいま」
 とりあえず、帰ってきたことの意思表明。雪夜は唇を俺の胸から引き離して呟く。ああ、ほのかに空いた空間でさえわびしい。
「まだ家についてないだろ」
 違うよ。俺はもう帰ってきてるよ。と言っても、上手くこのことを表現できないから、雪夜は不思議そうな顔をするのだろうけど。
 俺は背筋を伸ばして、人ごみの上から辺りを見回し、丸と逆三角の青いシンボルマークを見つける。吹き抜けの空間を挟んで向こう側の通路、緑色の非常口のすぐ横だ。
 俺はそこまで雪夜を引っ張っていくことにする。なぜって、もっと雪夜と引っ付いていたいからだ。数日分の徹夜を十数時間の惰眠で埋めるみたいに、数日分の雪夜を早く補いたい。
 俺のいるべき所は常に雪夜の傍で、俺の五感は雪夜を感じるためにあって、雪夜を感じることによって、俺は帰ってきたということを強く実感する。俺の帰る場所は雪夜の所なんだ。
 だから、俺が「ただいま」を言うのは、いつも君の元。
 俺は「ただいま」を言い足りなくて、雪夜に代わりのキスを落とす。おでこへの軽いキスで、俺的には遠慮したつもりなんだけれど。
 俺はトイレにたどり着く前に、雪夜パンチを頬にくらった。


FIN.

 ちるはさんに捧げたものです。しかし「悠大はアメリカに留学は行っていない!」という訂正を受けたので、オーストラリアに変えてみました。うちの中学校(某県某市立)は普通にオーストラリアとの交換留学が盛んだったのですが他のところではどうなんでしょうね。
 悠大と雪夜がトイレに入ってナニをするかは推して知るべし。



モドル