[雨の誘い]



剣道部の朱野先輩は、格好いい。
もちろん剣道も強いし、顔も頭も良いんだ。

俺は、朱野先輩以上に剣道着をきっちり着こなす人を知らない。
丁寧な結び目は布をベストポジションに位置づけ、動きやすさも見目も格段に良くなる。
一度、入部したての頃、朱野先輩に剣道着を着せて貰った。
着心地が全然違くて、本当驚いたんだ。
何て、剣道のことをすごく考えている人なんだろうと、思った。

木刀を構える時、先輩は一段と鋭くなった。
まるで、大木。
雄大に、その幹は動かず。
それでいて、獲物を捕らえる獣の如く、しなやかで素早い。
前世は侍だったんじゃないかと思うほど、剣の道を知り尽くし、剣を己の一部のように定める。
だから、1年生の憧れだ。
俺含め、全員の。

いつからだろう、この気持ちが変化し始めたのは。
憧れが、独占欲に変わっていったのは。

いつからだろう、彼を、俺一人の物にしたくなったのは。



ダンッ、ダンッと、体育館に一定のリズムが響く。
素足が、床を叩きつける音だ。
今日は剣道部が体育館を優先的に使える日なので、他の部活はいない。
というか部活はとうの30分前に終わっているから、剣道部すらまともにいない。
いるのは、俺と、朱野先輩だけだった。

朱野先輩は、いつも部活の後に自主練習をする。
それを知ったのは、割と最近。
すぐ近くにいたくて、朱野先輩が帰るまで居残りしてからだ。

俺は竹刀を構えて、体の中心に合わせる。
足を一歩踏みだし、竹刀を上に上げる。
それは、ほんの一瞬の動作だ。
思いっきり、足と竹刀を下へと叩きつけた。
「はぁっ!」
気合いと同時に、弾けるような音が響いた。

帰りは遅くなるし、追加の練習ですっごくつかれるけれど。
「お、久遠。
日に日に動きが鋭くなっていくな」

先輩に、俺の名前を呼んでもらえるなら。
俺のことを見てもらえるなら。
それで良かった。

なのに、どうしてだろう。
自分でも、押さえられないんだ。
それだけじゃ足らない。
もっと欲しいんです、先輩。

あなたが。

「じゃ、そろそろ帰るか。
あんまり遅くまでいると、校門が閉じられてしまう」
先輩は、口元に緩やかな笑みを浮かべて、言った。
俺は黙って頷いた。

並ぶと、少し見上げるくらいの身長。
背も高いだなんて、本当先輩に悪い所何てあるのだろうか。

何でも出来る人間。
疎ましがられる存在だけど、実際に先輩を嫌う人はいない。
気さくな人であるし、奢ることなく、分別のある性格の先輩は多くの人の共感を得やすい。

それに、彼の側には絶えず、不幸がある。
イタズラ好きの先輩が彼につきまとっているからだ。
それは朱野先輩の幼馴染みで、その度の過ぎたイタズラのせいで先輩はいつも酷い仕打ちを受ける。
誰も、朱野先輩が幸せ者だとは思わない。
その幼馴染みと共にいる限り、それが先輩の不運なのだ。

それが、二人の望む関係だと思うのは、俺の思い過ごしか?
二人がそろえば、均衡は保たれる。
二人は望んで側にいる。
そう思えるのは、俺の嫉妬心のせいだろうか。

先輩は幼馴染みの側にいる限り、誰からも憎まれることはない。
誰から嫌われても、きっと一緒に乗り越えていけるんだろう。
その幼馴染みは好きな子を苛めるタイプの人間だ、多分、先輩のことを好いている。
だから、むしろ、嫌なんだ。
先輩を好きな人間が、先輩の側にいて、しかもそれを許されている。
嫌だった。
俺以外の人間が、先輩の側にいることが。

心の内を、奥へと追いやり、俺は一言絞り出した。
「先輩、一緒に帰りましょう?」
先輩は、もちろんだと言うように、微笑んで頷いた。



外へ出れば、雨音が随分と五月蠅かった。
「うわ、いつの間に降ってきてたんだ?」
体育館の屋根の下、先輩はげんなりと言った。
恐らく、体育館の中にいたからよく判らなかったんだと思う。
それか、今降り出したかだ。

「今日の天気予報では、晴れだって言ってたのに。
最近当たらないな」
「そうでうね」
雨雲を見上げる先輩を盗み見ながら、俺は頷いた。
綺麗な横顔。
絶えず、その場に応じた表情が刻まれる、事務的な顔。
それに気付いている人間は、あまりいないだろう。
自己の中で誇張し、俺は苦笑した。
きっと、先輩の中では、俺の存在なんて小さいのだろうな。

笑いをごまかすように、俺は手持ちの折り畳み傘を開く。
数歩、体育館の屋根から抜けた所で、先輩が動かないことに気付いた。
「先輩、どうしました?」
振り返ってみれば、珍しい先輩の困った顔。

先輩は、言いづらそうに口を開いた。
「いやぁ……、傘を忘れた」
俺はその時、さぞかし驚いた顔をしたに違いない。
先輩は、言い訳するように続けた。
「雨、振ると思ってなかったから……」

苦笑する先輩は、えらく人間くさかった。
何でも出来る、マルチ人間などではなく、ちょっとドジな青年といった感じ。
不意を付かれて、俺はあからさまに顔を赤らめた。

ああ、こんな時に馬鹿みたいに赤くなるなんて!
先輩に気付かれたら、恥ずかしいじゃないか!

思いが胸をかすめて、無言で顔の向きを変えた。
同時に、別の考えが浮かぶ。
先輩が傘を持っていないのなら、これはチャンスかもしれない。
俺はどきどき高鳴る心臓を押さえて、何とか言おうと思った。
言うんだ、こんな事、絶対にもう訪れるはずがない!

意を決して、俺は元の位置まで戻る。
顔が赤くならないように注意しながら、傘を差しだした。
「えと……、一緒に、入っていきませんか?」

先輩は、一瞬きょとんとした。
何だろう、俺なんか変だったかな?!
返答が、なかなか来なくて、俺の心は不安で一杯になった。
やっぱり、俺の傘を使って下さい、って言って走り去った方が良かっただろうか?

でも、どうやらそうではないらしかった。
「本当に、良いのか?」
「へ?」
意外な言葉に、俺は間の抜けた声を返す。
「いや、何か決死の思いで言ってるからさ、嫌々言ってるんじゃないのか?
無理しなくても良いよ、自転車で飛ばせば、家はすぐそこだし」
まったくもって見当外れだった。
謙虚すぎっるって、先輩!

俺は首を思いっきり横に振る。
「いえ、本当、一緒に帰っていただけると嬉しいです!」
勢い余って、傘が落ちる。
そのせいで、俺の赤い顔が先輩に見えてしまった。
うわ〜、下心モロ見えだよ!
でも、今度は顔を逸らさない。
先輩は、きっと勘違いしてしまうだろうから。
精一杯先輩の顔を見上げて、目を合わせた。

先輩が、おかしそうに笑う。
「そこまでムキにならなくても良いだろ?
面白い奴だな」
頭をくしゃりと撫でられて、それはそれは嬉しかった。
嬉しくて涙が出そうだったけど、耐える。
女々しくてたまるかっ。

先輩は俺の傘を拾い上げて、「持つよ」と言った。
その後に続いて俺も歩き出す。

この状況を「相合い傘」だなんて言ったら、ダメでしょうか。
今は、それだけの夢に溺れていたい。
いつかすべてを独り占めしたいだなんて、夢のまた夢だから。
少しだけうぬぼれた夢を見つつ、俺は短い間だけ。

先輩の隣を独占していた。



FIN

久遠の淡い片思い。
当初は「佐渡」と書いて「さわたり」でした。
佐渡の性格がだいぶかけ離れてしまったので名前の方を修正。
せっかく書いた作品を全面改定するのはもったいなかったので(言い訳)。



モドル