[手のひらの力]


 皮膚に外側からじわじわと浸食してくるような痛みが、薄れていく。共に、指先の存在感がなくなってきた。目には見えているのに感覚がない。自分の手首から先、他人の手がくっついているような気分だった。
 浩二は血の気が引いて白くなった自分の手に息を吹きかけた。白いおぼろげな塊が口から飛び出す。かろうじて感覚の残っている手のひらの辺りは燃えるように熱さを感じたが、指先には何も感じない。
 通学時間自転車で三十分少々、北風に当てられてすっかり冷えてしまった。特に末端の冷えは毎年激しい。手の指など血管が詰まっているのではないかと思う。
 指に力を入れてみると、一センチほど曲がった。それ以上は力も入らない。力を抜くと指はぎこちなく元の角度に戻った。
 浩二は聞き分けの悪い手を動かすことを諦めて上着のポケットに入れた。太腿の半ば辺りで裾の切れた短めのコートは、外気に冷やされている。フェルトを圧縮したて寄せ集めたような素材は重い割りに保温性に欠ける。
 あともう少し。浩二は野球部が練習している校庭の脇を足早に通り過ぎた。桜の木が突き立っているが、今は葉もなく細い枝だけが空をさまよっている。風が枝の隙間を通り抜けて浩二の短い髪を撫でた。
 野球部員たちは長袖のユニフォームにアンダーシャツしか着ていなかったが、走り回っているので寒くはなさそうだ。もう朝練も終わりの時間らしく、ホームベースを片手に一年生がグラウンドをよぎっていく。
 グラウンドの隅に遠慮がちに立っている時計を見れば、ホームルームの二十分前だった。本当ならホームルームの十五分前には着替えに入っているのが望ましい。時間がないせいかどこか慌しげに部員が交差する。
「浩二〜、おはよ」
 ぼんやりと視線を向けていたら、野球部の一人が浩二に向かって手を振り上げた。帽子の下にあったのはクラスメイトの顔だ。浩二は手を挙げ「おはよう」と返す。指は相変わらず感覚がないので、手首の上に力なく乗っかっているだけだった。
 校庭を囲む高い緑色のネットを潜り抜けると、貫禄のある(小汚い)校舎が鎮座していた。その足元に下駄箱がある。中に入り込むと風が遮断されて肌をこする痛みはマシになった。ガラス張りの昇降口は開けっ放しなので、外と中の気温は大して変わらない。
 数十年間姿の変わらない下駄箱は古ぼけた木製で、靴底のゴムの臭いをたっぷり含んでいる。そのせいか換気は十分のはずなのに昇降口の中の空気は、靴の臭いが混じっていた。
 靴を脱いで下駄箱の下に引いてあるすのこの上に足を乗せる。何年間同じものを使っているのか、足の欠けたすのこは不安定だ。浩二の体重に押されて手前の方が沈む。一歩足を前に出す度にすのこの足がコンクリートの床を叩く。かんかんとやかましい音を立てるが、毎日聞いていれば雑音とすら認識されなくなってきた。
 使い古されたスニーカーを指に引っ掛けて拾い上げる。体育のときも同じものを使っているので磨耗が早い。体育のない日はローファーを履いてきているのだが、あいにく今日の三時間目は体育で、スニーカーを履き替えるのが面倒臭いからそのまま履いてきてしまった。
 入り口向かって右側、一番下の下駄箱のふたを開けて靴をしまいこむ。上履きをすのこの上に落として足を突っ込んだ。一晩下駄箱の中に寝かされた上履きはいい感じに冷たいが、手と同じように感覚の麻痺している足の指には何の冷たさも伝わってこなかった。
 足でふたを閉じ肩からずり落ちかけたカバンを掛け直す。律儀に教科書を持ち帰っていると重くて仕方がない。比べて友人の夏樹のカバンは大変軽いが、その分頭も軽くて成績の方は芳しくないので、それもどうかと思う。
 つま先を床に押し付けてかかとを上履きの中に押し込む。廊下を右に曲がって上に上がる階段に足を掛けたとき、正面から見知った顔が二つ近づいてきた。一人はいまどき珍しく学ランのボタンを上まできっちり閉めていて、もう一人は一つも閉めていなかった。学ラン全開きの方が少しだけ背が高い。
 無視しようか声を掛けようか浩二は一瞬迷ったが、一人はクラスメイトなので、一応後者を選ぶ。無視するのは体裁が悪いだろう。
「勇也、おはよう」
 少し小柄な方が顔を正面に向けた。隣にいるのが長身のがたいの良い男なので小柄と表現するが、実際は十分平均身長を上回っている。真っ黒な髪は癖のせいではねているが、部活後のせいかさらにぼさぼさが加わっていた。指摘した方が良いかとも思ったが、教室に行けば誰かしら言うだろう。そして女子とかがどこからとなく百円均一で買った安物の櫛を出して梳かしていく。それが女子からの好意だということには気づかずに、勇也は笑顔で「おーきに」とか返すのだ。スポーツ推薦ではるばる関西からやってきた空手部のエースは、空手馬鹿で他のことにはてんで無頓着だ。それが日常。
「おはよう」
 近づくと、勇也の身長は浩二とちょうど同じくらいだ。その隣で、始終笑っているような細めの釣り目が、笑みを深くして浩二を見下ろした。
「ナイスシカト!」
 何故か面白そうにガッツポーズを突き出す。浩二に無視されても全く気にする様子はない。どうせいつものことだ。中学からの腐れ縁なのでもう四年の伝統を誇っている(春になって三学年に上がれば五年なる)。浩二はあからさまにため息をついてみせた。
「いたのか安倉」
「いや最初からいたし」
「でかいから気づかなかった」
「眼鏡壊れてるんじゃねー?」
 安倉は笑いながら、黒縁がトレードマークの浩二の眼鏡を指で小突く。レンズはよく磨かれていて、廊下の蛍光灯が綺麗に映りこんだ。浩二は一歩下がり不愉快そうにフレームを指先で押し上げた。
「失敬な、俺の眼鏡は何でも見える眼鏡だぜ?」
 浩二は口の端を片方だけ吊り上げる。レンズの奥で釣り目がちの瞳が細く鋭くなる。眼鏡が印象的過ぎるせいで目立たないが、くっきりとした二重だ。
「安倉、てめー今日寒いとか駄々こねて部活早めに終わらせやがったな」
「何で判るん?」
 勇也が眼を大きく瞬かせた。少し関西方面のなまりが入った口調で口を開く。浩二は大げさに肩をすくめた。
「この眼鏡は何でも見えるのさ」
「へぇ〜」
 勇也が深々と二,三度頷く。本気で感心しているのか少し心配になってくる。
 本当は、ただ残念なことに腐れ縁が長すぎて安倉の行動が手に取るように判るだけだ。新聞部の部長を務めているので情報収集力と分析力には自信がある。校内一の情報通、という噂は嘘ではない。暴走しがちの安倉の行動を阻止する内に、自然と先読みもできるようになっていった。
「まぁ」安倉は身を反転させ、浩二の隣に並ぶ。「俺と浩二の仲だから〜」
 安倉の腕が浩二の肩に回される。制服の袖がまくれ上がって、安倉の太い手首が見えた。そのまま安倉の体重が浩二に寄りかかってくる。筋肉質なのでずっしりと重い。コート越しでなければ胸板の硬さがうかがえただろう。
 勇也は「仲ええな」と笑いながら見ている。傍から見たら友人がふざけあっているようにしか見えないのだろうが、安倉の性癖を知っている身としては冗談ではない。安倉が同性が好きなことを知っているのは学校内ではおそらく浩二とその他数人だけなので、周りから誤解されることはないのだが。
 安倉から一番標的にされている友人をフォローするために浩二が毎日どれだけ苦心しているか、当の本人である勇也は知らない。安倉を普通の友人だと思っている以上、知らない方が幸せなのだろう。
「ざけんな」
 浩二は眉間に限界までしわを寄せて、安倉の腕を後ろに押し戻した。安倉もふざけているだけなのであっさり腕を引く。肩が軽くなった。
 ついでに浩二は手を安倉の襟首に伸ばした。髪が短いので非常に首を狙いやすい。学ランの襟と髪の生え際に指が触れると、熱さが痛みになって侵食してきた。茶色がかった髪の先が肌を刺す。
「冷てっ!」
 不意をつかれて、安倉は大きく横によろめいた。身をよじって、首筋を押さえながら浩二を見る。珍しく目が見開かれていて、浩二は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 室内に入ったおかげか指は多少動くようになった。最高に冷えた手を安倉にお見舞いできなかったことが残念だ。真っ白だった手のひらに赤い色が浮き出てきていた。
 安倉が抗議の声を口を開くが、「何すんだ」の「何」まで言ったところで別の声に妨害された。
「あ〜、浩二、勇也、アングラー、おはよー」」
 手を大きく振りながら小柄な影が廊下を突進してくる。浩二と安倉の正面、赤桐の後ろからだ。そちらが体育館なので、朝練帰りの生徒がよくこの廊下を通る。
 隣の校舎に続く渡り廊下は日中は保温のために扉が閉められているが、人がよく通る朝の時間帯は開けたままになっている。誰かが閉めても誰かが開けっ放しで通っていくので、結局は空いている時間の方が長い。渡り廊下まで真っすぐ伸びる廊下の壁には掲示板が並んでおり、文化祭の時期はポスターで埋め尽くされるのだが、今は色あせた深緑色に埋め尽くされているだけだった。
 ちゃんと履いていない上履きのかかとをかぽかぽならしながら、彼は赤桐の背中に激突。もちろん加減はされているが、振り向くのが遅れた赤桐は身をそらせる。足を一歩前に出して踏みとどまった。相手の体重が軽かったことが幸いだ。
 赤桐は首をひねって腰の辺りにくっつている物体を見下ろす。明るい茶色の頭が赤桐の肩甲骨にうずくまっていた。
「何や笹原、ピックリしたわ」
 赤桐が素直に漏らすと、まだ幼さの残る顔が上を向き、歯を見せてにかっと笑う。本人はこれから成長期が来るのだと主張して止まないが、高二の冬にしてちゃんと立っても安倉の鼻に届くかどうかだ。一七〇はたぶんないだろう。
「夏樹、おはよう」
 赤桐の後ろに回り、浩二が夏樹を引き離す。夏樹は大げさに後ろに倒れこんで、今度は浩二の胸に後頭部を押し付けた。
「ちゃんと立てよ」
 浩二が夏樹の肩を揺らしながら言うと、夏樹は唇の間からちらりと舌をのぞかせる。
「嫌だ、疲れた」
 そのまま目を閉じて、心地よさそうに浩二に体重を預けた。コート越しに肋骨が押される。安倉と違って小柄な体は大して重くない。柔道部に入っているものの、筋肉がつきにくい体質なのか、あまりごつくもなかった(もしかすると筋肉をつけすぎると身長が伸びないという浩二の言葉を恐れて筋トレをそこまでやっていないのかもしれない)。
 日に当たると綺麗な蜂蜜色になる柔らかな髪が後頭部で押しつぶされる。浩二は夏樹の頭を撫でてやりたい衝動に駆られた。一年のとき同じクラスだった縁で仲良くなった浩二と夏樹だが、友人と言うよりは保護者と子供だ。
 大き目の目が伏せ目がちになると、まつげの長さが際立つ。眠気のせいか黒目は潤んでいた。まぶたが上下運動を繰り返し、だんだんと下に向かう力が勝っていく。非常に微笑ましい限りだがこのまま眠ってしまいそうな勢いだ。浩二は少し迷ってから、夏樹の頬に手を触れた。弾力のある頬を少し押す。
「冷たっ!」
 夏樹の体がぱっと離れる。勢い余って前につんのめった。前傾姿勢で倒れこむ夏樹の襟首を安倉が片手で掴む。夏樹の頭が一瞬上に跳ね上がって、また重力で下に引き戻されていった。詰襟に首が絞まって夏樹の口から呻き声が漏れる。
 頬に自分の手をあてて、夏樹はぱちぱちをまぶたを合わせる。よほど驚いたらしい。しばらく安倉の腕に釣り下がる状態になって、苦しくなったところで上体を起こした。
 安倉の手をほどいて夏樹が後ろを振り返ると、浩二が手を肩の辺りまで上げてひらひらと振った。
「どーだ」
 大げさに伸ばし棒を入れて、誇らしげに浩二が言う。
「どうだと言われてもな」
 安倉が浩二の攻撃を食らった首筋を掻きながら口を挟む。手が冷たいのは才能でも偉大なる努力の成果でも何もない。ただの冷え性だ。
 夏樹はくるりときびすを返し、冷気の正体に大股二歩で歩み寄る。さっと腕を伸ばし浩二の手を掴み取った。
  不意をつかれて、浩二の心臓が跳ね上がる。熱が手から体に浸透してきて、顔が一気に沸騰した。頬の辺りが酸性の液体に触れたりトマス紙みたいにぱっと赤くなる。
「なななんなよ」
 浩二の顎がかくかくと動く。「何だよ」と言いたいのだろうが言えていない。
「浩二、何その手の冷たさ。ちゃんと脈あんのか?」
「なかったら死人やん」
 浩二の心境を知らない夏樹と赤桐が交互に口を開く。一人安倉だけが一歩離れたところで楽しそうに笑っている。浩二は八つ当たりのように安倉をにらみつけた。
 結局は浩二も安倉と状況は一緒なのだ。好きな相手は男で。不毛な恋を続けている。
 浩二は胸の中で大きなため息をついた。何秒間息を吐き出し続けても憂鬱な気分は吐き出しきれない。誰が好き好んで報われない恋をしなければならないのか。そんなの無意味だろ、と自分に言い聞かせるようにして問いかける。安倉を見て幾度となく「どうして野郎なんかを好きになるのだろう」と思っていたはずなのに、人の気持ちは理屈ではないことを思い知らされる。
 心の中では何度でも言える。白状するよ、俺は夏樹が好きだ。
 浩二を親友とすら思っている夏樹の思いを踏みにじるような言葉は当然言えるはずもなく、浩二の告白は胸の中だけで終わるのだ。全ての真実を解き明かす新聞部部長(自称)が聞いて呆れる。
 ため息に乗せて浩二の中で渦巻く悩みが一瞬の内に頭を駆け巡る。肺から空気の在庫が切れたところで、呼吸を吸う方に切り替える。鬱々とした思考回路も同時に切断する。
「こんな所に突っ立ってたらいい加減体も冷える。早く教室に行こう」
 言いながら夏樹の手を振り払おうとするが、握る力が思いのほか強くて失敗に終わった。浩二は夏樹を見下ろす。もう一度手を上に上げて、勢いをつけて振り下ろす。夏樹の手は離れない。腕の力を抜くと、二つの手がつながったまま下に落ちてしばらく前後に揺れた。
 先に数歩進んでいた安倉と赤桐が、ついてこない浩二と夏樹を振り返る。浩二は視界の端に二人の姿を捉えながら、夏樹に向き直る。
「何の真似だ」
「人間湯たんぽ」
 夏樹は口の端を斜め横に広げて、大きな笑みを作る。いたずらっぽく白い歯が見せられる。夏樹は浩二の腕を引っ張って、安倉と赤桐の間に入り込んだ。
「いざ行かん、暖房の場所へ!」
 夏樹は開いている方の手で階段を指差し、楽しそうに口を開く。安倉が浩二を押し出すようにして夏樹に寄り、「そうしよう!」と言う。浩二は眉間にしわを作って、安倉と夏樹の間に夏樹とつないでいる方の手を差し込み、割り込んだ。
 安倉と目が合い、にらみ合う。浩二と安倉の視線が交わる直線上に、一瞬の火花が散った。浩二は今だったら安倉に負ける気がしなかった。わずかに負けている身長も今では気にならない。
 力を授かるようにして、夏樹の手を強めに握り返す。指先はすっかり命を吹き込まれて燃えるような熱を発している。感覚の通わなかった死んだ指とは大違いだ。指に細かい網目状の管が走り、筒状の通路を通ってパワーが全身に行き渡るのを感じる。
 指の付け根からは汗もにじんでいた。人間湯たんぽの力は偉大である。きっと夏樹自体が、浩二にとって偉大なのだ。
 どんなに浩二が冷え固まっていても、夏樹はその身一つで溶かしてくれる。心であろうと身体であろうと、お構いなしだ。昔も今も、それは変わらない。
 お子様じみた少し高い手の体温は、皮膚の外側からじわじわと浸食して、浩二を動かすエネルギーになる。


Fin.

 ヤマト高校一同の冬の日常風景です。キャラによって苗字で呼ばれたり名前で呼ばれたりしているので、一応フルネームを記載しておくと、赤桐勇也、安倉正平、笹原夏樹、高山浩二です。
 メインは浩二×夏樹です。浩二や夏樹が結構しゃべるキャラなので、勇也の印象が薄くなって困ります。安倉はキャラ濃いし。もう一つ考えている、この話の続編にあたる話でもう一度勇也が出てくるので、そっちでリベンジです。



モドル